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「より下の誰か」を求めてしまう人間の性と私—『パラサイト 半地下の家族』

人間ってそういう生き物だよね、という諦念と慈しみを抱かされた、『パラサイト 半地下の家族』。私にとっては、人間への理解を深めてくれた作品だ。

※以下ネタばれを含みます。


『パラサイト 半地下の家族』を見ていて、別の展開もあり得たんじゃないかと思っていた。

貧しい一家が、それぞれ偽の身分を使いながら裕福な家庭に入り込んでいく前半。スリリングなコメディのように進んでいたものが、ある夜を境に一変する。豪邸の地下に、もう一組の隠れた存在がいたことが分かる。

半地下に暮らす主人公の一家と、豪邸の地下に隠れて生きていたあの二人。同じ家の中で、同じように見つからないように生き延びようとしている者同士だ。

対立するのではなく、うまく共存することもできたはずだと思った。協力して、裕福な一家に気づかれないように寄生し続ける。そんなやり方も、ありなんじゃないかと。

でも、そうはならなかった。

自分たちより「下」の存在が現れた瞬間、どちらの家族も、相手を助けるのではなく一歩でも「上」に立とうと必死になった。

衝撃的な展開だと思ったのは一瞬で、すぐに納得感がきた。
私にも心当たりがあったからだ。

人はどの立場にいても、上下を作る。
そういう話を耳にするたび、自分はそんな人間じゃないと否定してきた。けれど、ある日を境に思い知らされてしまった。

自分より緊張している人を見たとき、不思議と自分の緊張が和らいでいた。

緊張の度合いを自分で操るのは難しい。ということは、自分よりも緊張している存在を目にしたことで、本能レベルで優位に立った気になったのだと。そう解釈した。

私という人間もまた、環境や程度の違いはあれど、そういう生き物なのだと認めざるを得なくなった。

この作品が自分に刺さったのは、こういう上下の空気を、これまで生きてきた様々な環境の中で感じてきたからかもしれない。

子どもの頃にいた場所には、どこか張りつめた空気があった。人の噂や事情が、娯楽のごとく扱われていくような感覚。

その後で身を置いた場所では違った。同じように色んな人がいるのに、全体として余裕があって、他人に対しておおらかだった。

そんな空気感は、私のタイというルーツに対する反応にも現れていた。ある場所では優越感をもたらす対象として消費され、別の場所では個性として尊重された。

同じ人間同士でも、置かれている場所で空気が変わることは確かにあると実感しながらも、その違いをずっと不思議に思っていた。

人の性格なのか。
育ちなのか。
余裕の問題なのか。

はっきりした答えは出ないまま、両方を見てきた。
だからか、あの地下室の場面を見たとき、全てがつながった気がした。

悪人はいなかった。
誰もが、自分の立場で必死だっただけだ。

それでも、ああいう形になってしまう。

「みんなで手を取り合って」「格差のない社会に」という感想を持つべきなのかもしれない。

けれど、この作品で描かれた人間の性にただただ納得してしまった。そんな自分に後ろめたさすら感じている。



mari.

あとがき
『パラサイト』は大好きな作品の一つです。でも何度も繰り返し見たいと思う種類の好きではなくて。一度の鑑賞で、自分の中の最深部をこれでもかとえぐってくる、そんな作品でした。対して、パラサイトと同じくらい好きだけど、何度も繰り返し見直しているのは『ラ・ラ・ランド』。誰かに選んでもらえない場面に直面した時や、人生において自分が選ばなかった過去の選択肢を想う時、感傷に浸りながら見ると高まります。

以下の文章でもパラサイトに触れています。タイで大豪雨の日に、つい思い出してしまう作中のワンシーンについて書いたものです。

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