兆していく話
予期せず、その人とふたりきりで 数時間過ごすことになった。
ひと月前のわたしなら その人を前に浮き足立ち、何を話しているか 何を聞いているかを見失って ただ そこに居ただろう。
今のわたしは 体の真ん中に細胞が朽ちた空洞を抱いていて、その人を前にしても 凍った心は ただ 凪いでいた。
その人といろいろ話したり 聞いたりする流れで、わたしの過去の話になった。
抑え込もうとしてくる相手に 真正面からぶつかって闘って絶望して「一生 分かり合えない相手だと確信して、目の前でシャッターが降りた」と話した時。
その人は
大きな声で 笑った。
わたしは
驚き 戸惑った。
これまで 数人に同じ話をしたことがあるけれど、わたしと一緒に 呆れたり 憤ったり 泣いたり 慰めてくれたりする人ばかりだった。
“大きな声で 笑う” は、初めての、予想だにしない反応だった。
その人は
どこかすごく愉快そうに、大笑いした。
その様子を見ていたわたしも
だんだん可笑しくなって、笑った。
そして、なんだか すっきりした。
「真正面から闘うと、自分が相手を傷つけて 逆の立場になることもある。
別の方法もあるんだよ」
と その人は言った。
これまで わたしの中でずっと澱のように静かに積もっていたネガティブな記憶や感情を、その人は 笑い飛ばして 一瞬で昇華した。
その後 わたしたちは外に出た。
その人は 空を見上げて
「空が ものすごく青い」
と 言った。
わたしは なんだかすごくこそばゆくて、反対側の空を指して
「こっちには 黒い雲が」
と 言った。
その人は
「ほんとだね」
と 言ったけれど、
わたしは
その人とずっと 青い空を見上げていればよかった
と、いま 後悔している。
