【小説】ニュースが沈黙した夜 —— 「10.19」(1988年)〜さよなら、昭和のテレビジョン〜【第1章】 企業の論理、冷徹な朝
1988年(昭和63年)10月19日 午前11時
某…民放テレビ・東京キー局 六本木センター
報道フロアは、いつも通りの戦場だった。
リクルート事件の新たな疑惑、天皇陛下(当時)の容態に関する定時報告、そして空前の好景気に浮かれる街の話題。それらがテレタイプと電話のベルの音に乗って、濁流のように流れ込んでくる。
その濁流を切り裂くように、社会部のデスクが怒鳴った。
「おい! 経済部! 裏は取れたのか! 本当に今日発表するのか!?」
その怒声を聞き流しながら、久住は愛用のマグカップ片手にフロアに入ってきた。
仕立ての良いスーツを着こなし、どこか浮世離れしたオーラを纏っている。
「朝から元気だねぇ。またリクルートの江副さんが何かやらかしたの?」
久住が軽口を叩くと、顔面蒼白のチーフプロデューサーが駆け寄ってきた。
「久住さん、とんでもないネタが飛び込んできました。今日のトップニュース、差し替えです」
「差し替え? 陛下のご容態か?」
「違います。プロ野球です」
久住は眉をひそめた。彼は大のプロ野球好きだが、ニュース番組のトップに野球を持ってくることには慎重だった。
「今日はパ・リーグの優勝チームが決まる日だ。西武か近鉄か。だが、それはスポーツコーナーの話だろう」
「試合の話じゃないんです。……身売りです」
「身売り?」
「阪急電鉄が、ブレーブスの球団を『アジア・リース』に売却します。今日の午後、正式発表です」
久住の動きが止まった。
阪急ブレーブス。パ・リーグの盟主。
昭和のプロ野球を支えた名門中の名門が、身売り?

「……買い手は、アジア・リースか。あの、山内(やまうち)社長のところだな」
脳裏に、理知的だが冷徹な光を宿した経営者の顔が浮かんだ。
急成長中の総合リース会社。
これからの時代を象徴するような、金融とサービスの一大複合企業を目指している様子だ。
スマートで、無駄がなく、そしてどこか冷たい。
「しかし、なぜ『今日』なんだ?」
久住の眉間に深い皺が刻まれた。
「今日は、近鉄バファローズが勝つか負けるか、伝説になるかも知れないダブルヘッダーの日だぞ。野球ファンも、マスコミも、全員が川崎球場に注目している日だ。なんでわざわざ、こんな日に水を差すような発表をぶつけてくる?」
プロデューサーが困惑した顔でメモを読み上げた。
「アジア・リース側の説明では……山内社長の海外出張のスケジュールや、役員会の承認のタイミングで、どうしても今日しかなかった、と。他意はないそうです」
「ハッ!」
久住は鼻で笑った。冷ややかで、鋭利な刃物のような笑いだった。
「スケジュールの都合、ね。……まあ、表向きはそう言うだろうな」
彼はデスクの上の新聞を乱暴に払いのけた。
「だがな、俺にはどうしても『偶然』には思えない。あまりにも出来すぎたタイミングだ」
「と、言いますと?」
「無名の会社が球団を買う。最大の目的は知名度だ。だったら、誰も野球なんて見ていない日に発表しても意味がない。……そうだろう?」
久住は報道フロアを見渡した。誰もが「阪急身売り」の対応に追われている。近鉄の優勝がかかった試合のことなど、今の時点では二の次だ。
「今日だ。今日じゃないとダメなんだ。日本中がパ・リーグに注目している今日この日に、『あの阪急を買ったのは誰だ?』と強烈なインパクトを刻み込む。俺には、近鉄の優勝争いという最高の舞台を、彼らが自社の宣伝のための『無料の看板』として利用しようとしている……そんなビジネスライクな計算が透けて見える気がするんだよ」
「まさか。考えすぎでしょう?」
「…だといいがな。だが、あの社長の涼しい顔を見ていると、俺はどうしても『そろばん』の音を聞いてしまうんだ」
久住の中に、ふつふつと黒い怒りが湧き上がってきた。
それは単なる野球ファンとしての怒りではない。
これからきっと遠からずやってくる「新たな元号」の時代が、人の情熱や汗よりも、カネと宣伝効果を優先するドライな時代になることへの、予感めいた嫌悪感だった。
窓の外、東京の空は不穏な曇天だった。
川崎球場では、あと数時間もしないうちに、近鉄の選手らが人生を賭けた試合を始めようとしている。
だが、その頭上にはすでに、冷徹なビジネスの論理という暗雲が垂れ込めていた。
そして、もう一つの「悪意」が、川崎球場で待ち構えていることを、この時の久住はまだ知らない。
その名は、「オーシャンズ」。そして、それを率いる内藤(ないとう)監督である。
