耳はとんかつ、腹は焼き肉


ここから先は、文章で。
『食堂のおばちゃん』山口恵以子/Audible 聴くと必ず腹が減る、飯の出てくる本。
ピラティスの帰り、坂を下りながら『食堂のおばちゃん』を聴いていた。
東京の佃にある「はじめ食堂」を、姑と嫁と従業員の三人で切り盛りする話だ。焼き魚定食、海老フライ、卵とじうどん。安くて、腹も財布も満たされる町の食堂が舞台になっている。大きな事件は起きない。誰かが飯を食べて、少し元気になって帰っていく。それだけの話が、なぜか何巻も続いている。
山口恵以子の本には、いつも飯が出てくる。食堂のおばちゃん、婚活食堂、ゆうれい居酒屋。どれを選んでも、聴いているうちに腹が減る。
今聴いているのは第19巻。とんかつの回がある。五十年ぶりに、ある男がその味を訪ねてくる、という話だ。揚げ物の油がはぜる音まで聞こえてきそうなメニューが、回ごとに並ぶ。耳から食べさせられている気分になる。
気がつくと、腹の左下のあたりが鳴っていた。私はまた、腹がへったー、と井之頭五郎になる。
とんかつが食べたい。坂を下りきるころには、頭の中がとんかつでいっぱいになっていた。揚げたての衣と、白い飯。
ところが、家にハガキが来ていた。今月、誕生日の焼き肉クーポン。500円引き。
とんかつへの情熱は、ハガキ一枚であっさり折れた。お得には勝てない。お昼は焼き肉に決まった。
向かったのはかくら。実を言うと、店に入る前から、メガ盛りセットにすると決めていた。とんかつを我慢したぶん、肉で取り返すつもりでいた。
カルビ、ハラミ、豚カルビ、ホルモン。皿いっぱいの肉が来た。網にのせると、脂が落ちて火がぼっと上がる。

焼きながら、さっきまでとんかつのことを考えていたのが嘘みたいだった。人の食欲というのは、その程度のものらしい。
ご飯とスープはおかわり自由。一杯目はすぐ消えた。
そして、デザートまでしっかり食べた。杏仁豆腐と、白い雪見だいふく。もう入らないと思っていたのに、別腹というのは本当にあるのだと毎回思う。

店を出ると、腹が重かった。来たときと同じ坂を、今度は上って帰る。
耳で食べたとんかつは、結局、口に入らなかった。まあ、いい。今度はうちで揚げよう。たぶん揚げないけど。
*漫画は新宇佐美式六号で描きました。
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