【妙香異聞抄】第五話:ユーカリ(後編)
先に【妙香異聞抄】第四話:ユーカリ(前編)をお読みいただくことをおすすめします。
ユーカリの効能に中てられた「すねこすり」が、呪いをかけた主として指し示した人物。ロッカーに書かれた「金居」という苗字の人物を、光路は当然知らない。
「ミーちゃん、この人とどういう関係なの?」
「3年生の先輩。もちろん陸上サークルのメンバーだし、ついでにアタシと同じ、短距離の選手だ」
背後の熨斗目が、ロッカールームの換気窓を開けた。
鼻を刺すほど満ちていたユーカリの香りの残滓が、優しく吹き込む風で中和されていく。しかし、光路と美晴の間に落ちた重苦しい空気は、なかなか一掃できるものではなかった。
「ごめんね、すごく訊きづらいことなんだけど……呪われた原因について、心当たりはある?」
完全な事件解決のため、避けては通れない質問。他人の傷口を抉る申し訳なさから、光路は思わず服の裾を握り締めた。
「つってもなぁ……そもそもこの先輩、あんまり活動に顔出さないし。口数も交友関係も少ない人で。走るフォームはすげー綺麗だから、もったいねぇなって思ってた」
美晴は首をひねっている。ああでもないこうでもないと、記憶を掘り起こしているようだ。
「…………あ」
その切れ長の瞳が突然、見開かれる。
「あ~……あったわ。アタシとの唯一の関わり」
「何があったの!?」
「いやいや、別にトラブったわけじゃないんだけどさ」
食い付く光路に対し、美晴は。
「代表選手の枠、差し替えられたんだよね。先輩からアタシに」
――!
光路は息を呑む。
「インカレって分かる? インターカレッジ、つまり大学対抗の競技大会のことでさ。女子100mの代表選手枠は金居先輩だったんだけど……有難くも『見込みアリ』ってことで、アタシが代表に据えられたんだよ」
入学して1ヶ月も経たないルーキーに、3年生の自分がお株を奪われる。金居という先輩にとって、それは確かに心情穏やかではない事件だっただろう。
「けど……ぶっちゃけ言うとさ、こういうのって『よくある話』なんだわ。先輩が後輩に抜かれたり、逆に先輩を立てるために後輩が下げられたり。野球でもあるじゃん? ベンチ入りメンバーが急遽登板するとか」
光路は運動能力も知識もからっきしなので、美晴の例え話は正直よく分からない。それでも、経歴や練習量より優先されるのが「能力」であることくらいは、理解できる。
「呪いを送られた原因は、十中八九それだろうな」
と。黙っていた熨斗目が、突如ボソリと言った。
「……!」
光路も美晴も、ギョッとして熨斗目を見やる。
「で、でも、先輩から敵意なんて感じませんでしたよ!?」
「だから何だ。敵意、悪意、害意……そういったものを隠すのに長けた人間など、珍しくもないだろう」
美晴の反論を、熨斗目はすげなく切り捨てる。
「さて……お前の処遇だが」
次いで彼は、油断なく手にしていた錫杖を、震えるすねこすりに突き付けた。
「この場で消し炭にされるのは嫌だろう? ならば『やるべきこと』は一つだ。分かるな?」
有無を言わせぬ響き。
荒い息で横たわっている獣は、熨斗目の声に対し、クゥと小さく鳴いて答えた。
「よかろう。返るべき場所に、帰るがいい」
先程と違う長く複雑な真言を、熨斗目は何度か繰り返し唱えてみせた。
すねこすりは完全に姿を消し、同時に美晴が「あっ」と声を上げた。
「すごい! 体が一気に軽くなりました!」
「当然だ。お前の身からもう、呪いは完全に離れたのだから」
ぱっと表情が明るくなる美晴。
それと対照的に、光路は顔を青くしていた。
「の、熨斗目さん!? 今やったのはまさか……!」
「…………チッ」
光路の指摘に、熨斗目は舌打ち一つ。
「そうだ。『呪い返し』だ」
――ああ、やっぱり……!
「コーちゃん、どしたの? 何かまだヤバいことある感じ?」
せっかく元気になった美晴を、また悩ませてしまう。分かっていてもなお、これに言及しないわけにはいかなかった。
「呪い返し、っていうのがあってね。こっちが受けた呪いをそのまま、あるいはもっと強力なものにして、相手に返す術。熨斗目さんは今、それをやったんだよ」
「……えっ?」
光路の説明を聞いた美晴が、再び熨斗目に向き直る。
「ちょ……っと待ってください。そんなの聞いてないですよ! あ、アタシはただ問題を解決してほしかっただけで、別に仕返しなんて望んでない!」
「フン。優しいお前らがそういう反応をするのは分かり切っていた。故に勝手にやらせてもらった」
「優しい」の部分に皮肉を込めつつ、彼は言った。
「獣も、それを呪詛に使うような人間も、執念深いと相場が決まっている。単に退けただけなら、一層強い呪詛がまたやって来る。ならば大元である術者を叩くしかなかろう。それとも何だ、再起不能になるほどの怪我を負いたかったのか、お前は?」
「……っ」
美晴がグッと言葉に詰まる。
「そんな意地悪な言い方、やめてください!」
気付けば光路は、美晴を庇って前に出ていた。
「ミーちゃんを助けてくださったことは、本当に感謝しています。でもわざわざ追撃することはないでしょう!?」
「……ほう? 友人の前だと、随分気が強くなるんだな?」
熨斗目がやや意外そうに片眉を上げる。
自分でも驚いていた。
こんなに毅然とした態度をとったことなど、これまでの人生の中であっただろうか? どうして自分は今、怖いはずの熨斗目に対し、真っ向から反論できているのだろう?
……いや、違う。「最初から」だ。
美晴が不可解な事件に巻き込まれ、怪我をした。その瞬間からずっと、自分の中では確かな「覚悟」が決まっていたのだ。
――助けたい。守りたい。
ミーちゃんが大切だから。
思えば、リンに相談の約束を取り付けた時点で、光路にしてはかなり積極的な動きが発生していたといえる。友達を助けるためなら、ずっと受け身ではいられなかった。
「俺はあくまで事実を言っているだけだ。それの何が悪い」
「内容じゃなくて、言い方の話です」
「生憎、気配りには自信が無くてな」
熨斗目は淡々と言葉を重ねる。その傲岸不遜な態度が、光路の内に灯った火種をさらに大きくする。
「……コーちゃん。いいの、ありがと」
険悪な二人の間に割って入ったのは、美晴だった。
「まだ色々呑み込めてないけど……うん、大丈夫。人の良心とか常識とかが通じない案件ってことは、何となく分かったから」
まあショックはショックだけどね、と美晴は笑う。普段の太陽のような笑顔とは違う、悲しさと空しさが入り混じるそれだった。
「ミーちゃん……」
ギュッと胸が痛くなる。
確かに今回の事件は「解決」した。しかし彼女の心と体の傷が癒えるまでは、事件が「終結」したと言えないのも事実である。
「熨斗目さん。最後に訊かせてください」
そんな美晴が、真っ直ぐに問う。
「金居先輩は、本当に悪意をもって、アタシを陥れようとしたんですか? 無意識のうちに……えっと、何か『負のパワー』みたいな感じで、アタシを呪っちゃった可能性は?」
「残念だが、完全に悪意が認められる」
熨斗目は伸びあがり、美晴のロッカーの天井部分から何かを剥がしてみせた。
テープで貼り付けられていたそれは。
1本の、動物の毛。
「これを目印にしたんだろう。呪うべき相手は、この人物だと」
角度的にも高さ的にも、絶対に誰にも見えない場所。そんなものをどうやって感知できたのかは、人ならざる式神に訊く方が野暮だろう。
「…………そう、ですか」
肩を落とす美晴。
固く握り締められた右の拳が、震えている。
「……まぁ、陰の気は吐き出しておくべきか」
何かを察知したらしい熨斗目が、換気窓を閉めた。
再び密室になるロッカールーム。
「ふざけんなっ!!」
美晴の絶叫が、びりりと響いた。
「そんなにアタシにレギュラー取られるのが嫌だった!? 呪いを送って、じわじわ苦しめるくらいに!? やり方が陰湿なんだよ!! こっちだって負い目はあったし、だからこそ先輩に恥じない成績を残すために、一生懸命やってたんだよ!!」
ダン! と近くの壁を拳で叩く美晴。
「さっきも言ったけどさぁ……ほんと、よくある話なんだよ。アタシだって何度も競争に負けて負けて、それでも這い上がってきたんだわ。先輩は同じくらい努力したか!? ろくに練習にも顔出さねぇクセに、美味いとこだけ持ってこうなんて、都合良すぎるっつーの!!」
その叫びはどこまでも高潔で。
横で聞いている光路は、一種の感動すら覚えていた。
こんなふうに思いっ切り自分の怒りをぶちまけられるなんて、格好良いし羨ましい。「美しく晴れる」という名を嫌っている彼女だが、その名はやはり、彼女にこそ相応しいと思った。
「コーちゃん……悔しいよ、アタシ……」
そんな美晴が、目に涙を溜めて光路を見る。
「こんなやり方されたら、もうどうしようもねぇじゃん……どんなに正攻法で努力したって、敵わないに決まってんじゃん……」
「ミーちゃん……」
「悔しい……悔しいっ……!!」
光路に縋り付くようにして、彼女は泣いた。
「……話が終わったら呼びに来い。俺は喫煙所にいる」
流石に空気を読んだのか、熨斗目が部屋を出ていく。錫杖はいつの間にか収められていた。
◇◇◇
しばらくの後。
「ハハッ……何かごめんね、色々情けねぇとこ見せちゃって」
ひとしきり泣き終えた美晴が、ゴシゴシと目元をこすりながら顔を上げた。光路もホッと一息つく。
「大丈夫。こんなふうに悪意を向けられるなんて、怖いし混乱するのは当たり前だよ」
「ん~、やっぱコーちゃんは優しいなぁ」
美晴はへらりと笑ってから……ひぎゃっ、と珍妙な悲鳴を上げた。
「壁殴った右手が痛い! ついでに左腕も痛い!」
「えぇ……無茶しすぎだよ、もう」
二人してクスクスと笑い合う。
良かった。ようやく和やかな雰囲気が戻ってきた。
「あ、そういえば!」
危うく忘れそうだった、妙香堂からの最後の「預かり物」を、光路は鞄から取り出す。
「これ、ユーカリのボディミスト。さっき焚いたお香のアロマオイル版、ってところかな。念のためしばらく使ってほしいって、リンさ……じゃなくて、熨斗目さんが言ってた」
「了解。ありがと!」
小さな白いスプレーボトルを受け取ると、美晴はロッカールームを施錠して、鍵を返却すべく去っていった。
「…………ふぅ」
ひとまず一件落着、だろうか。
金居という人物の顔も実態も知らぬまま、事が済んでしまった。どうにも不気味な感じは残るが、今更何を言っても仕方ない。
校舎裏の喫煙所に向けて、歩みを進めていた光路は……ふと物陰を見て立ち止まった。
熨斗目がいる。
一瞬、目を疑った。
当然ここは喫煙所ではない。人間の姿をとっている以上、わざわざ隠れる理由もないはず。
「……違う……」
彼の独り言が聞こえる。
迷い子のように震えている、彼の声が。
「違う……あれは炎ではない……俺は正しく力を使っただけ……怯える必要は、無い……」
強く強く、自分に暗示をかけるような呟き。
明らかに様子がおかしい。どう対応すべきか迷う。しかし彼の髪の色と長さが、本来のものに戻りつつあることに気付いた瞬間、光路は反射的に呼びかけてしまっていた。
「熨斗目さん!」
「ッ!?」
弾かれたように振り向く熨斗目。
見てはいけないものだった。
見られたくないものだった。
そんな確信があった。
「…………っ、何だ」
刹那の気まずい沈黙の後、熨斗目はあからさまに不機嫌な態度で言った。
「す、すみません! でも変化の術が……」
光路に指摘され、彼は慌てて術をかけ直す。そしてそのまま物陰からズンズンと進み出てきた。
「あ、の……大丈夫、ですか?」
「うるさい。黙ってろ」
いつも以上に苛烈な態度で、熨斗目は光路を突っぱねて……八つ当たりがすぎると思ったのか、やがてぽつりと一言付け加えた。
「俺は火と煙が怖い。それだけだ」
◆◆◆
大学の正門近くにて。
一同は挨拶を交わして解散した。
美晴は熨斗目に対し、「お祓い料」として5000円を手渡した。こんなに安くていいのかと彼女は恐縮していたが、そこは友達価格ということで押し通した。
「熨斗目さん。今回は本当に、ありがとうございました。コーちゃんもありがと!」
はにかんでみせる、美晴。
「アタシ、立ち直りが早いのが取り柄だし! 先輩のことなんて忘れて、一日でも早く復帰してやるから!」
たとえ空元気であろうとも。虚勢を張る胆力がある美晴は、やはり強い。そんな友人を大切にせねばと、光路は改めて心に誓うのだった。
また地下鉄に揺られ、大輪田市の中心部まで戻ってきた。
乗車時間中、光路と熨斗目の間に会話は一切無かった。目を合わせることすらできなかった。
「主。只今戻りました」
妙香堂の扉をくぐった瞬間、グラデーションのように熨斗目の姿が元に戻る。笑顔で迎えてくれるリンを見て、光路もようやく息をついた。
「おかえりなさい」
『ふぎゃ』
――今、何か変な声が聞こえた気がする。
「ああ、ちょうど良い機会です。彼女を紹介しましょう」
笑みを浮かべたまま、リンは虚空に手を伸ばし……そこにいる「何か」をむんずと鷲掴みにした。
『ぎゃああああっ!?』
けたたましい叫び声。
徐々に姿を現したのは……赤い着物の幼女だった。
外見年齢は10歳前後か。
鮮血のように赤い瞳。口の端から覗く鋭い牙。首にかからない長さのおかっぱ髪は、金にも似た明るい黄色をしている。
それよりも目を引くのは、大きな耳と鋭い爪。おまけにリンに掴まれているのは、腰の辺りから生えた尻尾。どこからどう見ても、ファンタジー作品に出てくる「獣人」そのものだった。
「もしかして、この子が……?」
呆気にとられながらも、光路はリンに問う。
「はい。僕の第二の式神・橡です。日下部さんに挨拶することから逃げ回っていましたが、ようやくご紹介できて嬉しいです」
「嬉しくねぇですぅ!」
彼女……橡は、高周波かつ大音量の悲鳴を上げた。
「人間は嫌いです! あっち行けです! ついでに熨斗目も消えろです! ユーカリとかいうお香のせいで、頭が痛ぇんですよ!」
「俺はお前の声で頭痛がするんだが?」
勘弁してくれ、と熨斗目が天を仰ぐ。
「は~ぁ? 橡の声くらいで参ってるですかぁ? 図体がデカいくせに、随分と弱っちいんですね」
「本当に黙れ。踏み潰すぞ」
「っていうかリン! いつまで尻尾掴んでやがるですか! さっさと離せです!」
「主を呼び捨てにするなと何度言えば分かるんだ!」
大きな式神と小さな式神が、喧々囂々の言い争いを始める。
「……さて、日下部さん。事のあらましを教えてください」
目の前のリンは涼しい顔で、光路の説明を待っている。
美晴のこと。呪いのこと。熨斗目のこと。
どこから言及すべきかも分からないけれど。
――とりあえず、早く帰りたいなぁ。
光路は遠い目で、そんなことを思った。
