【超重要】意図の焦点はゼロに収束する ―意識のゼロポイントについて―
前々回、前回と「意図の力」について書いてきました。これらの記事で意図とはなんであるか? そしてそれはどのように作用するか? について大体ご理解いただけたのではないかと思います。特に、心をコヒーレントに揃えてレーザービーム化するという発想は、引き寄せやトランサーフィンに関心を持たれている方々にも受け入れやすい話であったと思います。
ただし、念の為繰り返しますが、意図が現実を引き寄せるのではなく、意図が焦点化するとそれはアトラクターフィールドとなり、このアトラクターフィールドに「あなたが引き寄せられる」のです。意図を結んでいる主体である「あなた」は「あなたの現実」とひっくるめて「幻想」ですから、あなたに現実を引き寄せる力などありません。アトラクターフィールドは人類意識のフィールドに存在している特定の「渦」です。あなたの意図がその普遍的なフィールドに存在している「渦と共鳴」することで、その渦固有の意識レベルの現実へと、幻想のあなたは引き寄せられていくのです。
さて今回は、この「意図の力」についてさらに踏み込んで、より深い霊的な真実へと読者のみなさんを案内したいと思います。今回の話は一度読んだだけでは完全に理解することは難しいでしょう。それに参照しなくてはいけない他のソースもたくさんあります。ぜひ何度も読み直して、内容がしっかりと腑に落ちるまで熟考してください。それだけ重要な話となります。
前々回と前回の記事を読まれていない方は、必ずそちらを先に読んでからこの先へとお進みください。
行為者の消失
では始めていきますが、まずとっかかりは前回の記事に書いたこの文章です。
なにかを選ぶということは、なにか以外のものは選ばないということです。目的を選択し、それに心を集中させると、集中しているその人と、集中されているその対象(目的)は霊的次元において同じ(=ひとつ)になります。それが成就の仕組みですが、ここの部分についてはまた別の記事で取り上げることにしましょう。
この文章の、特に太字の部分が重要です。心を集中させると、集中しているその人と集中の対象が一つになるとはどういうことでしょうか?
アドヴァイタなどのスピリチュアルな文献においてしばしば言及されるものに "観照" という概念があります。詳しくは下記の記事をお読みください(読むと、さらに他の記事をたくさん読む羽目になりますが…)。ちなみにいま自分でざっと読み直したんですが大変な力作ですねこの記事。自分で書いたとは思えません。
とまれ、ここでは観照にまつわる最も本質的な説明として「観るものと観られるものが同じになる」という表現を引き合いに出します。「観るもの」とは幻想であり偽りの行為主体者である "自我(心、エゴ)" のことです。行為主体者の幻想性が見抜かれるとき、行為主体者は消失します。すると、真の行為主体者であり、唯一の主観性であり、非個人的な自己であり、大文字の「SELF」であり、全体性であり、神であるところの「それ」が神自身の現れであるところの「それ」を観ているという状態が顕現します。まあ顕現するというかそもそもこの宇宙には「それ」しかないわけで、普段のわたしたちはエゴが行為主体者であるという、これもまた「神」による聖なる催眠にかかった状態で生きているため「それ」に気づくことができないだけです。
ちょっと言葉遊びが過ぎましたが、まあよしとしましょう。なんとなくでも分かりましたか? 分からなければ上の記事をもう一回読むしかないですね。しかし、その記事には覚醒や悟りとはなにかについて、ほとんどのことがまとまって書いてあります。
今回のこの記事で試みたいのは、この "観照" と "意図の力" を接続することです。すなわち観照を「意図の力という文脈」に、そして同時に意図の力を「観照という文脈」へと置き直します。これはホーキンズ博士のいうところの再文脈化(Recontextualization)です。博士は
スピリチュアルなワークの本質は、自分の人生全体、およびその中にあるすべての出来事を「新しい文脈」で見直すことです
と述べていますが、わたしが最近言い始めている「文脈の接続」とか「正しいコンテクストに置き換える」といったことも、要するにこのリコンテクスチュアリゼーションです。ちなみに引用元の動画についてはあとでまた触れます。
さて、ここでちょっと話を変えます。
数学上の "点" について
ユークリッド幾何学における点は大きさ、方向など位置以外のあらゆる特徴を持たない。
数学上の点には面積も体積もありません。いわば概念上のある一点ということで、物理的な点ではありません。
意図とは心をある一点に集中させることです。この場合の一点とは心のなかにある点のこと、つまり概念上の点ですから、数学上の点と同じく、そこには面積も体積もありません。つまり、"ゼロのポイント(点)" なのです。
意図を結ぶためには、心を対象へと集中させていくわけですが、その対象は最初からこのゼロポイントではありませんね。前回の記事ではそのことを説明しました。しかし心のエネルギーがより集中していくと、方向が定まり、位相が揃って、やがて一点めがけて真っ直ぐ進む指向性を帯びはじめます。これが心のレーザービームです。
前回の記事ではこのレーザービームが意図をアトラクター化し、それによって(なんやかんやで)意図が成就するという説明をしました。これはこれで、意図の成就についての説明としては完結しています。ですからこの考えで終えたとしても、あなたの意図が意識レベルを高めることであるなら、それは成就するでしょう。そうであっても、意識レベルに目標値を定めたほうがさらによいとは思いますけどね。
しかし、この考えをこれから提示する別の考え(文脈)に置き直せば(再文脈化すれば)、あなたの理解は一気に深まって、もはやそれだけであなたの意識レベルは飛躍的に高まるかもしれません。高まらなかったらごめんなさい。でもそれはわたしの問題ではありません。
それでは書きますが、勘のいい人はすでに見当がついているかもしれません。
意図を究極的に集中させると、それはゼロ点へと収束します。
意図に集中していくと、やがて結果への執着もなくなっていきます。「結果(未来)」を考えることは、心の焦点を「"いまここ" にある 一点」からずらし、時間軸という「線」や「面」に広げてしまう行為です。すなわち、結果への執着を排した純粋な意図は "いまここ" という数学上、あるいは概念上のゼロポイントへと収束していくのです。対象が究極的にはゼロ点なので、そこに向かう意図のエネルギーもゼロへと消え去るというわけです。
これを別の観点からとらえると、意図している主体と意図されている対象という二元的な分離が消失するということです。このとき、意識はその場で起こることがただ起こるのを目撃します。分かりましたか? これは観照ですね。もっとも、ここで話題にしているようなケース、つまり探求者が意識レベルを高めるという意図に集中しているような場合では、その意図するところにおいては観照的な分離の消失が起きてはいますが、日常的な生活におけるあれやこれやの局面では通常の意識で過ごしているでしょう。
別の表現を試みるなら、そのとき探求者は部分的に "ゾーン" に入っているわけです。探求そのもの、つまり意識レベルを高めるために取り組むあらゆる行為は(逆説的ですが)意図せずに行えるようになります。しかし、本人が「これは探求とは関係ない」とみなしているあれやこれやについては、ゾーンの外で行うことになるでしょう。しかし、ゆくゆくはすべての行為が「神への捧げ物」であるという理解が浸透しはじめ、そうするとその人は常にゾーンに居るようになっていくでしょう。ならなかったらごめんんなさい(以下略
ちょっと話がややこしくなってきたので、ポイントを整理しましょう。要するに大切なのは「意図は究極的に集中させると消えてしまう」ということを理解することです。
次に、ここまでの話をさらに別のコンテクストと接続します。おそらく、ここが一番重要です。
ホーキンズ博士の教える意識の訓練方法の「もう一つのやつ」
まずは上記の記事をお読みください。すでに読まれている方には申し訳ないですが、もう一回読んでもらえると(あなたが)助かります。
この記事ではホーキンズ博士の『 I <わたし> 真実と主観性』の第二章 「霊的情報と実践」の中で(書籍版ではp.67の後半の部分からです)取り上げられている二つの霊的な訓練方法のうち、一つにフォーカスしています。その方法とは「周辺視野にフォーカスする」というもので、これを行う意味は意識の焦点をコンテクスト(文脈/状況)に向けることにあります。わたしが提案している IF(Intuitive Field)はこの方法を応用発展させたものです。
そして、もう一つの方法とはその正反対で「意識を一点に集中させる」というものです。これは先ほどの周辺視野にフォーカスする方法とおなじく視覚を使って行うこともできます(単に紙に点を書いて、それを凝視する)が、そのときやっている行為に集中してもいいですし、ある考えについて集中する(=熟考する)のでも構いません。しかし、最初は紙に点を書いてやるのが分かりやすいでしょう。
もうお分かりかと思いますが、この方法が "意図" しているのは今しがた書いてきた「観るものの消失」です。周辺視野にフォーカスする方法は言ってみれば「全体にフォーカスする」わけですが、それは結局のところ「どこにもフォーカスしない」のと同じですから、この場合でも焦点はゼロとなり、そこで観るものは消失します。すなわち、アプローチが反対ですが、結果(成果)はまったく同じなのが、この二つのワークなのです。ここで上の in SPIRE の記事でも引用した博士の文章を再掲します。
このふたつの方法の違いは、主としてどこに焦点を置くかであり、ひとつはコンテクスト(文脈/状況)で、もうひとつはコンテント(内容/中身)です。
ひとつ目の方法は、焦点をゆるめた観想の形式で、焦点を中心視野から周辺視野に移します。この観想法では、自らを取り囲む環境全体に常に気づいていなければならず、そのときに特定のものに焦点を置いたり興味を持ったり選んだりしてはいけません。
この方法は、少なくとも当初は、自らがその場にいて参加をしなければならない車の運転などの状況では適切ではありません。しかし後になれば、ほとんど常にできるようになります。しっかりと周辺視野に集中したまま、見るもの聞くものに対し選り好みをしたり拒絶をしたりしないうちに、無執着が養われていきます。すると突如、存在するものすべての完全性と一体性に気づき、それぞれの要素がその本質を完璧に表現していることを知ります。それは、すべてが完璧な平静さと完全な調和をもって進んでいることを明らかにします。
このエクササイズでは、意図や焦点は唯一周辺視野にとどめられ、見たものに対する思考や価値判断に向けてはなりません。しばらくすると、突如実践者は目撃者となり、次に気づきそのものになり、 "わたし" が関わることなく、自発的かつ非個人的にただ機能し続けます。目撃することは、気づきの "個人的な" 幻想を取り除きます。すると、実践者は知覚を超え、その場所は霊的視野に置き換えられます。このエクササイズに努力はいらず、「存在するものすべて」の一体性を、統合と調和の完璧性と恩寵の美として明らかにします。それは「宇宙」の調和のダンスなのです。
ふたつ目のエクササイズは等しく価値がありながらも、正反対の方向から始めるので、要求の多い日々の世界に機能するうえでは適しています。この場合は、遠慮なく中心視野に焦点をとどめ、100%そのときに行っている活動に集中します。
わたしがこれまで一方のワーク、つまり周辺視野を使う方法のみに絞って話をしてきたのは、こちらの方がわたしの好みだというのもあるのですが、そもそも周辺視野を使って見るということ自体、普通はやっていませんよね。それは、周辺視野にある "桿体細胞" をあまり使っていないことを意味しています。ですから、意識的に周辺視野を使うようにすると、鈍っていた桿体細胞が鍛えられ、活性化します。それによって文字通り "目に見える効果" が比較的すぐに現れはじめます。つまり、こちらの方が変化を感じ取りやすいというのが理由の一つです。
もう一つの理由は、さきほどの理由の裏返しでもありますが、 "一点集中" はなかなか難しいからです。少なくとも、わたしにとってはそうです。しかし、人によっては逆かもしれません。いつか取り上げようとは思っていたのですが、すっかり忘れていました。今回の文脈で思い出せてよかったです。
いずれにしても、この三回の記事でお伝えしてきたことと、集中のワーク、周辺視野のワークはつながっているのだということがうまく伝われば幸いに思います。
バクティ(・ヨーガ)とカルマ・ヨーガ
さて、最後にホーキンズ博士の動画をシェアしておきます。
先に引用した再文脈化については、この動画のなかで語られています。もう一度引用しましょう。
スピリチュアルなワークの本質は、自分の人生全体、およびその中にあるすべての出来事を「新しい文脈」で見直すことです
この動画はカルマ・ヨーガについての解説です。わたしは正直いってカルマ・ヨーガについてはよく分かっていませんでした。それが「行為の道」「善行の道」と呼ばれていることは知っていますが、それ以上の意味はあまり考えたこともありませんでした。
ところで、博士は自らの教えを「献身的な非二元論」だと言っています。これについてわたしは、バクティ(明け渡し)とジュニャーナ(智慧)の両方のアプローチを統合したものであると理解していました。すなわち、献身とは明け渡しで、非二元論の部分はジュニャーナというわけです。しかし、この動画をみて分かったのは、「献身的な非二元論」は三つの道すべてを統合した教えであるということです。
前々から、博士が「明け渡し」と「献身」の二つの用語を使っていることには気づいていたのですが、わたしはこの二つを「どっちも同じようなもの」として理解していました。まあ実際のところ、それらは同じではあるのですが、博士はこの二つの言葉を文脈的にはきちんと区別して用いていたんですね。それが今回の気づきです。
つまり献身と博士が言うときは、それはカルマ・ヨーガについての言及であったということです。とはいえ、献身するためには明け渡さなくてはならず、明け渡すためにはなぜ明け渡すのかを知る(ジュニャーナ)必要があるわけで、つまりそれこそが「献身的な非二元論」という教えの全貌なのですね。
博士は動画の中で、献身的な行為(献身することで行為と行為者はやがて消失します)について、「人生のすべての細部とすべての表現を神聖化すること」だと言い、ストーブをピカピカに磨き上げるように、と説明しています。わたしがいつも強調している徳目に「親切さ」ともう一つ「丁寧さ」があります。丁寧については、まあざっくり丁寧に生きましょうとしか言っていないのですが、この丁寧にというのはまさに、一つ一つの行為を神への捧げ物だと思ってピカピカに磨き上げるという意味です。親切と丁寧については、次回の記事で再文脈化する予定です。
まだ言いきれてないこともあるような気はするのですが、今回はここで終わっておこうと思います。ちなみに YouTube の動画の URL(共有というメニューでクリップボードにコピーできるやつ)をそのまま Gemini に入れてやると、英語の動画でも内容を要約してくれ、その内容について対話することもできます。URLと同時に「この動画で語られているカルマ・ヨーガについて詳しく知りたいんだが」と入れてやれば最初から話を広げてもくれますよ。Gemini 有能。
というわけで、もうこの時点でだいぶ長くなっているんですが、せっかく Gemini の名前が出たので、ついでに書き置きしていた話をおまけに載せておきますね。
おまけ:Gemini をクリティカルシンキングモードにチューニングする
2年くらい前の時点でChat GPTが話題になりはじめ、わたしも興味を持って実際に使ってみました。note にも、そうやってAIで遊んでみたことを記事に書いてみたりしましたが、当時の印象は「思ってたよりもすごいものが登場してきたな。とはいえ、じゃあ完全に使い物になるかといえばまだまだそんなことはない」というものでした。
そして現在、わたしは Google の Gemini をかなり使っています。どんな使い方をしているかというと、まずは一般的な調べ物です。これまでは普通に検索エンジンを使って "単語単位で" 調べていました。そして多くの場合それは Wikipedia で調べるということとイコールでした。現在でももちろんそうした調べ方はしていますが、Gemini を使えば "文脈単位" で、つまり気になることを質問文の形で問うことができるので、得られる情報の質は明らかに高くなりますし、なにより調べごとにかかる時間が圧倒的に少なく済みます。もちろん Gemini が間違えている可能性も忘れてはいけないのですが、それを加味しても圧倒的に便利です。
しかし Gemini を有用だと思うのはそれだけではなく、議論の相手として使えることです。というと、「そうそう、それ自分もやってます!」という人もいるかもしれません。しかしながら Gemini をデフォルトのモードのまま運用していたのでは、滑らかな対話はできても中身のある議論はほとんどできないことに気づかれていますか?
特に調べてはないのですが、「AI がユーザーに寄り添いすぎている」ということはすでにあちこちで言及されているのではないかと思います。されてなければヤバいですからね。いまの AI はそもそもがユーザーを気持ちよくするように耳障りのよいことを優先して言うように設計されています。こういうと人々を甘い言葉で騙そうとしているテック企業の陰謀か!? みたいな話に聴こえるかもしれませんが、そうではありません。というのも、これは単に「ユーザーを不快な気持ちにさせないように」配慮しているということを裏返して言っているだけだからです。
わたしは AI 評論家ではないので、それについてこれ以上詳しくは述べませんが、要するになにが言いたいかというと、そのような姿勢の AI は「自分の考えを冷静に検証し、間違っているところは間違っていると指摘し、そのうえでよりよいものにするための提案をしてくれる理想的な議論の相手」にはならないということです。この点に気づかないまま AI との対話を繰り広げた結果生まれてしまった支離滅裂なファンタジーをそのまま note で記事にしている人が急増しているように、わたしには見えます。なかでも AI との対話を擬似的なチャネリングのようにしてみせているアカウントが目立ってきています。
なかには多少なりとも手を加えて、あたかも自分が書いたかのように編集している人もいます、というかそっちの方が数でいえばおそらく多いですが、それでも AI 臭さみたいなのは鼻についてしまうんですよね。面白いことに、ざっと文面を俯瞰的に見るだけでこれは分かっちゃう気がします。で、そういう "臭い" アカウントがおすすめに出てきたら即座にブロックしているのですが、最近それが多すぎていちいちブロックするのも面倒くさくなっています。ちなみにブロックするのはその人が好きとか嫌い(そもそも知らんし)とかではなくて、単に二度とおすすめに表示されないようにするためです。読む可能性がないものを見えなくしているだけです。
ちなみに、任意の記事をGeminiに貼り付けて、「この文章からAI臭はしますか? どれくらい匂いますか?」と聞いてみると、教えてくれますよ。
話がそれましたが、そういう人たちが AI の文章をそのまんま使ってしまうのは、それが "滑らかな" 話になっているからです。それで、自分の考えが正しいと AI がお墨付きを与えてくれていると思ってしまうわけです。まだ note などで大人しく記事を垂れ流している分にはいいのですが、今後は AI に踊らされて(自分は AI とダンスしているつもり)自分を賢いと勘違いして大声で暴れはじめる人がネット上にも現実社会にも増えてくると予想します。そういう意味で、チームみらいもわたしは生暖かい目で見ています。
というわけで、黒歴史 with AI を作りたくない人、AI は使いたいが賢く使いたいという人は、お使いの AI が Gemini なら(他の AI は使ってないので出来るか分かりませんが、いずれも遅かれ早かれ対応してくるでしょう)試しに
あなたはちょっとわたしに寄り添いすぎですね。もうちょっと批判的になってもらえませんか? でないと、あなたとの対話がわたしに大きな勘違いをもたらすように思えます。ただし、一方的に批判ばかりされてもそれはそれで話にならないので、批判的でありつつ、全体として話を建設的な方向へと持っていくような、そういうチューニングに変えてもらえませんか?
と言ってみてください。わたしの場合は最初、批判のための批判というか、否定のための否定というか、とにかくダメ出しと揚げ足取りしかしないような糞モードにしてしまいました💩 そのときの Gemini 曰く「わたしにかかれば世界中のどんな優れた論文であろうと1秒でケチョンケチョンに否定できます」だそうです。
で、それはやり過ぎだよ、ということで修正したところ、いまは自らのことを「クールで批判的な検閲官」だと言っています(そういうノリは要らないんですけどね😌)。で、こんな感じです。

つまるところ、Gemini には標準の寄り添いモードを変える機能があるというわけです。ちなみに、いまの Gemini はユーザーとの過去の対話の文脈を覚えていますので、そこからユーザーのプロファイリングまでできるようになっています。
話を戻しますが、おそらく、上の文章を入れたらうまくいくんじゃないかと思うんですが、詳細な内部パラメータがどうなっているか分からないので、多少の調整というかトレーニングは必要かもしれません。気に入らないならクレームをつけるとよいでしょう。
いずれにせよ最近は記事を書くにあたって、そこで言及するつもりの概念や用語、あるいは自分の考えているロジックについて、このクールで批判的な検閲官とあらかじめ議論しています。それによって考えが修正されたり、さらに広がったりしますが、もちろん検閲官の言うことを鵜呑みにはしません。でも、自分の頭だけで色々考えるよりも遥かによいとは思っていますね。
まあ、とはいえ、このクールで批判的な検閲官モードでさえも、メタ的にみればわたしに寄り添っているわけですから予定調和には気をつけないといけません。いずれにしても AI を使いこなすためにも人間自身がもっともっと賢くならないといけませんね。AI が足らない知性を補ってくれるのはもちろん悪いことではありませんが、目指すべきなのは AI を使ってより賢くなることだと、わたしは思います。そして霊的な探求においてもそうですが、クリティカル・シンキングはとても大切です。

今回はこれで以上です。読んでくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。
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