【小説・ヴィーナス症候群】[205]最低二万里
サイセイ義肢・本社工場棟。
夏でもどこか薄暗い開発フロアの奥、旧・喫煙所跡の休憩スペース。
割出結菜は、椅子にだらっと座り込んで、缶入りのジャスミン茶を義手で飲んでいた。
「で、プロジェクト一発目が西アフリカの山奥か。君もまあ、巻き込まれてるよなあ」
碓氷文夫が、工具袋をぶら下げたまま椅子を引く。
義肢装具士歴二十年、会社員の世知もちゃんと身につけたタイプの中年だ。
「巻き込まれましたねえ。
“国際環境適応型義手・現地運用実証試験”、略してSYNAPTIC計画。
私が行った村、今でも村名ちゃんと覚えられないですけど、
赤土と虫と、あと……ノミ? いやダニかも。とにかく痒い」
「痒みの区別がつくようになったら現地適応完了だよ」
「帰りたい」
即答だった。
「でもまあ、あれだよな。うちの筋電義手がどこまで“過酷環境で通用するか”ってのを見せつけたいんだろ、上は」
「そうです。“極限下でも動きます!”っていうキャッチコピーを手に入れるために、極限まで行かされたのが私です」
「おつかれさまです」
碓氷が缶コーヒーを開けて乾いた音を立てた。
「でも……現地の男の子に言われたんですよ、“Why do I need to grab?”って」
「掴む必要、ないってこと?」
「ええ。農作業は肘と足。スプーンは妹が持たせてくれるから、別に“手”はいらないって」
「……そうなると、俺たちの“義手哲学”が根底から揺れるな」
「根底どころか、上からタライ落とされた気分ですよ」
「昭和か」
結菜はふっと笑って、缶をテーブルに置いた。
「まあでも、“触れる”ってこと自体はできたんですよ。肩で肩に花を渡されて。
握手みたいな、ぎこちないやつ」
「花? どこで?」
「村の子。義手の手のひらに草花差して、私にくれたんです。掴めてないけど。
でも……なんかそれが一番、ちゃんと“通じた”瞬間だった気がして」
碓氷は少しだけ、黙った。

「いい話だな。こっちもしょーもない話抱えてんだけどさ」
「どんな?」
「今日さ、義足のじいさんに“最低二万里は動いてもらわんと困る”って言われてさ」
「……二万里? リアル単位で?」
「そう。しかも“最低”だよ、“最低”。
ヘタな健常者より元気なのはいいんだけどさ……
俺思わず、“二万里ってことは……1里が4キロだから……え、8万キロ?”って計算しちゃって。
いや、歩く前に生きてんのか、って」
「草」
結菜が缶を吹き出しそうになる。
「記録ノート見せてきてさ、毎朝歩いた距離書いてあるの。
“今はまだ三千里じゃ”とか真顔で言うわけ」
「えっ、もう1/6ぐらい歩いてる……」
「で、“最近の義足はすぐガタが来る”とか、
“昔のモデルのほうが良かった”とか……
いやもう、そういう話じゃねえんだよ……って言いたかったけど言えなかった」
「優しさ……」
「てかさ、こっちは義足の整備だけでいっぱいいっぱいなのに、
“君んとこの足は信頼してる。だからこそ、最低二万里!”って。
プレッシャーが里単位なんだよ」
「新単位ですね。“一プレッシャー=五千キロ”とか」
「もうやめてくれよ……」
碓氷は缶をゴミ箱に放り投げ、外した工具袋を持ち直した。
「ま、SYNAPTICだろうが二万里だろうが、現場はしんどいって話だよ」
「しんどいですねえ……あと痒い」
「痒いよなあ……」
ふたりはしばらく、無言でうなずき合った。
「……で、君は今後も行くの? 第二回とか」
「たぶん……行けって言われたら行くしかないし。
でも、次はせめて、エアコンとWi-Fiのある国がいい……」
「ハイチとかブルンジとかじゃなかったっけ、予定」
「絶望しかない……」
それでも、結菜の顔にはどこか笑みがあった。
向こうで受け取った花のことを思い出していたのかもしれない。
「ま、次も痒かったら、お土産はムヒで」
「了解です。
あと、じいさんの義足、二万里保証の件は……部長に押しつけておいてください」
「おう。こっちは“精神的サポート係”ってことにしとくわ」
「お互いサラリーマンですね……」
そう言って、ふたりは立ち上がる。
薄暗い工場棟、どこかしら埃っぽい空気のなかで、それでも現場は動き続けていた。
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