思考について思考することの無意味さについて
ここ2年ほど通っていた内科のクリニックが今月末で閉院してしまうということで、昨日が最後の通院だったのですが、記念にそのクリニックでやっている「にんにく注射(といっても本当ににんにくのエキスとかを注射するわけでなく、中味はビタミンB群です)」をいつものプラセンタと一緒に打ってもらったら、ここ一ヶ月ほど続いていた強い倦怠感がほぼほぼ取れてしまって、それでお陰さまで今日から仕事を再開できました。今年は3週間ほど、去年は2週間、一昨年は2ヶ月(!)この季節には仕事を休んでいます。その前も覚えていませんが、だいぶ休みがちだったと思います。
とはいえ、やはりこの間も熱は出ず(一昨年はめっちゃ出た)でした。少しずついい感じになってきているようなので嬉しいですが、それとは別に歯がだんだんなくなっていっているのがこの何年かで浮上してきたヤバめの心配です。悪いお薬に依存していた時期に、歯を一気に悪くしてしまいました。あの手の薬はどれもこれ(あれもこれもやっていたので)も、口が乾くんですよね。口が乾くと虫歯菌が元気になってしまうようで、そういうお薬に手を出したことそのものはまったく後悔はしてないのですが、歯への影響に気づいてなかったことだけは失敗だったと思っています。
さておいて、ここ最近ずっと記事をめっちゃ書いていたのは、仕事をしていない分の代償行為であった可能性もあるあるなのですが、体は倦怠感で動けなくても頭はずっと冴えていて、キーボードを叩くくらいならなんとかなりがちでもあって、なにもしないで寝ているよりはよかったんじゃないかなと思います。内容的にも、これまで書いてきたものとは観点というか角度というか、ちょっと違うものになっていて、そこだけ読んでももちろんよいですけど、これまでのわたしの記事をずっと読んでくださっている方々にとって、すでに得られている理解そのものの再文脈化を促すようなものになったように思います。
ともあれ、そんなこんなですが自分の中では出るものがいったん出きった感じがあります。今回の記事はまたちょっと別の観点というか、すこし前に書いていた話題に戻ってみたいと思います。
一ヶ月ほど前に上のような記事を書きました。そこでの主題は「ストーリー」と「ナラティブ」という概念についてだったんですが、興味深い事例としてジルボルト・テイラーの作話という話をしました。この話自体も非常に大きな意味があるのですが、鍵になっているのは "インタープリター(解釈装置)" という言葉でした。あ、ちなみにですが、今回タイトル画像をお借りしている作者さんと、上の記事でお借りしている作者さんの絵が、わたしがタイトル画像として最も多く使わせていただいている方々です。めっちゃしっくりくるのでめっちゃ好きです。いつもありがとうございます。
さて、インタープリターとはなにかというのは上の記事でもすでに説明していますが、ポイントとしては「左脳の働き(機能)の一つにインタープリターというものがある」ということではなくて「左脳の働きそのものがインタープリター、つまり左脳=インタープリターである」というところです。
わたし自身、このインタープリターについてしっかりこれから学ぼうと意図していまして、まずは言い出しっぺの一人であるガザニガの
この本から読んでいこうと思っています。この本は2020年にKindle版を買ったまま読まずに忘れてしまっていたもので、上の記事を書いていなければそのまま忘れたままになっていた可能性が高かったんですが、Gemini に「インタープリターについて学びたいけどどこから手をつけるべき?」と聞いたところ「そら、まずはガザニガでしょう」と言われたことによって再発見しました。他にも勧められた本がありまして、欲しいものリストに入れさせてもらってます。わたしに読ませてなんか書かせたい人はぜひ遠慮なく贈ってください。しかし、その前に読まないといけない本がまあまああるので、読み始めて読み終えるのはだいぶ先となりそうです。
それでインタープリターですが、ひとまず今のわたしの理解なんですが、そしてこの理解自体は今の時点でもう全然正しいんですが、解釈装置というのはつまり、無意識下にある様々な情報(目の前で起きていることや、それによって喚起される感情や、それに関連しそうな過去の記憶や、その記憶に紐づいた別の感情や、あるいは単にその時の体の調子とか、まったくどうでもいい雑念など)をその場その瞬間にマッチしていそうな「もっともらしい思考」にまとめあげて、さらにそこに「わたしがそれを考えている」というニュアンスまでくっつけて、意識のスクリーンに表示(つまり思考として現れる)する働きのことです。分かりますか? 脳には中心というのはありませんので、各部位で持っている情報を部位同士で投げ合ってうまいこといい感じにガッチャンコして、まとまった考えに成形しないといけないのです。つまりこれは、"情報の統合" です。これがまず今日の話のポイントです。
ですから、要するに左脳はなにをやっているかというと、情報を統合しているわけです。そして、その統合された情報である思考が、事実ないしは真実に即しているかいないかに関わらず「なんかもっともらしい内容になってしまう」ので、これをインタープリター(解釈装置)という別の名前でも呼ぶわけです。この「もっともらしさ」というのは否定的なニュアンスで、言い換えると「でっちあげ」「捏造」「作り話(作話)」ということです。もちろん、結果としては事実を正しく言っていることも往々にしてあるわけなのですが、要するに左脳の解釈(情報の統合)は「よく間違える」のではなくてどっちかというと「正解を言い当てることもある」性質のものなのです。
ここでホーキンズ博士が提示されている情報を Gemini によってまとめた表を再掲します。ここでは意識レベルと身体の階層に注目してください。

重要なのは、低次メンタル体が理性(400~499)のレベルに、高次メンタル体がその上の愛(500~539)のレベルに、それぞれ対応しているということです。メンタル体は思考を司っているので、肉体レベルでは左脳に対応しています。一方、アストラル体は感情体ともいいますが、これは右脳に対応していると考えられます。もちろん、これはあくまで単純な見方です。ただ、ある人が400台の理性(知性)の領域へと飛躍しようというとき、その人はすでにアストラル体を高次にまで発達させている必要があると言えますし、愛のレベルへとさらに成長するためには、高次アストラル体と低次メンタル体がそれぞれ十分に発達していることが前提となります。
つまり、何を言っているのかというと「意識レベルを高めるという観点では、右脳よりも左脳の方が高度な役割を担っている」ということです。別に右脳より左脳の方が偉いなどと言っているわけではないですよ。巷では右脳が偉いと言っている人たちもいますが、そもそも一人の人間に両方ちゃんと備わっているわけですから、どっちが偉くてどっちが悪者とかいうのは、わたしに言わせてもらうなら「ちょっとなに言ってるか分からない」です。左脳に謝りやがれくださいです。
より高い意識レベルとは、より統合された(=統合度の高い)意識の領域と同義です。意識レベル 200未満の領域は非統合的で生命にとって害をなす(つまり生命エネルギーを奪う)ネガティブな領域です。この領域でも右脳はもちろん左脳も機能していますが、左脳には生理的な機能障害(限界 ※)があります。したがって情報をうまく統合することができません。いわゆる「自動思考が止まらない件」は思考が止まらないことが問題なのではなく、思考と強く一体化してしまうことと、もう一つにはその思考の内容が非統合的(ネガティブで有害)だということです。そしてこれは、主としてこの領域の人々に起こっていることです。
※左脳の生理的な機能障害(限界)については、下記の記事の最後の方で触れています。
200以上になると意識は統合に向かいはじめ、ポジティブなエネルギー(パワー)を放ちます。最初にこれを担うのは高次のアストラル体であることが表から読み取れると思います。つまり、思考より前に感情の統合が行われていくということだと思われます。399へと上昇するにつれて感情はより統合され、ポジティブになっていく一方、まだ低次メンタル体は完成しておらず、思考における統合性は限定的です。ですので、この領域の下部でも例の「思考がぐるぐる止まらないと悩んでいる人たちの件」は見られます。
400台になってようやく、低次メンタル体が完成し十分に機能しはじめるようです。しかし、低次メンタル体は線形的な思考を司っているため、霊的なこと、すなわち非線形の領域のことを理解することができません。それが可能なのが高次メンタル体で、これによって意識レベルは500(愛=非線形的真実)を超えることが可能になるわけです。つまり、高次メンタル体のエネルギーが左脳に反映されなければ心は霊的なことを理解できるようにならないということです。
端的にいうと、悟りや覚醒に必要なのは右脳が優位になることではなく、左脳が高度に発達することなのです。
もちろん、左脳だけでよいわけでなく、同時に右脳も高度に発達していなければなりません。ですから、正解としては「左右の脳が高度に発達し統合される」ことが悟りの必要条件だと言えます。しかし、順番というか段階でみていくと、高い意識レベルの領域では左脳の働きが高度化、統合化されることが必要なのは明らかです。
ここでインタープリターの話に戻ると、意識レベルが高まるほどインタープリターの解釈能力が高まっていき、やがては霊的な領域の情報まで統合できるようになると説明できますね。つまり、「もっともらしく話を作る(思考を生み出す)」という働きそのものは意識レベルによっても変わりませんが、出来てくる「話の内容」の質と精度が意識レベルの上昇に伴って向上していくということです。覚者の話は真実の近似値になり得ますが、それは扱われる情報の抽象度と統合性が普通の人よりも遥かに高いためで、本質的に「インタープリターの作り話」であることには変わりないのです。
思考があることは左脳が機能していることと同義です。つまり、左脳がぶっ壊れてでもいないかぎり、思考は誰でも常に起こっています。しかも、わたしたちの顕在意識は潜在意識下において左脳があれやこれやをもっともらしく「でっちあげてきた」ものを事後的に確認しているだけなので、それを止めようとしたり、次になにを考えるかを選んだりすることはできません。すなわち、自由意志はありません。
思考は勝手に起こってくるものなので、それをどうこうすることはできません。そして、言うまでもありませんが、わたしたちは思考がなければなにもできません。霊的な探求者であれば瞑想中などに「いま、思考が止まっている!」という経験をしたことがあるかと思います。でも、ここで間違えてはいけないのは「いま、思考が止まっている!」というこれ自体が思考なんだということです。要するに、人間は左脳が機能している限り、つまり普通に生きている限り、「思考が止まっているという経験」をすることはできないのです。ですから、「あるとき思考がなくなっていることに気づきました」というナラティブはもう完全にインタープリターの作話なのです。このことに気づいてください。
ただし、先ほども書きましたが、思考の内容は意識レベルとともに変わっていきます。支離滅裂で強烈な一体感を生み出すような思考から、澄んだ湖の水面のように穏やかで明晰な思考、さらには言語を超越した非線形的な思考(これはもはや普通の意味での思考ではありませんが)まで、意識レベルが上昇するに伴って、変化していきます。しかし、どんなレベルでも思考は自動で起こってくるものなので、これも繰り返しになりますが、それを止めることはできません。
ちなみに、これには別の観点もあります。DMN(デフォルト・モード・ネットワーク)とは人間が特になにもしていない時の脳の活動状態のことを指しますが、この時にはいわゆる雑念や、とめどない連想といった思考が起こります。いわゆる「自動思考」と呼ばれているものは多分にこれのことを言っていると思われますが、このDMNの内容もまた意識レベルの上昇に伴って抑制的(つまり静か)になっていったり、その内容が統合的なものへと変化していくと考えられます。
もう一つ、なにか仕事に取り組んだり、一つのことを集中的に考えるときには脳はTPN(タスク・ポジティブ・ネットワーク)という状態に遷移します。低い意識レベルではDMNからTPNへの切り替えが上手く行かないと考えることもできそうですし、TPNを駆動しているのは低次メンタル体だとみなせば色々なことがさらに見えてきそうです。
さて、そろそろまとめていこうと思いますが、結論としては思考というものはそれ自体を問題にしたところで、どうにも手の打ちようがありません。自動思考をなくしたい、というのも思考ですし、自動思考をなくすために「あれをやってみよう」「これに取り組んでみよう」と考えているのも思考ですし、やってみた結果「ちょっと進歩したかも」とか「ぜんぜん駄目やな」とか思うそれも思考です。思考、思考、思考しかありません。
なので、わたしからの提案としては「思考について思考すること」や「思考を問題とすること」はもうやめません? というものです。
なぜなら、これらは霊的な探求ではないからです。われわれの心(エゴ)は思考の外に出ることができません。思考を見ているわたし、思考に気づいているわたし、というのは単に一つ階段を上にあがった別の思考なのです。つまり、ただのメタ認知です。心はこのメタ認知の構造から出ることはできないので、必然的に覚醒や悟りという事象は思考の中味にはなんの関係もないということが分かります。覚醒や悟りはエゴの死とかエゴの降伏とか、あるいはエゴを超越することだとか言われていますが、これらすべてが思考の産物なので、全部ハズレです。ですが、強いていえば「エゴの超越」は惜しいな、ちょっとは掠っているなと思います。
というわけで、最後にこのテーマについての Gemini との対話をシェアしておきます。
自分が考えているという錯覚
途中で「猫の穴を狙うネコ」という表現が出てきますが、明らかに「ネズミの穴を狙うネコ」の間違いです。こういうハルシネーションはまだまだ起こしますね。
また、MVOのことをなぜかMVO(生存戦略)と表記しています。正しくはMVO(Maximum Viewpoint Objectivity:客観的な最大視点)です。これもハルシネーションですが、これについてはなぜこのように間違えたのかを別のチャットで問いただしたところ「確かに間違えはしたけどこちらにも言い分はある」と言って、めっちゃ必死に言い訳してきました。一応読んでみたのですが、全然ちんぷんかんぷんでした。うける。
おまけ
ずとまよ。で一番好きな曲って、かなり慎重に考えたんですがやはり第一作として発表されたこの曲なんですよね。最初からこれが出てくるってヤバくないですか? ヤバいですよね。曲も歌唱もそうですが、ずとまよ。のすごいは「MVの映像作品としてのよさ」にもあって、しかもそのよさがもう最初のこの曲にぎゅっと詰まっているところにもあると思うんです。綺羅キラーのMVもすごく好きですが。
あと、去年わたしがYouTube Music で一番多く再生してたのはずとまよ。の「ヒューマノイド」でした。なんかハマってしまって。ちなみにその次は ado の「神っぽいな」でした。これもハマってしまってたんですが、あと、色々持っているイヤホンの聴き比べをする際のリファレンス曲になっていたことも再生回数の多さにつながりました。第3位は Laura day romance の Young life でした。これは以前おまけでシェアしたことがあります。
最初の「レイラサイダサブアッタッシャール」からもう意味が分からなくて癖になります。
原曲と聴き比べると、Ado のヤバさの片鱗をチラ見できると思います。ちなみにこの曲は上に書いた理由で聴きまくってたんですが、Ado の曲で一番好きなのはこちら(下)の曲です。
Vaundy が作った曲なんですが、これいいですよねえ。サバシスターの覚悟を決めろ!の前はこの曲が仕事前の一曲でした。
最後までお読みくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。
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