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【小説・ヴィーナス症候群】[848]したたかに笑って

土浦の国立先端医工学研究センターの片隅にある、傷痍軍人記念館。
薄暗い館内には、大正から昭和にかけて使われていた古めかしい義手や義足が、歴史の遺物として整然と並んでいる。ここは地元の小中学生たちの平和学習スポットでもあった。

「一度やってみたかったんだよね。戦時中のこのフック義手、結菜ちゃんに実演してみてほしいなと思って」

そう言って、展示ケースの前で提案したのは、この記念館の学芸員である冨手小春だ。彼女自身、スカートの裾からのぞく左脚は大腿義足である。

頼まれた割出結菜は、サイセイ義肢開発部の試着モデル、通称「トルソーさん」だ。
生まれつき両腕が肩からなく、普段は最先端の筋電義手を使いこなしているが、今日は別件で研究センターを訪れていた。

結菜は小春から手渡された、むき出しの金属ワイヤーと鋼鉄のフックがついた骨董品のような義手を、慣れた手つきで自分の肩口のハーネスに接続する。
そして、何度か肩を大きくすぼめるように動かしてみた。

「……うわ、これ、なかなか動きエグいですね。もうほとんど何もできないでしょ。最初から足でやった方が早いというか」
「あはは、やっぱり? でも、肩甲骨をこう、後ろに引くようにして動かすのがコツみたいだよ」
「あー、なるほど。……ん、あ、開いた。でもこれ、現代の筋電義手の発達した時代に生まれて良かったわぁ、ホント。昔の人はこれで生活してたの、マジでリスペクトですね」

ガシャ、ガシャ、とブリキの玩具のような金属音を響かせながら、結菜は少し困ったように笑う。
平和な午後の、いつも通りのやり取りだった。

小春はそんな結菜の姿を見ながら、ふと、思い出したように顔を曇らせた。

「ところでさ……結菜ちゃん。最近『エンジャパ』のニュース見た?」
「え? ENJO  JAPAN? 清らかな小春さんでも、あんなゴミみたいな炎上まとめサイト見るんですか? 意外でした」

結菜が冗談めかして笑うと、小春は笑い返さず、真剣な顔で自分のスマートフォンをポケットから取り出した。

「他人事じゃないよ。これ……結菜ちゃんの事件じゃないかと思って。ちょっとこれ見て」(本編809

小春が見せたスマホの画面には、すでに動画共有サイトで何百万回も再生されているらしい、ウェブ番組『ENJO NEWS』の切り抜き動画が映し出されていた。
画面が再生されると同時に、どぎつい赤と黒のテロップが踊り、煽るような重苦しい効果音が鳴り響く。

【ENJO NEWS】
『満員電車に蔓延る、悪質な痴漢行為。被害に遭った女性たちが、SNS上で「安全ピンを持って自衛する」と発信し、その是非が物議を醸したことも記憶に新しいですが……』

画面には満員電車のフリー素材と、安全ピンのイラストが映し出される。
しかし、ナレーションの声は一転して、おどろおどろしいトーンへと変わった。

『そんな中、前代未聞の事件が発生しました。痴漢行為をした男に対し、女性が「鉄の棒のようなもの」で反撃。男性は腕の神経を損傷する大怪我を負ったというのです。犯罪行為への反撃とはいえ、これは果たして「正当な防衛」なのか。それとも……』

画面が切り替わり、右腕を頑丈なギプスで固定し、三角巾で吊った若い男のインタビュー映像になる。
画面の下には『被害男性・まいちんさん(仮名)』というテロップが出ていた。(番外編32

まいちん『……僕が、とんでもない過ちを犯してしまったのは事実ですし、そこは本当に反省しています。警察にもすべて正直に話しました。ですが……あの時、彼女は僕の手を掴むと、袖の中から出てきた「鉄の棒のようなもの」を、僕の腕の、一番大事な神経に向けて……狙い澄ましたように思いっきりめり込ませてきたんです』

男は思い出したように身体を震わせ、カメラの向こうの視聴者に訴えかける。

まいちん『バキッと音がして、お医者さんからは「橈骨神経をメチャクチャに破壊されている。元通り動くか分からない」と言われました。今も、右手の感覚がなくて、全く動きません。仕事もクビになりそうで……。痴漢をした僕が言える立場じゃないのは分かっています。でも、あれはただの抵抗じゃなくて、最初から僕を壊す目的の暴力だったんじゃないかって……本当に怖かったです』

画面の下部には、【悲痛】「狙い澄まして神経を破壊された」…執拗な攻撃か*という悪意あるテロップがデカデカと固定されている。

スタジオの画面に戻ると、司会のMCが深刻そうな顔で口を開いた。

『いやはや……痴漢は絶対に許されない犯罪ですが、その代償として相手の神経を破壊する。この「過剰防衛」の是非について、スタジオの皆さんいかがでしょうか』

スタジオの若手インフルエンサーが答える。

『いや、痴漢はクズだし自業自得だけど、神経破壊ってエグくないですか? 普通に手を振り払うだけなら、そんなピンポイントで神経潰すようなこと起きないでしょ。わざわざ「鉄の棒」をめり込ませて相手をマヒさせるとか、それもう護身じゃなくて「暗殺術」か何かですよ。完全にやりすぎ、過剰防衛でしょ』

ゲストコメンテーターとして来ていたグラビアアイドルも続ける。

『いや、電車で痴漢されたらやり返したくはなりますけど、鉄の棒で殴るって、よっぽど凶悪な女ですよね……? というか、いつもそんな棒を持って歩いてるってこと? 護身用だとしてもちょっと怖すぎます。私ならそんな人、怖くて近づけないです……』

画面には、『出演者も恐怖…「いつも“凶器”を持ち歩いている?」』というテロップが躍り、画面横のリアルタイムコメント欄には「この女ヤバすぎ」「傷害罪で逮捕しろ」「護身を隠れ蓑にしたサイコパス」といった罵詈雑言が超高速で流れていく。

コメンテーターとして来ていた弁護士が言う。

『法律上、正当防衛は“やむを得ずにした行為”である必要があります。今回のように、あらかじめ用意していた物品を使用し、相手を麻痺に追い込むほどの重傷を負わせたとなると、裁判になれば過剰防衛、あるいは傷害罪が成立する可能性は極めて高いと言えますね』

MC『一線を越えた暴力が正当化されてしまえば社会の秩序は崩壊してしまいますからね。……まいちんさん、最後に、今そのお相手の女性に対して思うことはありますか?』

画面は再び、目に涙を浮かべた「まいちん」のアップになる。彼は声を震わせながら言った。

まいちん『……僕が悪いのは分かってます。でも、僕にここまでの怪我をさせておいて……彼女は弁護士を通じて「全面否認」、つまり、自分は1ミリも悪くないって言ってきたんです。僕にここまでの怪我をさせた女が、裏で、賠償金を一銭も払う気もなく、したたかに笑ってるのかと思うと……。僕は、ここまでされないといけなかったんでしょうか……。本当に、毎日が悔しくて、怖くてたまらないです』

男がうつむき、涙を拭うところで動画は終わった。

最後のテロップは、「こんなケガをさせておいて、したたかに笑っているのか」だった。

動画が停止し、静まり返る記念館の展示室。
結菜は、自分のスマートフォンを持ったまま、完全に凍りついていた。
さっきまでの明るい表情は消え失せ、顔面は蒼白になっている。

「狙い澄ましたって……そんなわけないじゃん。私はただ、触られた手を義手で振り払おうとして、必死で抵抗しただけなのに。たまたま、運悪く当たっちゃっただけなのに……。てか、鉄の棒……?」

世間は今、いつも使っている金属の筋電義手を「凶暴な女が持ち歩く暗殺の凶器」として、お祭り騒ぎで叩き始めている。
その凄惨な現実の波が、静かな記念館の部屋に、音を立てて押し寄せてきていた。

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