【小説】ニュースが沈黙した夜 —— 「10.19」(1988年)〜さよなら、昭和のテレビジョン〜【第2章】 歪んだ熱狂、川崎球場
同日 午後3時過ぎ。
某…民放テレビ・東京キー局 スタジオ裏
本番前のスタジオは、ただただ深海の底のように静かだった。
久住は、自分のデスクのモニターに映し出された中継映像を見つめていた。そこには、この世のものとは思えない光景が広がっていた。
川崎球場。
普段は閑古鳥が鳴き、スタンドのどこに座っても前の人の頭が邪魔にならない、当時のパ・リーグの不人気ぶりを象徴するような場所だ。
錆びついた鉄骨、塗装の剥げたベンチ。
そのうらぶれた雰囲気を、久住は嫌いではなかった。
だが、今日の川崎球場は全く違っていた。
「……なんだ、これは」
モニターの中の球場は、人間で溢れかえっていた。
スタンドは立錐の余地もなく、入りきれなかった群衆が球場を取り囲み、隣接する建物の屋上や非常階段にまで人が鈴なりになっている。
まるで、傾きかけた巨大な船に群がる蟻のようだ。
「警察が出動しているそうです。周辺道路は麻痺状態だと」
スポーツ局のディレクターが、興奮と不安が入り混じった声で報告に来た。
「近鉄の応援団だけじゃないな。これは」
久住は眼鏡の位置を直しながら呟いた。
「普段野球なんて見ない連中だ。『今日、ここで何かが起きる』という匂いを嗅ぎつけて集まってきた、野次馬の群れだ」
そこにあるのは、純粋なスポーツへの声援だけではなかった。
昭和という一つの元号のおそらく最後に、何かとてつもないドラマを目撃したいという、大衆の飢餓感のようなエネルギーが渦巻いていた。
その熱気は、冷えたモニター越しにも伝わってくるほどだった。

久住の視線が、モニターの隅に映ったベンチに向けられた。
熱狂するスタンドとは対照的に、そこだけ空気が淀んでいる場所があった。
対戦相手、オーシャンズのベンチだ。
彼らにとって、今日の試合は何の意味も持たない。
優勝争いからはとうに脱落し、ただ消化試合としてここにいる。
「見てみろ、あの内藤監督の顔を」
久住はモニターを指さした。
「『なんで俺たちがこんな目に遭わなきゃいけないんだ』って顔をしてる。彼らにとっては、近鉄の奇跡のドラマなんてどうでもいい。ただの迷惑なサービス残業なんだよ」
久住は、そこに危ういものを感じ取っていた。
熱狂する近鉄と、冷めきったオーシャンズ。
この極端な温度差は、やがて歪な形の「壁」となって、近鉄の前に立ちはだかるのではないか。
「……経済部が持ってきた『アジア・リース』の原稿、まだ決定稿じゃないな?」
久住は不意に振り返り、チーフプロデューサーに尋ねた。
「ええ、まあ。まだ少し手直しが……」
「構成を少し変えよう。トップはアジア・リースへの身売りでいい。だが、時間を削れ」
「えっ? しかし、今日一番の経済ニュースですよ?」
久住はモニターから目を離さずに言った。
「俺の勘が言ってるんだ。今日の主役は、会議室の中の連中じゃない。あの錆びついた球場で、汗と泥にまみれている奴らなんだ」
彼のニュースキャスターとしての本能が、警鐘を鳴らしていた。
企業の冷徹な論理が支配する朝が終わり、今、現場の狂気じみた熱情が支配する夜が始まろうとしている。
そしてその狭間で、自分はどう振る舞うべきなのか。
「……回線を確保しておけよ。川崎との」
久住は独り言のように呟いた。
「今夜は、長い夜になるぞ」
(第3章へ続く)
