純喫茶の話を聴いて、コメダで氷を噛む
『純喫茶トルンカ』八木沢里志/Audible/朗読・板倉ミキ 谷中の路地裏の喫茶店に、人がひとりずつ来ては帰っていく連作。
純喫茶トルンカを聴いている。
千代子さんの初恋の話がよかった。歩きながら聴いていて、坂の途中で、なんでもない一行に足が止まった。初恋の中身は書かない。ただ、ずいぶん前に終わったはずの感情が、ちゃんとまだ熱を持っているのが伝わってきた。板倉ミキの声は最後まで静かで、押してこない。おだやかに待たれているうちに、こっちが勝手に効いた。聴き終わってからも、しばらく耳の奥に残っていた。
この本には、ひとつ困ったところがある。聴いていると、無性にコーヒーが飲みたくなる。トルンカで淹れられるやつだ。豆を挽いて、湯気が立って、白いカップに注がれる、あの熱いコーヒー。耳がそれを欲しがる。気づくと足がそっちに向かっている。
それで、コメダに着いた。
谷中の純喫茶ではなく、チェーンの珈琲店。本の中のあの店とはぜんぜん違う。けれど、コーヒーが飲みたいという欲だけは本物だったので、まあいい、と思って入った。
頼んだのはアイスコーヒー。

ここが、本とのいちばんのズレだった。耳の中ではあんなに湯気の立つ一杯に憧れていたのに、長崎は暑い。汗をかいた体は、熱いコーヒーを受けつけてくれなかった。出てきたのは、ずっしりした樽みたいなマグに、氷がぎっしり入った冷たいやつ。憧れていたものと、手元にあるもの。ぜんぜん違うのに、ひと口飲んだら、これはこれで正しかった。氷を一個、口の中で噛んだ。
ついでにフィッシュバーガーも頼んでしまった。

白身フライに、四角いチーズが一枚ずるりと垂れて、下には千切りのキャベツがぎっしり。喫茶店のコーヒーのお供にしては、ずいぶん大きい。かじると、衣はまだ温かくて、キャベツだけが冷たい。千代子さんの初恋を頭のすみで反芻しながら、フィッシュバーガーをでかい口で食べている自分が、ちょっとおかしかった。物語はしんみり、現実は両手でバーガー。
食べ終わって、樽マグの底の氷がぜんぶ溶ける前に席を立つ。
外はまだ暑い。耳の中では、トルンカのドアの鈴がまた鳴って、次の客が入ってくる。最終巻の続きが気になって、たぶん帰り道も、聴きながら坂を上る。

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