私が死んでもお葬式は無しがいい、と思っていたのだがしかし。
私が死んだとき、お葬式はしなくていい。
ずっとそう思ってきた。
形式ばった儀式よりも、親しい人たちが好きな服を着て集まって、食事でもしながら少し思い出してくれたら嬉しい。そのくらい軽やかな見送りの方が、自分らしい気がしていた。
先日タイの地元に帰省した際、村のお葬式に参列した。
いつもとさほど変わらないように見える境内と、賑やかなカノムチーン(麺料理)のビュッフェ。参列した、と言うよりも、ご飯を食べに行った、の方がたぶん近い。
地元のお葬式は1週間弱続き、その間ずっと来訪者に食事が振舞われる。親族や親しい間柄の人以外にも、幅広く多くの人が顔を出すが、ふらっと来て食事をしながら遺族と話をして、手を合わせて帰っていく人が多い。
日本で見た葬式とはまったく違うその光景の中で、私は自分の最期について考えていた。
このお別れの感じにも惹かれるけど、私の時はやっぱりお葬式自体やらなくてもいいかな、と。
…その方向性で文章を書き進めていたのだが。
そんな考えが揺らぐ出来事があった。きっかけは知人との会話だ。
「最期はゆるく明るく見送ってほしいと思ってるんだよね。」
何気なくそう言ったとき、知人が参加したとあるお葬式の話をしてくれた。
亡くなったのは、20代の方だったという。
生前に「明るく見送ってほしい」との本人談があったとのことで、式はその意向に沿って、明るい雰囲気で進められた。
けれど実際には、一部の参列者は深い悲しみの中にいて、用意された「明るさ」とそれぞれの感情との間に距離を感じた、という話だった。
なるほど、と思った。
「明るく送ってほしい」という私の願いは、ある人にとっては「ただ悲しむこと」すら難しくしてしまう可能性があるのか。確かに、想像に容易いが盲点だった。
自分の死に様ばかりを考えていたけれど、送る側の立場に立ってみる。
昔、飼っていた猫を病で亡くしたことがある。
お寺で小さなお葬式をして静かに見送った。
その後しばらくの間、道端で見かける野良猫も、猫モチーフの雑貨も猫の画像も、何もかも目に入れたくなかった。視界に入るだけで喪失感が蘇り、どこにいても涙が溢れそうになったからだ。
あの精神状態の時に、「本人の希望だから明るく送り出そう」と式が開かれたとしたら。私はどんな顔でそこにいただろう。自分の中の悲しさと場の明るさとのギャップで、複雑な気持ちになっていた気がする。オブラートに包まず言うと、最悪な気分になっただろう。
参列者にそう感じさせてしまうのは嫌だなあ。
ここまで書いて、何が自分の中の正解なのか分からなくなってしまった。
お葬式は、誰のためのものか。
ついこの間までの私であれば、「本人のため」と答えていただろう。でも今は、同じようには言えない。
泣きたい人は泣けばいいし、笑いたい人は笑えばいい。それぞれの過ごし方を尊重する。色んな感情の居場所がある場にしたい。そういう自由さがいいと思っていた。
けれど、その全部を同じ場所で成り立たせることは、思っていたよりも難しいのかもしれない。
mari.
あとがき
お葬式の雰囲気はきっと死因や年齢などによっても変わるのでしょうが、自分がいつどうやって死ぬかなんて分からないですよね。
もう少し色んな死生観に触れて、考えてみたいと思います。しばらく答えが出そうにないので、いつかまた続きを書きます。
