無数の足跡が残した水脈
干ばつが来ると、サバンナの空気が変わるという。
草は枯れ、川床はひび割れ、動物たちは水を求めて歩き始める。そんな乾いた季節に、ひときわ大きな存在感を放つ動物がいる。象だ。
象は、長い時間をかけて歩いてきた経験から、水のありかを知っている。鼻や足を使って地中の水を探り、乾いた大地に残された水を見つけることがあるという。その水は、やがて他の動物たちの命も支える。
象は、誰かを助けようとして歩いているわけではない。ただ、生きるために長い道のりを歩き、経験を身体に刻んできた。その積み重ねが、結果として周囲の命を支えることになる。
これは、「動物たちにも助け合いの心がある」という感動的な話として語られることがある。
けれど、私が気になるのは少し違うところだ。
動物たちは、象を「好き」だから頼るのではない。象が、生き延びるために必要なものを知っているから、その存在を頼る。
そこには、善意や友情とは別の、もっと根源的な生きるための知恵がある。
頼れるものには、素直に頼る。
それだけのことだ。
人間の社会にも、こういう知恵があればいいのに、とふと思う。
普段は利害が対立していても、立場が違っていても、本当に困ったときには、誰もが安心して頼れるものがある。そういう社会だ。
考えてみれば、人間はこれに近いものをいくつも作ってきた。
法律、医療、行政、あるいは町内会のような小さな共同体。どれも、「いざというときに頼れる仕組み」として生まれたものだ。
しかし、人間の仕組みには、象とは違う難しさがある。
制度は形として残っていても、そこに込められた経験や信頼が失われれば、空洞化してしまうことがある。
象が頼られるのは、象という存在そのものが、水のありかを知っているからだ。
人間の場合、その役割を担うのが制度なのか、個人なのか、それとも共同体の記憶なのか、はっきりしない。
いざというとき、誰を頼ればいいのかわからないまま、多くの人が干ばつのような時代を生きているのではないだろうか。
ただ、考えているうちに、一つ思い当たることがあった。
日本で大きな地震が起きても、家や店舗への略奪が社会全体を覆うような事態は、比較的少ないと言われている。
もちろん、これは法律や警察の力だけで説明できることではない。
誰かに命じられたわけでもなく、目に見える形で管理されているわけでもないのに、多くの人が「今は、そういうことをする時ではない」と、暗黙のうちに理解しているように見える。
私は、そこに目には見えない象のようなものを感じる。
それは、特定の誰かではない。
長い時間をかけて積み重ねられてきた、人が危機のなかでどう生き延びてきたのかという記憶であり、社会の奥深くに残っている規範のようなものだ。
誰も所有していないのに、いざというとき、多くの人がそこに寄りかかることができる。
象が水のありかを知っているように、この社会もまた、困難のなかで人がどう生きるかを、どこかで覚えている。
その象は、誰か一人が作ったものではない。
過去に渇きを経験した無数の人間が、その記憶を少しずつ手渡してきた結果として、そこにある。
ここで、ある作品のことを思い出した。
『葬送のフリーレン』が描いているものも、記憶についての物語だと思う。
長い時間を生きるフリーレンは、かつて一緒に旅をした仲間、ヒンメルたちとの時間の価値を、失った後になって少しずつ理解していく。
フリーレンにとって記憶とは、過ぎ去った時間の価値を知るためのものだ。
一方、象の記憶は、未来へ生き延びるためのものだ。
方向は違っていても、どちらも記憶は消費されるものではなく、次の時間を支えるものなのだと思う。
人間も同じなのかもしれない。
若い頃には気づかなかった言葉。
昔は意味がわからなかった出会い。
失って初めてわかる大切さ。
それらは、時間の中で熟成され、後になって自分を支える「水」になる。
だから、記憶は消してはいけない。
ただ、記憶は過去に縛られるためにあるのではない。
大切なのは、記憶を抱えて、今をどう歩くかということなのだと思う。
人は誰でも、人生のどこかで水を失う。
それは、病かもしれない。別れかもしれない。あるいは、自分が信じていたものを見失うことかもしれない。
干ばつは、いつも遠くのサバンナで起きるわけではない。
私たちは皆、ときに乾いた大地を歩く。
そのとき、私たちは象を頼る。
それは、弱さではなく、生きるための知恵なのだと思う。
読んでいただきありがとうございます。
