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【妙香異聞抄】第六話:サクラ(前編)






 ゴールデンウィーク間近の4月末。
 既に連休を取得している者も多いのか、大輪田おおわだ中心部はなかなかの混雑ぶりである。おかげで朝から、妙香堂みょうこうどうの客のりは悪くなかった。

 一息ついていた昼のこと。
 扉に取り付けられたベルは、果たして鳴ったか鳴らなかったか。ともかくふとリンが目をやると、入口に一人の女性客が立っていた。

「桜の香りはありますか」
 女性は、どこか焦点の合わない目で店内を見回してから、そう言った。
「桜の香りはありますか」
 再び発される問い。巻き戻してそのまま再生したかのような、全く同じ声のトーンである。
「通常の商品でよろしければ、こちらに」
 ちょうど先日、季節ごとの売り出し商品を、桜系統の香りから若葉の香りに変えたところだ。この女性があと1週間早く来ていたなら、もっと様々な種類の商品があっただろうに。
「サクラのお香です。棒状のものと円錐型のもの、それぞれ僅かに香りが違います。2階にはルームスプレーもございます」
「…………」
 リンの説明に相槌あいづちを打つこともなく、彼女は示されたお香をじっと見ている。その隙にリンも目を凝らし、この不思議な客を観察した。


 妙齢みょうれいの女性だ。長い黒髪は、さながら平安貴族のように艶やかで美しい。頬のラインで切り揃えた、いわゆる「姫カット」の髪型なのも、その雰囲気に拍車をかけている。
 肌は病的なまでに白く、血が通っているのかも疑わしい。丈長たけながのワンピースも、白に近い薄ピンク色。おかげで彼女の輪郭は、午後の照り返しに溶けて、霞んで消えていくような印象を受けた。
 リンは目をこする。
 ただでさえぼんやりとした視界では、彼女を見失ってしまいそうだ。


「……嗅いでみても、いいですか」
 これまたかき消えそうな細い声で、女性が言う。
「もちろん」
 リンは促す。
 しかしお香というのは正直「いてみないと分からない」ところがある。燃やす前のものを直接嗅ぐのと、空気中に広がった煙を嗅ぐのとでは、かなり印象が変わるのだ。だからといってあらゆる商品に火を点けてみるわけにもいかないので、売る側としてはなかなかもどかしい。
「……全然違います」
 2種類のお香を比較した後、女性は呟いた。
「桜の花は、こんなに強い香りではありません。もっと淡くて上品なもの。これらはわざとらしいまがものの香りしかしない。本当に残念です」

 文面だけならかなり手厳しい評価。だが彼女の口調は一貫して抑揚が無いため、この批評もまた、誰に向けるでもない独り言のようにしか聞こえなかった。

 それでも店側として謝罪は要るわけで。
「ご期待に沿えず、申し訳ありません。実は桜の『花』にはほとんど香りが無いんです。香り成分が含まれているのは主に葉の部分、それも人の手で加工されて、初めて香りを放つんです」
「…………」
「ですから一般的な『サクラの香り』とは、春らしく華やかなイメージをどうにか合成したもの、ということになりますね。お客様の仰る通り、紛い物です」
「……そう、ですか」
 リンの懇切丁寧こんせつていねいな説明に対し、彼女はようやく滑らかな反応をする、が。
「ならば仕方ありません。やはりこの身を削ってでも、どうにかしないと。結局最後は収支が合うのですから」
 その内容は、支離滅裂しりめつれつだった。
「私、時間が無いんです。大切なともがらもみんな。このままではらちかないので、努力してみます。参考になる話をどうもありがとうございました」
「お、お客様? 一体何を言って、」
 戸惑い、問いかけようとするリンを制して、彼女はゆっくりと頭を下げた。
「ありがとう、ございました」
「…………」

 ――この人を、このまま帰すべきではない。
 直感が働いた。
 どうにか引き止めようと行動しかけた、その時。


「リンさ~ん! こんにちは!」
 店の入口で賑やかな声がした。


 入ってきたのは、ふくよかな体型の中年女性。妙な緊張感に満ちていた店内が、一気に明るく塗り替えられる。
「あ……こんにちは」
 リンはやむなくそちらに向き直り、ニッコリ笑う。
 彼女の名は梶川かじかわ。近くの小さな商店街の花屋の店主だ。押しが強くて豪快だが、リンのことを気にかけて頻繁に来店してくれる、面倒見の良いところもある。
「いつものよろしく。無香料のお線香ね」
「毎度ありがとうございます」
 商品を用意しながら、リンはちらりと梶川夫人の背後に目をやる。思った通り、先程の儚げな女性は既にいなくなってしまっていた。
「そういえばねえ、聞いた? あの不気味な木ノ根きのねビル、ようやく取り壊しになるんですって」
「えっ……それはまた急な話ですね?」
 梶川夫人の発言に、リンも眉をひそめる。こちらもこちらでまた、無視できる内容ではなかった。


 木ノ根ビル。ここから徒歩5分ほどのところにある廃墟。6階建ての雑居ビルで、数年前から放置されたままだ。
 そのビルの屋上から飛び降りがあったのは、先々月のこと。
 遺体の身元はすぐに、近隣に住む20代の女性と判明した。遺書は無し、職場で悩んでいた様子も無し、直前の不審な行動も無しで、警察は「突発的に思い立っての自殺」と結論付けたようだった。
 しかし翌月……飛び降り自殺は再び起きた。
 今度は30代の会社員。こちらも近隣のファミリーマンションに住む男性で、妻子と共に順風満帆じゅんぷうまんぱんな生活を送っていたようだ。入念な調査が行われたものの、やはり自殺を選ぶような動機は全く見付からなかった。
 流石に管理会社に通達がなされたのか、ビルの入口、及び屋上へ向かう階段にはバリケードが設置された。おかげで一層不気味な雰囲気が辺りに立ち込め、昼間でも木ノ根ビルに近付く者は少なくなった。

 そして今月。
 バリケードを力ずくで乗り越えて、3人目が屋上から飛んだ。


「…………」
 3人目の犠牲者が出た後、リンは式神たちと共にビルに忍び込み、実地調査を行っていた。だが有力な手掛かりは皆無だった。
 地縛霊か。ビルに流れ着いた悪霊か。最初の自殺を皮切りに、ビルそのものが「死を呼ぶ場所」としての性質を帯びてしまったのか。あるいは全て杞憂きゆうで、偶然が連続しただけなのか。
 真実は未だ分からず。そんな建物の取り壊しが決まったというのだから、リンが驚くのも無理はない。
「警察から相当強く言われたのか、近所の人から文句が入ったのかは知らないけど。これでようやく落ち着くわねぇ。最初からとっとと壊してれば、こんなに死人が出ることもなかったのに」
 梶川夫人は大袈裟に溜め息をついてみせる。あけすけな態度ではあるが、近隣住民の立場ならそう言いたくもなるだろう。下手に噂に尾鰭おひれが付いて、肝試しスポットにでもなればこと・・だ。
「そんなわけだから、ウチからも花と線香の一つ、ビルの前に手向たむけてやろうと思ったの。リンさんは危ないから近寄っちゃダメよ?」
「あははは……」
 もう既に足を運んだ後です、などと言えるはずもなく、リンは曖昧に笑って誤魔化す。
「それじゃあ」
 梶川夫人は店を出ようとして……直前でふと振り返る。
 その眼差しは先程までと違い、真剣かつ不安げな色をたたえていた。
「ねぇ、リンさん……桜ってこの時季でも、まだ咲いてるものかしら?」
「えっ? いえ、ソメイヨシノはとうに葉桜ですし、遅れて咲く八重桜ももう散り際でしょう」
 今日は何だか唐突な話題変更が多い。
 混乱するリンに対し、梶川夫人は。




っちゃな公園にある桜の木がね、4本とも満開なのよ。それがまた木ノ根ビルの裏手にある公園だから、何だか不気味でねぇ……」





【妙香異聞抄】第七話:サクラ(後編)へ続く



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