見出し画像

生酒の日、三十年前を聴きながら飲む


『その時鐘は鳴り響く』宇佐美まこと/Audible/朗読・浅井晴美 三十年前の一瞬が、今になって鳴り出す話。


今日は生酒の日だそうで、ふくちゃんと晩酌する四コマを描いた。火入れをしていない、生きているお酒。置いておくと味が変わるから、今この一杯は二度と同じには飲めない。マンガの中のわたしはそう力説して、相棒の猫はその横で寝た。

描き終えてから、本物を買いに出た。

夕方の坂は、上りより下りのほうが膝にくる。瓶を提げた手が重い。イヤホンの中では、三十年前に死んだ学生と、いま起きている事件の話が静かに進んでいた。失踪したはずの男が、誰もいない部室の黒板に、昔みんなで言い交わしていた言葉を残していく。なぜ今になって、と登場人物が戸惑う。坂の途中で、わたしも一緒に戸惑っていた。

家に着いて、よく冷やした。カツオのたたきを切って、ゆずポン酢に柚子胡椒。生酒に合わせるなら、これでいい。

一口飲んだら、辛口でキリッとしていた。マンガでは「香りが若い」なんて気取ったことを書いたけれど、実際は思ったより男前の味だった。柚子の酸がカツオの鉄っぽさを締めて、そこへ酒のキレが通る。口の中が重くならない。次の一切れに、すぐ手が伸びる。

耳の中では、まだ三十年前が鳴っている。

妙なものだ、と思った。手元の酒は「今しかない」。聴いている物語は「ずっと鳴り続けている」。向きが正反対なのに、どちらも、ある一瞬が決定的だと言っている。あの夏のあの出来事。栓を開けたこの一杯。過ぎてしまえば、二度と同じには戻らない。戻らないからこそ、誰かはそれを言葉にして黒板に残し、わたしはそれを今、飲み干そうとしている。

カツオはカツオで、今しか食べられない顔をして皿に並んでいる。柚子胡椒がぴりっとくる。生酒のキレが、それを流す。ふくちゃんはやっぱり寝ている。

物語の続きは、まだ知らない。なぜ男が今になって戻ってきたのか、その言葉が何を指すのか、聴き終えていない。じらされたまま、瓶はもう半分になっている。

明日になればこの生酒は、今日とは少し違う味になっているはずだ。それでいい。同じには飲めないものを、同じには聴けない坂で、また聴く。続きが気になって、明日もたぶん、わたしは遠回りして坂を上る。


いいなと思ったら応援しよう!

三毛野たま@AI漫画 記事を読んでくれてありがとうございます。気が向いたら、チップで応援していただけると、次の漫画やエッセイを描く力になります。