続かない自分を肯定している
「継続は力なり」という言葉をよく耳にする。
続かないことを肯定する言葉は、そういえばあまり聞かない。
私自身はその「何かと長続きしない人」なのだけれど、そんな自分をひっそりと肯定している。
私が新しいことを始めるそもそもの動機は、「その世界を覗いてみたかった」というシンプルなものだ。興味が湧いたその瞬間は、まだ本当に好きかどうかなんて分からない。
短期間でもその世界を実際に体験してみる。
そして、「ああ、こんな感じなんだ」と満足した時点でやめる。目的が極めることではなく知ることなのだから、私にとってはそこで区切るのは自然なことだ。
一方で、長く続けることでしか掴めないものや、辿り着けない深さがあることも分かる。
必要に駆られてゴルフに励んでいた時期があったが、続けたからこそ見えてくる面白みのようなものを、確かに感じた。
継続する価値は大いにあると理解している。それでも私は、色んなことを少しずつつまみ食いするように楽しむことに強く惹かれてしまう。
バイオリンも水彩画も、道具を揃えて意気揚々と始めたものの、ほんの数ヶ月で満足してしまった。今ではたまに触るくらいで、基本的には部屋のインテリアと化している。
では何も得られなかったのかというと、そうではない。短い期間であっても、その世界に触れた経験は私の中に残った。楽器の重さや、筆先に含ませた水の量。それを知れただけで、私の世界は少しだけ広がったように思う。
逆に、無理に継続させたところで、残るものは何だろう。
子どもの頃、ピアノ教室に通っていた。
初めは面白かったが、次第に楽しめなくなった。それでも自分の意思ではやめられず、終いには嫌いになってしまった。
そこから得られたものは何だ?
忍耐力か、技術か、数値化できない脳への好影響か。
それら全てが得られたのかもしれない。けれど、「ピアノが嫌い」と引き換えになってしまった。
「何をやらせても長続きしない人」──その通りなのだけれど、私の中ではちょっと解釈が違う。
興味を持ってしまうと、一度触れてみたい衝動に駆られてしまうのだ。長続きしないのではない。知りたかった世界に足を踏み入れ、満足して次へ向かいたくなっただけ。そう言わせてほしい。
そんな私のやってみたいことリストに今も残っているのは、護身術と中国語、油絵、釣りだ。
こんな自分の興味の持ち方がやっぱり好きだから、この先もこのままでいこうと思う。
mari.
