【慶應義塾幼稚舎・横浜初等部受験対策】 - 2027年度入試対応 最新版 - 行動観察の極意
本記事は、これまでにお届けしてきた「運動の極意」「絵画・造形の極意」に続く一本です。ぜひ前の記事もご一緒にお読みください。
🏫
− では、以下より今回の記事を始めてまいります −
合格するのは、仲間と本気で関われる子
慶應義塾幼稚舎・横浜初等部 〈行動観察〉
徹底攻略と家庭での具体対策

考査の会場となる体育館に、五人の子どもが入ってきます。床にはカゴが一つ、その脇に、赤や青や黄色の球が、こぼれ落ちそうなほど積まれています。
先生が伝える約束ごとは、ごく短いものです。下から投げること、一人が二つ投げたら交代すること、足元のマットから出ないこと。最低限のルールだけ伝えると、あとは子どもたちに任されます。
試験管である先生方の目を引くのは、たいてい、その前後の小さなふるまいです。
仲間が投げそこねたとき、「つぎ、がんばろう」と声が出る子がいます。
その隣で、ため息をついて天井をあおぐ子もいる。
カゴを持つ係をまかされた子のなかには、味方が投げやすい高さを探して、自分から右へ左へ動きまわる子もいます。
ぼんやり立って自分の番を待つだけの子の横で、その動きは、いやでも目に留まります。
先生方は、コートの外から、その一部始終を見ています。
この、球を使った集団活動が、考査の中で行われている「行動観察」というものです。慶應義塾幼稚舎でも、横浜初等部でも、運動や絵画工作とならんで、考査の柱に置かれています。
ところが、この試験ほど、保護者の方のご姿勢が割れるものはありません。「うちの子は誰とでもすぐ仲良くなれるので、行動観察はあまり心配していません」とおっしゃる方がいます。その一方で、「何を見られているのか見当もつかないし、結局は生まれ持った性格の問題でしょう」と、はじめから手をつけずにいる方もいます。
正反対のようでいて、根は同じところにあります。どちらの方も、行動観察を、人なつこさや社交性をはかる試験だと思っていらっしゃるのです。
申し遅れましたが、私は幼児教室「慶楓会」で小学校受験コースの主任をしております、松下と申します。
十年あまり私立小学校の教壇に立ち、入学考査にも携わってきました。その経験から申し上げます。明るく誰とでも話せることは、たしかに子どもの長所です。ただ、それがそのまま点数になるわけではありません。覚えたての社交辞令を並べる子ほど、先生方の前では、かえって浮いて見えるものです。
教員のころ、先輩から受けた一つの言葉が、いまも私の物差しになっています。
考査は、その子が自分のクラスにいたら、と思って見るんだ。
四月、新しいクラスを受け持ちます。三十人あまりの子が、机を並べる。その一年を思い描いたとき、担任が頼りにしたくなるのは、たとえばこんな子です。
となりの子が消しゴムを落としたら、自分の手を止めて拾ってあげる。もめごとになりかけても、泣きわめく前に「じゃあ順番でやろう」と切り出して、その場をやんわりと収めることができる。
そういう子が何人かいてくれると、その教室は一年をかけて、ひとりでに居心地のよい場所になっていきます。
行動観察とは、この「四月からの一年」を、短い活動の中に手繰り寄せて見ようとする試験です。
考査の部屋で、実際に何が起きているか

冒頭の球入れは、2025年の秋、幼稚舎の考査で実際に出された課題の一つです。
幼稚舎では、受験する日によって課題が変わります。同じ秋でも、ある日は球入れ、別の日には風船の課題が出ました。大きさの違う風船を、目印のコーンを越えて遠くへ投げる。越えられたら、そのコーンをもっと先へ動かしてよい。チームでいちばん遠くへ届かせた子が出ると、まわりから歓声が上がります。さらに別の日には、緑のマットの上から、太鼓が鳴るまで何度でも投げ入れてよい玉入れもありました。
道具も、その日の決まりも、年ごとに移り変わります。けれども、入れ替わるのは見た目だけで、その奥で先生方が見ている点は、毎年そろって変わりません。それは、決まりを守りながら、その範囲で自分にできることを見つけ、まわりと折り合いをつけていく力です。
私は授業で、行動観察は「自由な遊び」ではありません、と子どもにも保護者にも申し上げています。みんなで決まりを守りながら、その枠の中で精いっぱい遊びを組み立てていく時間です。窮屈に思えるその約束の一つひとつが、その子の地の部分をあぶり出していきます。
「相談」が見られる
慶應義塾横浜初等部の二次試験にも、行動観察があります。幼稚舎と地続きの試験ですが、こちらはさらに、子どもたちの「相談」と「役割分担」が、まっすぐに見られています。
たとえば、2025年の秋には、こんな課題が出ました。低い平均台のまわりに、ピンポン玉がたくさん散らばっている。チームに渡されるのは、ほうきが四本と、ちりとりが一つ。手や足を使ってはいけません、道具だけで集めなさい、という決まりです。ここで子どもたちは、課題にとりかかる前に、まず話し合わなければなりません。誰がほうきを持つのか、ちりとりは誰が構えるのか、どの順番で集めていくのか。
別の課題では、青と黄色のチームに分かれ、それぞれの色の輪に、ボールを入れて競います。手元にはうちわがあって、相手チームが入れたボールを、あおいで外へ出すこともできる。ここでも、はじめの相談が要ります。自分はボールを入れる側に回るのか、うちわで守る側に回るのか。チームの中で話し合い、決めてから始めるのです。
役割を、人から割りふられるのではなく、自分たちで決める。そして、決めた役を、最後まで引き受ける。横浜初等部の行動観察は、この一連のやりとりを、課題のまんなかに据えています。
制作の課題も、作って終わりにはなりません。ある年は、自分で材料を選んで魚を作り、その魚を、ブルーシートの海で釣り上げて遊ぶところまでが、一続きの課題でした。店員とお客さんに分かれて、自分の作った品物を売り買いする、お店屋さんごっこのような課題もありました。先生まで、お客さんの一人として店先に並びます。
近年の横浜初等部は、こうした「暮らしの中の経験」を、とりわけ大切にしているように見えます。映画館でのふるまいを問う問題が出たり、スーパーマーケットを模した活動が組まれたり。家族で実際に出かけ、本物の場所で、知らない人たちの中に身を置いてきた時間が、そのまま子どもの土台になっていきます。
課題は毎年変わる

ここまで、幼稚舎と横浜初等部の行動観察を、実際の課題に沿って見てきました。球入れ、風船、玉入れ、ピンポン玉、色の輪。道具も決まりも、年ごとに入れ替わります。けれども、その器の中で試されている力は、例えば以下のような五つに絞れます。出題を予想するより、この五つを家庭の日々の家庭教育の中に位置付けていくほうが、ずっと確実な備えになります。
一つめは、相談して役割を分け合う力です。横浜のピンポン玉の課題のように、何かを始める前に、誰が何をやるかを、初対面の子ども同士で決め、決めた役を最後まで引き受ける。
二つめは、決められた枠の中で工夫する力です。手を使ってはいけない、下から投げる、マットを出ない。窮屈なほどの約束の中で、それでも自分にできる手を見つけ出していく。
三つめは、仲間を巻き込み、同時に尊重する力です。声の大きさで支配して引っ張ることとは違います。味方が投げそこねたら「つぎ、がんばろう」と声を送り、輪に入れていない子に居場所をつくる。自分が目立つことより、みんなで前へ進めるか、です。
四つめは、指示の意図まで汲む力です。先生の説明は短く、肝心なところは、あえて言い切られないこともあります。先生の言葉を一字一句なぞる子より、この活動は要するに何をする時間なのか、その芯をつかんで動ける子のほうを、先生方は見ています。
そして五つめが、これらを束ねる軸です。決まりという不自由の中だからこそ、その子の自由なふるまいが見えてくる。この考え方は、慶應の教育の根にある思想と、まっすぐ重なります。それについては、章をあらためてお話しします。
覚えこんだ台詞

行動観察を控えたご家庭で、私がよく耳にする準備の一つに、台詞の練習があります。道具を使いたくなったら「これ、つかっていい?」と尋ねる。誰かに「貸して」と言われたら、にこやかに「いいよー」と返す。何かをしたくなったら、まわりに向かって「私、これしていい?」と声に出す。どれも、ご家庭でくり返し言い聞かせ、当日の朝にもう一度確かめてから送り出す、お守りのような言葉です。
何を見られているのか見当のつかない試験を前にして、せめて言葉だけでも持たせてやりたい、手ぶらで部屋に入れたくない、という親心は、痛いほどわかります。けれども、ここで申し上げておかなければならないことがあります。
覚えこんで持ち込んだ台詞は、考査の部屋では、しばしば思っていたのと逆に働きます。
子どもを助けるどころか、その子の評価を下げる方へ作用してしまう場面を、私は教員時代から数えきれないほど見てきました。
理由は、二つあります。
一つは、台詞というものが、その場の相手や状況とかみ合わないまま口から出てくる、ということです。「これ、つかっていい?」は、丁寧なお願いのつもりで覚えさせられます。ところが当日、相手が道具を手に取ろうとしている、その瞬間に横からこの台詞だけが飛んでくると、聞いている側には、順番を飛び越して自分のものにしようとする一声に聞こえます。「私、これしていい?」も同じです。本来は確認のはずの言葉が、まわりの様子をいっさい見ないまま発せられると、自分の都合を先に通そうとする、いくらか上から物を言う響きを帯びてしまう。「いいよー」という、あの間延びした返事も、相手の顔を見ずに反射で出てくると、面倒ごとを早く片づけたいだけの生返事に聞こえます。言葉そのものは行儀がよいのに、それを発する身体と目が相手に向いていないために、中身がそっくり裏返ってしまうのです。
もう一つの理由は、もっと根の深いところにあります。台詞は、覚えた本人のものではない、ということです。子どもの言葉は、ふだんはその子の表情や、声の調子や、相手を見るまなざしと、ひとつながりになって出てきます。お腹が空いた友達に自分のおやつを半分渡すとき、子どもは「はんぶんあーげーる!」という言葉と一緒に、相手の顔をのぞきこみ、うれしそうに笑います。言葉と、身体と、気持ちが、ずれなく重なっている。ところが、当日のために仕込まれた台詞には、この重なりがありません。気持ちが追いついていない言葉だけが、ぽんと先に出てしまう。声は出ているのに目は宙を泳いでいたり、口では「いいよー」と言いながら手は道具を離さなかったり、そういう小さなちぐはぐが、いたるところに顔を出します。
たくさんの子どもを見てきた先生は、このちぐはぐを、一瞬で感じ取ります。何百人もの子を相手にしてきた目には、その子の中から自然にこぼれた言葉なのか、家で仕込まれた言葉を思い出しながら口にしているのかが、はっきりと映ります。私自身、教壇に立っていたころ、新学期の最初の数日で、「この子は家でずいぶん台詞を練習してきたな」とわかってしまう子が、毎年何人かいました。もちろんそれをとがめるつもりは、少しもありません。ただ、わかってしまうのです。そしてわかってしまったとき、その台詞は、その子の評価を一つも押し上げてはくれません。
待っている時間

ここで、もう一つ、保護者の方が見落としがちな点をお伝えします。先生方が子どもを見ているのは、球を投げたり制作をしたりという、目立つ課題の最中だけではありません。その子の地の部分がいちばんよく出るのは、課題と課題のあいだの、何もしていない時間のほうです。
考査には、必ず待つ時間があります。自分の順番が回ってくるまで、列のうしろに並んで待つ。先生が次の説明を始めるまで、その場で立って待つ。ほかのチームが活動しているあいだ、座って見ている。子ども自身は、こうした時間を、評価とは関係のない「空き時間」だと思っています。だからこそ、ここに、繕いようのない素の姿が出ます。
待っているあいだ、背すじを伸ばして自分の番を待っていられる子がいます。その隣で、すぐにしゃがみこんだり、退屈そうに体をくねらせたりする子もいる。あるいは、自分の番でもないのに「あの子、ほうきの持ち方を変えたらうまくいったぞ」と、よその子の工夫に見入っている子。順番を抜かされても、もめずに「順番、こうだったよね」と、列を整えてしまう子もいます。
こうした、誰も見ていないと本人が思っている時間のふるまいは、台詞では作れません。当日の朝にいくら言い聞かせても、待っているあいだの姿勢や、ほかの子を見るまなざしまでは、仕込みようがないからです。だから先生方は、ここを見ます。華やかな課題の最中に上手に立ち回る子よりも、待っている時間に、まわりの子の活動へ自然と関心を寄せていられる子のほうを、四月からのクラスの一員として頼もしく思う。私が教員のころ見ていた物差しも、これと同じものでした。
「独立自尊」に込められたもの
では、慶應義塾の二つの学校は、なぜこれほどまでに、繕いの利かない素の部分を見ようとするのでしょうか。それは、この学校が大切にしてきた価値観と、まっすぐにつながっています。
慶應義塾には、創立者・福澤諭吉先生から受け継がれた「独立自尊」という言葉があります。幼稚舎も、この精神を教育の土台に据えています。独立自尊とは、自分のことを自分で律し、自分の頭で考え、自分の足で立つ、という構えです。それは、決まりを無視して好き勝手に振る舞うこととは、まるで違います。福澤先生は、自由ということについて、こう書き残しました。
自由は不自由の中にあり。
そして、「他人の妨げを為さずして我が心のままに事を行う」のが、本当の自由なのだと説いています。
この言葉は、行動観察という試験の性質を、見事に言い当てています。私が授業でくり返し申し上げている、行動観察は「自由な遊び」ではない、という話と、ぴたりと重なるのです。子どもたちに渡される課題には、いつも約束ごとがあります。下から投げる、マットから出ない、道具だけで集める。窮屈に思えるその枠の中で、まわりの友達の邪魔をせず、それでいて自分のやりたいことを見つけて形にしていく。福澤先生のいう「不自由の中の自由」を、子どもたちは、あの考査の部屋で試されているわけです。覚えた台詞を上手に言える子ではなく、決まりという不自由を引き受けたうえで、自分の頭で動ける子を、慶應は求めています。
もう一つ、慶應の教育を語るうえで欠かせない言葉があります。
獣身を成して後に人心を成す。
これも福澤先生の言葉で、まず丈夫な身体を育て、その身体の育ちの上に、はじめて人としての心が育つ、という考え方です。慶應の考査が、運動や行動観察に大きな比重を置くのも、ここに理由があります。机の上の力を切り取って測るだけでは、足りないのです。身体を動かし、まわりと関わるその姿の中に、その子の人間性そのものを、丸ごと見ようとします。先生方が、待ち時間の姿勢や、ほかの子へ向けるまなざしまでていねいに見ているのは、こうした思想が根にあるからです。慶應が見ているのは、その子がこれまで積み重ねてきた毎日そのものです。
付け焼き刃の台詞
ここまで申し上げてくれば、行動観察の備えがどこに向かうべきかは、おのずと見えてきます。当日のための台詞を仕込むことに費やす時間があるなら、その時間を、お子様の内側が育っていく日々の関わりに振り向けていただきたいのです。
道具を分け合う言葉は、覚えさせるものではなく、家での暮らしの中で、何度も分け合った経験の先に、自然とこぼれ出てくるものです。お菓子を妹と半分にしたとき、悔しさをのみこんで弟に順番を譲れたとき、その積み重ねが、考査の部屋で「先にどうぞ」と言える子を作ります。ほかの子の活動に身を乗り出して見入る目は、ふだんから家族のすることに関心を寄せ、お手伝いを通じて「自分も家族の一員だ」と感じてきた子に育ちます。配膳を任され、片付けを最後までやり遂げ、自分の役割を引き受けてきた経験が、待ち時間に背すじを伸ばして自分の番を待つ姿勢を、いつのまにか養っているのです。
内側が育っていれば、言葉は、その子のものとして出てきます。気持ちと、身体と、言葉がずれなく重なった一声を、先生方は、その子の本物の社会性として受け取ります。逆に、内側がともなわないまま言葉だけを持たせても、それは考査の部屋で裏返り、かえってその子を不利にしてしまう。遠回りに見えても、本物を育てる関わりが、もっとも確かな備えなのだと、私は考えています。次の章では、その「内側を育てる関わり」を、ご家庭の毎日の中でどう積み重ねていくのか、具体的にお伝えしていきます。
行動観察の力は、○○で育つ

行動観察の対策はどうすればよいですか、と保護者の方からよく尋ねられます。よい体験はありますか、家庭で取り組めることは何がありますか、という問いの形をとることが多いのです。そのたびに私は、同じことを回答しています。
それは──、
この先の部分では、行動観察の試験で発揮できる力を培っていくために、
日頃からできることを具体的にご説明してまいります。
お子様が正しくお力を発揮し、
先生方の目に留めていただけるような姿を示すための視点を知り、
受験準備を確かにされたいという方にだけ、
読み進めていただければと思います。
👇
ここから先は
¥ 9,980
こうした記事へ、さらに期待していただける方はご協力願います。
