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仕事がおもしろくない、そんな悩みがバカらしくなる考え方

子どもを保育園に預けて働くのだから、おもしろい仕事がしたい。

もともと仕事にやりがいを求めていたが、子どもが生まれてからますます仕事に対するこだわりが強くなった。第一子の育休は、そんなおもしろい仕事に早く戻りたいと半年で復職した。

でも、第二子の妊娠中、体調不良や、組織の方針変更、周囲のサポートが得られなかったことなどが重なって『おもしろい仕事』はあっさり崩れ去った。

仕事に思い入れが強すぎて苦しかったわたしの気を楽にしてくれた本がこちら。


仕事に生きがいを求めていた自分に気づく

仕事で成功しなければ死ぬとき後悔すると思っていた。でも、生きがいを求めていた『仕事』が幻想だったかもしれないと気づき始めた。

産業革命によって、仕事は労働に貶められた。

産業革命以来始まった大量生産というものは、人間の熟練や専門化によってなされていた「仕事」というものを、バラバラな断片に分業化された「労働」というものに貶めてしまったのです。さらに付け加えて言えば、現代の分業化による「労働」では、本来「労働」で得られていたはずの生命の「至福と喜び」が得られないどころか、むしろ虚無感や徒労感を生み出すものになってしまっていることも深刻な問題だと言えるでしょう。

泉谷閑示. 仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える (幻冬舎新書) (p.55

仕事をしていたと思っていたけど、替えの利く歯車として「労働」をしていただけかもしれない。大きな仕事であるほど、年月とともに産業が洗練されていくほど、効率のための分業化が進み、仕事が労働に成り下がる。

重厚長大な産業も、ちっちゃな新規事業も経験した身としては深く納得できることだ。

〈労働する動物〉と言う名の奴隷以下の存在に成り下がった

つまり、私たちの現代とは、決してギリシヤ時代よりも進歩したのではなく、皆が〈労働する動物〉という名の奴隷以下の存在に成り下がってしまい、人間らしい「観照」も「仕事」も見失ってしまった時代なのです。

泉谷閑示. 仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える (幻冬舎新書) (p.56).

痛烈な批判だけれども、この批判に応えるだけの明確な答えが自分の中に見つからない。人間らしい「観照(自然や宇宙の真理を感じ取るべく、静かにそれと向き合うこと)」も「仕事(人間ならではの何か、例えば道具や作品を生み出すこと)」もしていない気がした。

仕事を通じて日々に真摯に向き合っていたか。自分の仕事の結果、消費されるのではなく味わってもらえるような道具や作品が生み出されていたのか。明確に答えられない自分がいた。

わたしは労働に逃げていたのだろうか。やればやるだけお金と見せかけの評価がついてくる『労働』というものに。

「資本教」というタイトルで資本主義に翻弄される労働者を皮肉る

問い──おまえの名はなにか。
答え──賃金労働者です。

〈中略〉

問──おまえの宗教はなにか。
答──「資本教」です。
問──「資本教」はおまえにどのような義務を負わせているか。
答──主要な二つの義務、つまり、権利放棄の義務と労働の義務です。

〈中略〉

幼年時代から死ぬまで、働くこと、太陽の下でもガス燈の下でも働くこと、つまりいつでもどこでも働くことを、わたしの宗教は命じます。〈中略〉

ポール・ラファルグ. 『怠ける権利』「資本教二 労働者の教理問答」より

笑えないパロディだ。

悪阻の中で遠方の客先訪問のため、トイレもない無人駅でしゃがみこんで、数時間前に何とか胃に詰め込んだ冷凍パスタをビニール袋に吐いたことを思い出した。

そうまでして、働きたいのなら良い。でも、働きたくないのに「働かないといけない」と思い込んでいるのなら、それは宗教だったのかもしれない。

「仕事探し」=「自分探し」の幻想を捨てよ

人が生きる「意味」を感じられるのは、決して「価値」あることをなすことによってではなく、「心=身体」が様々なことを「味わい」、喜ぶことによって実現されるのです。

<中略>

問題点は大きく二つあって、「真の自己」を外に求めてしまっていることと、それを「職業」という狭い範疇のものに求めてしまっているところにあるのです。

泉谷閑示. 仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える (幻冬舎新書) (pp.88-89)

「自分」や「生きる意味」なんてものは「職業」といったちっちゃなものだけに収まらない。言われてみれば当たり前なのだけれども、大切な子どもを預けてまで働くのだから、と「職業」という意味での仕事に思い入れが強くなりすぎた。

完膚なきまでに叩きのめされると、逆に痛快

この本を読んだら、仕事にやりがいがない、なんて言えなくなった。

いい意味で、働くことに対してあきらめがついた。やりがいなんて求めなくてもいいのだ。仕事なんてお金を得るひとつの手段に過ぎない。

効率を求めがちな私は、「価値を生み出しているか」「有意義な時間が過ごせているか」という尺度で自分の時間を測っていたから、仕事をしていれば「意味がある」と錯覚していた。

でも、子どものぽっこりしたお腹がだんだんスリムになっていくことに気づいたり、前は届かなかった窓枠に手が届くようになったり、言葉が交わせるようになったり、そんな成長を喜ぶことも十二分に意味があるし、味わい深い。

どうせ働き始めたら、また夢中になって「仕事おもしろい!」なんて言い始めるのは目に見えているけれど、それでも冷静な自分も一部にのこしておきたい。

仕事がおもしろかったら楽しめばいいし、おもしろくなかったら「所詮仕事だから」と放り投げればいいのだ。



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メラミン|1歳3歳の母 こんなところまでお読みいただきありがとうございます! なにか心が動きましたら、チップでお知らせいただけるととってもうれしいです。

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