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【小説・ヴィーナス症候群】(番外編32)手負いの獣

水原法律事務所の応接室。

池上健太、祖父、母の三人が揃った午後。
水原弁護士は届いたばかりの回答書をテーブルの上に静かに置いた。(本編第773

「割出結菜本人宛に送った内容証明に対して、直接、サイセイ義肢株式会社の顧問弁護士・高根沢誠から回答書が来ました」

健太の表情が一瞬で強張った。
「……会社が?」

水原は頷き、書類を指で軽く叩いた。
「そうです。つまり、割出結菜はサイセイ義肢の開発部に所属していることが確定しました。『開発用トルソーさん』として働いているようです」

祖父が目を剝いた。
「ほう……会社名まで出てるじゃねえか。よし、明日その会社に行って——」
「祖父さん、待ってください」

水原が冷静に制した。
「会社名がわかったのは事実ですが、直接接触は絶対に避けてください。企業は個人情報を守りますし、むしろストーカー規制法や名誉毀損で逆襲されるリスクがあります。高根沢弁護士は企業防衛のプロです」

健太は左手で回答書を掴み、文字を貪るように読んだ。

《……本件は東武東上線車内における痴漢行為に対する防御行為であり、違法性阻却の可能性が極めて高い……当社社員・割出結菜の行為は……》

「あの女……サイセイ義肢か」
低く、獣の唸りが喉から漏れた。

母が不安げに水原を見た。
「それで……お金の方はどうなんですか? 1250万円、払ってもらえそうなんでしょうか?」

水原は少し間を置いて、淡々と答えた。
「率直に申し上げて、1250万円全額の回収はかなり難しいでしょう」
「なっ……!」

健太の左手がガクッと震えた。

「この回答書を見ても、全面否認の構えです。正当防衛の主張が強く、過失相殺で大幅に減額される可能性が高い。現実的な着地ラインは、和解で700万円前後……良くても850万円程度かと思われます」

祖父がテーブルを叩いた。
「ふざけるな! 健太の右手が一生ものなんだぞ!? それで700万だと!?」

水原は冷静に続けた。
「義手が重く、握力が強い点は争点になりますが、裁判所は『生まれつきの障害者による反射的な防御』として情状酌量する傾向があります。サイセイ義肢も会社として守る姿勢が明確なので、長期戦・泥沼化は避けられません」

健太は無言で自分の右腕を見つめた。
右手首がだらりと垂れ下がり、指が微かに痙攣している。
リハビリ室で何度も味わった、あの無力感が、再び腹の底から黒い炎を燃やし始めた。

「……会社に守られてるのかよ」
彼はゆっくりと立ち上がった。声が低く、掠れていた。

「俺は毎日、左手だけでペットボトル開けて、靴紐結んで、工具持てねえ練習してんだぞ? 現場に戻れるかもわからねえのに……あの女は義手つけて、普通に会社行って、給料もらって、守られてるってのか」

獣の目が、ぎらりと光った。
「名前も、会社も、わかった。1250万は取れねえってのも、わかった」

健太は左手で自分の右腕を強く掴んだ。痛みが走る。
「でもな……俺は金が欲しいんじゃねえ」

薄く、歪んだ笑みが浮かんだ。
「この手で俺を壊した女の顔を、この目で見てえんだよ……」

手負いの獣は、傷を深く抉りながら、獲物の居場所を確かに知った。
ただ、まだ厚い壁——企業と法律——が、牙の届く距離を阻んでいた。

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