【小説】星と心のクロニクル(全5回)第一章:団欒を知らない獅子
【一】
その男、片山壮一は、一族の長でありながら、常に輪の外にいた。
横浜の山手に構えた邸宅。
蝉の声が庭の緑に吸い込まれていく夏の午後、客間からは16歳下の弟・信二一家の、絵に描いたような幸せな団欒の声が漏れてくる。
壮一は一人、縁側で分厚い経済紙を広げていた。
その紙面は、港から吹く湿った風を受けても、彼の心を映すように微動だにしない。
壮一の記憶は、いつも高崎(群馬県)の乾いた風の匂いから始まる。
祖父が事業に失敗し、両親が横浜へ夜逃げ同然に移った時、彼はたった一人、親戚の家に預けられた。
愛情というものがどんな温度で、どんな形をしているのか、壮一は知らなかった。
ただ、いとこたちが両親にじゃれつく光景を、昔の外国映画のように眺めるだけだった。
甘えたい、と願うことさえ、許されない気がしていた。
ようやく横浜で事業が軌道に乗ったと、父から迎えが来たのは、思春期の盛りを過ぎた頃だった。
17年ぶりに見た父と母。
その腕の中には、太陽のように屈託なく笑う弟・信二がいた。
その日から、壮一の本当の孤独が始まった。
両親の愛情がどんなものかを知り、そして、それが決して自分には向けられないことも知ってしまったからだ。
「大きくなったな、壮一。これからはお前がこの家を支えるんだ」
父は17年間の空白を埋めるように、壮一に跡継ぎとしての道を押し付けた。
高崎の旧家の娘・美枝子との結婚も、その一環だった。
「横浜という都会に行きたい」という野心を持つ彼女との間に、愛情はなかった。
互いに求めるものが違う、静かで完璧な共犯関係。
それが二人の家庭だった。
経済的には、満たされていた。
父が残した会社を兄と弟で分け、今では六つのグループ会社が片山一族の富を支えている。
だが、壮一の心には、高崎のからっ風が吹き抜けるような、広大な空洞が広がっていた。
壁の向こうから、姪の瑞希の声が聞こえたことがある。
「伯父さんは、しし座のO型だし、本来ならば、人と交わるのが好きなはず!」
それを諫める母親……信二の妻……の声。
「そんな事はない!経済的にも恵まれているのだから、それは絶対にない」
経済的に恵まれていれば、幸福だと?
壮一は小さく鼻で笑った。
この一族の中で、自分の心の形に気づいているのは、あの不思議な姪だけなのかもしれない。
【二】
私、瑞希には、時々、人の心の輪郭が見えることがある。
それは色だったり、形だったり、あるいは温度だったりする。
父や母、家族の心は、暖色系の柔らかな光の球のように見える。
けれど、伯父の壮一さんだけは違った。
伯父さんの心は、まるで硬く冷たい、幾何学的な水晶のようだ。
美しく、近寄りがたいけど、その内側には無数のひび割れが、私にだけは見える。
「伯父さんは、ああいう人だから」
家族は皆、そう言って彼を遠巻きにする。
経済的に一族を支える、気難しく孤独な長。
でも、私には分かる。
伯父さんは「ああいう人」なのではない。
そうなるしかなかったのだ。
伯父さん自身の心の中の水晶が、これ以上砕けないように、分厚い氷の壁で、自分自身を守っている、それだけなのだ。
このままでは、伯父さんの心が本当に死んでしまう。
いつか、ひび割れた水晶が音もなく崩れて、ただの砂になってしまう。
そう思うと、胸が苦しくなった。
私は、誰もしないことをしよう、と決めた。
あの氷の壁を、ノックしてみよう。
たとえ、指先が凍りついても。
私は急須に熱い茶を注ぐと、お盆に乗せて、伯父さんのいる書斎へと向かった。
【三】
書斎の窓の外では、庭の隅に植えられた一本の獅子頭の木が、夏の終わりの強い西日を浴びて、濃い影を地面に落としていた。
その影の形が、まるで檻のように見えた。
壮一は、古いアルバムを静かに閉じた。
高崎の親戚の家で撮られた、硬い表情の少年。
あの頃から何も変わってはいない。
この豊かで、孤独な檻の中で、ずっと。
コン、コン。
控えめなノックの音に、壮一は顔を上げた。
「伯父さん、お茶、淹れたんだけど」
入ってきたのは、瑞希だった。
彼女は盆に湯呑を二つ乗せ、少し躊躇いがちに立っていた。
壮一は何も言わず、ただ、彼女が近づいてくるのを黙って見ていた。
瑞希は壮一の前に湯呑を置くと、意を決したように、まっすぐ彼の目を見た。
「伯父さん、時々、すごく寂しそうな顔をしてる」
その声は、静かだが、壮一の心の最も深い場所に真っ直ぐ届いた。
「誰もいない場所を、ずっと見ているような…。高崎に、何か忘れてきたものがあるみたいに」
壮一の時間が、止まった。
忘れてきたもの。違う。何もかも、そこにあった。ただ、自分だけが、その輪の外にいただけだ。
初めてだった。誰かに、自分の心の風景を言い当てられたのは。
何十年も凍りついていた何かが、きしりと音を立てた気がした。
壮一の口から、自分でも予期しない言葉がこぼれた。
「…柱の陰から、見ていただけだ。ずっと」
それは、誰にも言ったことのない、彼の人生の原風景だった。
瑞希は、ただ静かに頷いた。その瞳は、すべてを分かっている、と語っていた。
壮一は、ゆっくりと湯呑を手に取った。指先に伝わる温かさが、まるで初めて触れる感情のようだった。一口、茶をすする。玉露の甘みが、乾ききった喉にじんわりと染み渡った。
「……美味いな」
それは、独り言のような、か細い呟きだった。
だが、その一言は、檻のようだった影に、小さな隙間を開けるのに十分な響きを持っていた。
書斎に差し込む西日は、もう、ただの夕暮れの光に見えた。
彼の長い夏が、終わろうとしていた。

