脱出のための日本語
「どうして、あそこまで日本語の勉強に打ち込めたんだろう。」
最近になって、その理由を考えるようになった。
当時の私は、ただ前に進むために必死だった。今になってようやく、あれは家の外で生きる土台を作る作業でもあったのだと分かる。
私は幼い頃、日本とタイのあいだで育った。母はタイ人で、父は日本人。家の中には母のタイ語まじりの日本語があり、外に出れば学校と社会の、きちんとした日本語があった。小学生の私は、そのどちらにも馴染みきれていなかった。
日常会話に困るほどではない。けれど、少し長い文章になると、途中で理解できなくなる。タイ語を話すと日本語の語順が混ざり、日本語を話すと響きがどこかタイ語に寄る。どちらの言語も母語としては完成しきれず、どちらの世界にも完全には馴染めない感覚だった。
小学四年生頃に通い始めた受験塾で、その曖昧さは偏差値という数字になって現れた。国語だけが極端に悪かった。文字は読めるのに、長文の内容は何度読んでも頭に入ってこない。本文だけでなく、解説を読んでもよく分からない。それでも「分からない」と言えず、テキストにマーカーを引いては分かった気になりやり過ごした。
そして迎えた中学受験は全敗だった。
志望校はもちろん、安全圏のはずだった学校も含めて、一校も受からなかった。
これまで私は、その挫折の悔しさが、中高六年間、日本語と向き合い続けた原動力だったと説明してきた。それは確かに事実だけれど、もう一つの原動力があった。
当時の私は、一刻も早く家を出て独り立ちしたかったのだ。家が嫌だった。外で通じる言葉を持たないまま、ずっとあの家に留まってしまうのも怖かった。
私が育った家に、完璧な日本語を話す大人はいなかった。父は単身赴任で家にいないことが多く、家の中の日本語はほぼ母のものだった。
連絡帳に書かれた「かぜひた(風邪を引きました)」という四文字。プリントの母の署名を、見られないように隠して提出していた自分。
そういう小さな出来事がいくつも重なるうちに、私は確信したのだろう。この家の中の言葉だけでは、私は外でやっていけないと。
中学校に入ってから、私は生活を言葉のインプットに寄せていった。小説、漫画、エッセイ、翻訳文学。読めるものは片っ端から読んだ。「国語は読む量に比例して伸びるらしい」という、どこかで聞いた言葉を信じて、読み続けた。
高校二年生のとき、国語の授業でテーマは自由で各自小論文を書いてくるという課題が出た。劣等感の塊だった私が、恐る恐る提出した文章は、クラスの優良作品に選ばれた。
あのとき初めて、もう国語ができない自分ではないと思えた。帰り道に泣いた。嬉しさと、「やっとここまで来た」という安堵が、一度に来たからだと思う。
私にとって日本語は、教科の一つである前に、家の外で生きるための道具だった。家の日本語ではなく、外で通用する自分の日本語で生きていくこと。書類を自分だけで読み理解し、書けること。自分の考えを、自分の言葉で説明できること。そういう小さな自立の積み重ねが、自信を取り戻す助けになっていった。
あの時代に、ゼロから日本語を学び、日本での生活を回した母の努力も知っている。ただ、あの家の中だけで完結する言葉では、私が社会に出ていくには心許なかった。だから私は、自分の日本語をどうにかするしかなかった。
家から離れるために掴んだ言葉。
いま私はその言葉を使って、かつて隠すことで守っていた自分のことを書いている。
mari.
♢母や家のこと、私が何を隠して生きていたかは、別記事に書いています。
