残夢【第二章】②過去(害)
先生が皆の夏休みの様子を聞き、新学期の連絡事項を伝え「そろそろ帰りましょう」となったとき、薫子が手を挙げた。
「先生! さっきの漫画を取り上げてショブンしてください」
え? みんなが薫子をポカンとした顔で見た。
「処分? 大輔の漫画を?」
「あんなの学校に持ってきてみんなに見せて、とってもとってもフユカイでした!」
薫子は叫んだ。
沢村先生は少しポカンとした後、「そっか」と微笑み大輔に向かって言った。
「新学期になったら漫画なんて持ってこないよな」
大輔は何度も、うんうん、と頷いた。
「そういうことじゃありません。あれはユウガイ図書です!」
薫子の言葉を聞いて沢村先生は思わず噴き出した。
「有害図書って言葉を覚えたんだな。そっかそっか」
「あんな漫画を描く人も、読む人もバカです!」
薫子の言いっぷりに、沢村先生が目を丸くした。
「薫子。そこまで言わなくても。まあたしかにさ。男ってのはそういうバカな生き物だけどさ、でもさ」
優しく話をしているのを遮り、薫子は負けじと続ける。
「先生。『バカないきもの』で済ませていいんですか。バカなら何をしてもいいんですか。バカに、あんな漫画を見せられたら本当に嫌です。吐きそうです」
沢村先生は明らかにムっとしたが、ため息をついて笑顔を戻した。
「そんなにバカって言うなよ。大輔はバカだけどいい奴だよなぁ、なあ、みんな」
先生が一生懸命場を和ませようとすると何人かは笑ったけれど、薫子の気はすまなかったようだった。
「ほら、なんでバカの肩を持つんですか。あたしが吐き気するくらい嫌だって言う気持ちは無視ですか。私はバカ以下ですか」
「薫子はバカじゃないぞ」
「バカじゃないのに、バカのために我慢しなきゃいけないんですか」
全く話が終わりそうになかった。
沢村先生がまた怒鳴り出すんじゃないかと僕はびくっとしたけれど、それより先に大輔が立ち上がった。
「二度と持ってきません。ごめんなさい。お兄ちゃんのマンガだから捨てられません。ごめんなさい!」
そう言って頭を下げて謝った。
沢村先生はその声とほぼ同時に「じゃ、それで終わり! 今日はこれで解散! 九月一日にみんな元気で会おうな!」といつも以上に大声を張り上げてみんなを教室から追い出した。みんなも蜘蛛の子を散らすようにサーっと教室から出て行く。
薫子と百恵が「なんなのよ」と聞こえるように文句を言いながら教室を出て行くと、取り残されたのは僕と大輔とヒロくんだった。
「ダイスケ、ごめん。本当にごめん」
ヒロくんは涙を浮かべて何度も謝りながら、沢村先生に「僕が持ってきたのがいけないんです」と、さっき薫子のあまりの剣幕に言い出せなかったことを説明した。
「ヒロが持ってきたのか。先生もぬーべー好きだけど学校で貸し借りするのやめておこうな。今日の薫子はちょっと変だったから。気にすんな」
「おれ、薫子といままで仲よしだったのに」
大輔は、すっかりしょげかえっている。それを先生が慰める。
「そうだよな。あんなにバカバカ言われたら嫌だよな。でも大輔が謝ったから話は済んだ。大輔は男だ。偉いな。かっこよかったぞ」
その言葉で大輔も僕もヒロくんもなんだか納得し、大輔はポツリと「女って難しいな」と分かったような口をきいた。
*
薫子たちと会わないようにゆっくり山を下り、バスの停留所で大輔とバイバイして左右に分かれた。
たまたま足元にあった小石を思いっ切り蹴ると、転がった先に人がいた。
誰だろう。
道端にちょこんと座り込んでいる。何年生かな。いや、初めて見る子だ。
僕は学級委員だから他の学年の子もよく知っている。うちの学校の子じゃないなと思いながら通り過ぎようとした時だった。
大きな風が吹いて、女の子が顔を上げたので目が合った。
泣いてる。
女の子は日光が当たらない木陰に座り込んでいたけれど、風で木の葉が揺れて、まだ暑い木漏れ日が女の子の肌に突き刺さる。日が当たった顔には涙のあとがついている。やっぱり泣いてる。
「どうしたの? だれ?」
このまま無視して通り過ぎてしまったら、何だか可哀相な気がした。
「か……えりた……い」
女の子は小さく呟いた。
周囲を見渡しても誰もいない。みんなとっくに帰っちゃったし、バスは夕方まで来ないはず。
「まいご?」
僕が聞くと、少し悩んでからコクンと頷く。
「家、どこ?」
夏休みに遊びに来た子が迷子になったのだと思った。誰かの従妹かな。名字を聞けば分かるかな。
だけど女の子は何も言わず、少し悩んでリュックから一枚の紙を取り出した。
広げてみると「夏休み 楽しいイングリッシュセミナー」と印刷されていて、場所はどうやら山のもっと上にある家。写真に写っている真っ赤な三角屋根に見覚えがあった。
「ああ、知ってる」
山を冒険するとき、たまに通る道沿いにある。誰かの別荘だって聞いていた。
この村には似合わない建物で、建設中は「ラブホテルなんじゃないか」って噂があったと大輔のお兄ちゃんが言っていた。夏休みとお正月には車が出入りするけど、どんな人が住んでいるのか誰も知らないという話。
「ここんちの子なの?」
僕がたずねると勢いよく首を横に振る。
もう一度プリントを見て「あ、夏休みだから来たのか」と納得した。
周囲に家がないから一本道を間違えると違う山をどんどん登ることになってしまう。それでこの子も間違えたのかもしれない。
「こっちじゃなくて、あっちの道をまっすぐ行って、電柱があるところを曲がるんだよ。三十分くらいかな」
そう教えるとコクンと頷いてゆっくり歩きだす。サイズの合わないビニールサンダルが歩きにくそうだった。だけど一回曲がれば着くから大丈夫だろう。
僕は、お昼ご飯を食べたら大輔の家に遊び行く約束をしているのだからと、小走りで家に帰った。
「ただいま」
いつもの玄関を開けると、「おかえり、ケン。手を洗ってね」とお母さんの声に迎えられる。
靴を脱ぐとき、ふと三和土のサンダルが目に入り、さっきの迷子の女の子を思い出した。
徐々に離れていく後ろ姿、歩きにくそうなサンダル。
泣いてた。
そうだ。あんなに悲しそうな顔をして泣いていたのに一人で大丈夫かな。電柱を曲がるって言っても、よそ者だったらどの電柱だか分からないかもしれない。僕も昔はそうだった。村の人の言う目印が全くどれだか分からない。
しまった、と思った。
「ケン、お昼はそうめんね。トウモロコシも戴いたのよ」
玄関まで出てきたお母さんに「自転車貸して」と言って自転車の鍵を掴み、「すぐ帰るから」と言い残して玄関を飛び出た。
案の定、目印の電柱を曲がらずに真っすぐ進んだところで女の子はまだゆっくりと歩いていた。ここから上り坂だ。
「おーい! そっちじゃないよ!」
声をかけながら傍まで近寄り急ブレーキをかける。
自転車に乗っていたときは風が心地いいけど、止まると急に暑く感じて汗がどっと噴き出す。
「ごめんね。分かりにくかったよね。あそこを曲がるんだよ」
僕が振り返って指で指し示すと女の子はため息をついた。泣いてはいないけど疲れているみたいだ。
僕が自分の自転車じゃなくてお母さんの自転車を借りてきたのには理由がある。女の子の足元はゴムサンダルの指の付け根が真っ赤になってて痛そうだった。
「後ろに乗る? 連れて行ってあげるよ」
責任を感じた僕は迷わずそう言った。女の子は二年生くらいかな。体重が軽そうだから大丈夫だろ。
女の子はびっくりした顔で僕の顔をまじまじと見つめ、首を横に振った。
「歩きにくいだろ、そのサンダルじゃ」
女の子は自分の足元に目を落とし、そしてまた首を横に振る。
「ウソつけ。それじゃ山は歩けないよ」
そう言って自転車を進行方向にクルリと向け、道路わきにある大きな石の側に留めた。
「ほら。この石に足かけて、そしたら届く?」
僕がそう言って先にサドルに座ると、女の子は言われた通りに石に登り、うしろの荷台に跨いで座った。
夏休みの登校日の今日、久々に会うクラスメイトに自慢しようと思って着ていたカッコ良いボタンダウンのシャツは、今はすごく蒸し暑く感じる。これから山道を登らなきゃいけないんだからと、シャツを脱いで自転車のカゴに入れた。まだランニング一枚がちょうどいい気温だ。
僕は自転車を漕ぎだした。
最初は少しふらついたけど走り出すと爽やかな風が肌に当たって気持ちいい。
木陰は昨晩降った雨が少し残っていて、青々とした木々からたまにポツンと露が落ちて顔にあたる。
「つめたっ」
「きゃっ」
女の子の顔にも露が落ちたのかもしれない。小さく叫んで僕の横っ腹をしっかりつかもうとする柔らかい掌に少しドキドキした。
デコボコ道で揺れるたびに、後ろの女の子はキュッと強く掴み、たまに「きゃっ」と小さな声をあげる。そうかと思ったら僕の右肩をさらさらと指で撫でる。ゴミでもついてたのか、凄くくすぐったい。お母さんや友達に触られるときの、今までに知っている感覚とちょっと違う。
夏休みに大輔の家で見せてもらった本物の有害図書の一ページが急に頭に浮かんだ。
僕はバカか。何考えてるんだ。
何だか急に恥ずかしくなる。暑いからってランニング一枚になるのは間違いだったかな、とちょっと後悔しながら自転車を漕いだ。
一九九五年。
それが僕の、夏の終わりだった。
③「過去(血)」へつづく ▶
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