【小説・ヴィーナス症候群】(233)セクハラを禁じられ衰弱死
第1章 突然の電話
サイセイ義肢の研究開発部――通称「開発用トルソーさん」として働く割出結菜は、午前中のブリーフィングを終えて、自席に戻ってきたところだった。
第四世界向けに開発中の義手インターフェース、SYNAPTIC(シナプティック)計画。その先行試験のために、来月ハイチへ渡航する予定だった。けれど、先ほど連絡が入り、情勢の悪化により当面延期になったと知らされたばかりだ。
「せっかく打ち合わせ全部英語でやってたのに……」
ぼそりと口にして、空気の抜けたようなため息をもらす。
そのとき、スマホが震えた。画面には「母」と表示されている。
「……あ、もしもし?」
『あんたか。いま、大丈夫け?』
「うん、大丈夫やよ。どうしたん?」
母の声は、いつもよりひときわ低く、少しだけ湿っていた。
『……おじいちゃん、亡なったげんて』
「……え?」
思わず声がひっくり返る。
「三郎じいちゃんが……? うそやろ? つい最近まで、元気に下ネタ言うとったがいね?」
『ほんとや。あんた、びっくりするやろけど……』
母の声は少しだけ揺れていたが、どこか呆れた響きも混じっていた。
『老人ホームで、あまりにもセクハラ酷うて、とうとう部屋替えさせられてね。男の職員だけで世話見ることになってから、がくっと元気なくなって……あっという間やったわいね』
結菜は言葉を失いながらも、ぽつりと漏らす。
「……ああ、なんとなく分かる気するわ」
『そやろ? あの人、若い職員にちょっかい出すんが生きがいやったさけね。女の人おらんなった途端、ぼーっとしてぇー、ご飯も食べんようになってぇー……ほやってぇー、あの通りやわ』
「……まあ、死んでよかったとは言わんけど、職員さんらがうんざりするのも無理ないわね。うち、正直、肉親やなかったら一回くらい叩いとったかも」
母が「ふん」と鼻で笑った。
『でもね、あんた……叔母さんが、もう怒っとって怒っとってぇー。“これは虐待や”って。訴えるってぇー、騒いどるんやわ』
「……ああ、あの人、あのじいちゃんのこと、大好きやったさけね」
『ほやほや。なんでも、“性的欲求を抑圧した結果や”とか、わけわからん理屈こねとってぇー、もう大変や』
結菜は、思わず肩をすくめる。
「じゃあ……通夜と葬式、いつや?」
『通夜は土曜の夜。葬式は日曜の朝や。金沢、雪降るかもしれんさけ、足元気ぃつけて帰ってきまっし』
「分かったわ。こっち、準備するし」
スマホを切って、デスクに戻ったときには、なんとも言えない疲労が全身にのしかかっていた。
ハイチ行きの延期。祖父の訃報。
そして、祖父の死因が「セクハラ断ちによる衰弱死」だという、このどうしようもない顛末。
「……あの人らしいって言えば、らしいんかもしれんけどさ」

結菜はため息と共に立ち上がり、義手の調整用パーツをトランクに詰めなおす。
金沢の冬は冷える。
けれど、あのスケベじいちゃんにとって、“女の人がおらん空間”の方が、よほど冷たかったのかもしれない。
第2章 金沢の通夜
――通夜の夜、金沢。
割出結菜が金沢駅に降り立ったのは、うっすら雪のちらつく午後だった。
黒いコートの襟を立て、義手のない袖をコートの内側にたたみ込みながら、実家の軽ワゴンに乗り込む。
葬儀会館の小さな控室。親族の席には、知った顔がぽつぽつ並んでいた。
遺影は……笑っていた。ピースしてる写真。まさに、あのじいちゃん。
スケベで陽気で、時々死ぬほど面倒くさくて、でもどこか憎めなかった。
「……よう来たね、結菜ちゃん」
先に着いていた叔母――父の妹・律子が声をかけてきた。
六十を越えても染めた髪は明るく、今日もやや濃いめの口紅をひいている。
「うん、まあ……こっちもしばらく出張延期やし」
「そんなんどうでもいいがん。あんた、聞いとるけ?」
「なにを?」
律子は座布団の上で立ち上がった。喪服の裾がぱさりと揺れる。
「あのホーム、訴えるわいね。わたし、本気やよ」
「……あー、やっぱそうなるんや」
「“男の職員しかつけません”ってぇー、あれ、どう考えても人権侵害やろ。年寄りを“性犯罪予備軍”扱いしてぇー、隔離して! そいでぇー、一週間で死んだがんやよ!? これ、殺人やろ?」
その声は、通夜の静けさを軽々と突き破っていた。
結菜はちらりと他の親族の顔を見たが、誰も止める気配はなかった。
むしろ「あー、始まった」くらいの、静かな諦めの空気。
「いや、でも……じいちゃん、けっこうエグいことしてたんやろ?」
「そりゃ、ちょっとくらいは、なんか言うたかもしれんよ? でもそれがどうしたん。あの人から、ちょっかいとったら何が残るがいね?」
「……なんも、やね」
「ほやろ!? それを根こそぎ取り上げてぇー、部屋も変えてぇー、男の看護師ばっかりにしてぇー、誰とも喋らせんようにしてぇー……そんなもん、死ねって言うとるようなもんやろ!」
結菜は苦笑しながら、お茶をすすった。
律子の怒りは本気だ。それは分かる。でも、その本気には、なんというか――ちょっとした“ズレ”がある。
「……でもさ、わたしがもし職員やったら、じいちゃんのこと、毎日世話するのしんどかったと思うよ?」
「そらあんたは女やさけやろ?」
「関係ないって。女の人ばっかりに無理させる構造の方が、よっぽど問題やって」
律子は何か言いかけたが、そのとき僧侶が読経の準備に入った。
部屋の空気が静まり、香の香りが満ちる。
結菜は内心でため息をついた。
叔母の怒りは、たしかに理解できる。
だけどそれは、「お父さんを返して」という、感情の部分だけが先走っている。
現場の疲労、職員の限界、そのあたりには一切触れずに。
――たぶん、訴訟しても勝てんやろな。
けど、叔母が何か“正義”をやった気になれるなら、それもひとつの供養かもしれん。
読経が始まり、結菜は遺影の前に目を落とした。
亀仙人みたいだったじいちゃん。
セクハラを奪われ、スケベ心も命も一緒に持っていかれたじいちゃん。
笑ってる。ピースしてる。
(……じいちゃん、あんたの一生、すごかったわ)
声には出さず、心のなかでつぶやいた。
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