【短編小説】靴も脱がずに──生活の温度
靴を脱ぐ余裕もなく、玄関に座り込む夜がある。
正しさと疲れが、冷たい床にそっと落ちていく。
暮らしの中では、幸せと淋しさが静かに混ざりあい、
その温度だけが、ゆっくりと揺れていた。
幸せと淋しさは、静かに混ざりあう。
「…終わらない」
鮫島はつい口に出していたようだ。資料用の文書の打ち込み作業をしていたのだが、後10分で昼休憩だというのに、作業にめどが立たない。
隣で作業をしていた先輩の高木さんが、鮫島をぎょっとした顔で見た。
身体が、自然と自分の声にならない『あっ』と言う声を拾って、びくりとしたが、それだけだった。何事もなかったようにキーボードを打ち平静を装った。
鮫島は1か月前にこの音楽事務所に入社したばかりだったが、「出来ない奴」と思われるのが怖かった。弱みを見せまいとクールなふりをするのだが、元来が怠け者なのできっと周りにはバレていると思っている。
多田さんが退職した。
つい一週間前の事だ。オフィス内での派手な別れ話の末だった。オフィス中の人と、鮫島もそれを見ていた。当の宮田本人はその翌日、何事もなかったかのように出社し、自分のデスクのPCで、ニュースをチェックした。
鮫島はこの件に関して特別な関心はなかった。今、仕事の量が増え終わらないのは多田が辞めたからに他ならないのだが、でも、多田を少しだけ気の毒だと思っていた。
「キンコンカンコーン」
昼休みを告げるチャイムの音が軽やかに流れた。
いきなり鮫島は自分のスイッチをオフにした。
『やめよう!そして、早く戻って、残りをやろう』
鮫島は長財布を掴むと社食のカフェテリアに向かった。
何を食べようかとカフェテリアの前に出してある、洒落た黒板のメニューを仰いだ。
“五穀米の野菜カレー”
ヘルシーでしかも安くって早そうだなと思った。これにするかと思ったその時、隣に宮田さんが並んで一緒にメニューを眺め始めた。
「俺、今日はチキンソテーとライスにしよっかなぁ」
鮫島は、そのままカフェテリアの中に入っていって、列に並んだ。宮田さんが呼んでもいないのに、後から追いかけてきて鮫島の後ろに着いて、ニコニコとひきつった笑いをしているのが、ちらりと見えた。
「鮫島さん自炊する?」
「しますよ。一人暮らしですから」
鮫島は前を向いたまんま答えた。
宮田さんはルイビトンの長財布を持つ手を胸のあたりで組んで、片足を斜め前に出して、何だか、そわそわしている。そして、その顔を近づけてきて小声でこう言った。
「ひどいもんだったんですよ」
鮫島は何も答えずに前を向いていた。すると、勝手に又
「多田さんのご飯」
元カノを口説き道具にするところが、人として間違っている。
「ヒ素でも入っていましたか」
宮田が鮫島の気を惹きたくてこんなことを言ってきているのは分かった。鮫島が入社したてで右も左も分からなかった時、“この前出張した時、君によく似た女の子を買ったんだ”とやっぱり、底の浅い口説きをしたことがあった。
宮田さんは鮫島の冷たい答えに、何か聞き間違えたかと言うようにうッと顔を引いた。
「ははは、冗談?」
鮫島は順番が回って来たのでトレーを手に取った。宮田さんも慌てた様子でそれに続いた。
「五穀米の野菜カレー」
鮫島はカウンターで注文をした。
宮田さんがチキンソテーとライスを下さいと注文していたのが聞こえたけれど、さっさと前に進んで、お会計を済ませた。
宮田さんもお会計の所へやって来て鮫島の顔を見て話しかけようとしたので、鮫島はついと、先を急いだ。
鮫島は、はたと立ち止まった。そして、後ろを振り返って、これだけ聞いておこうと思った。
「多田さんは、宮田さんが買っておいた食材を使って料理をしたんですか?」
「?なんで?多田さんが自分で俺んちの近所で買ってきた食材でに決まってるじゃないですか」
鮫島は大きく肩を揺らしてため息をついた。
「味音痴だったんですか?多田さん」
「いや。具が大きかったり、かまぼこ細かく割いてなかったり」
黙っている鮫島を見て宮田さんは、少し焦ってご機嫌を取った。
「だってね、週末俺の所に来て、そんな料理を三度三度作るんだよ」
「家庭料理なんてそんなもんです」
鮫島はテラス席に丁度椅子が一つだけの席が空いていたので、そこにトレーを置いた。
すると、宮田さんはトレーを持ったまま茫然としていたが辺りを見渡し、自分のトレーを一度他所のテーブルに預けてから、使ってない椅子を見つけてきて向かいに置いてきた。そして、
鮫島がテーブル一杯に置いたトレーを自分のトレーでグイグイと押しのけ、そこに置くと、にや にや笑いを浮かべて向かいにすとんと座ってしまった。
鮫島は一瞬動きを止め宮田さんを見た。
だが、躊躇している暇はなかった。早くオフィスに戻って、残りの仕事を2時までにやっつけてしまわなければいけなかった。鮫島は、コップに入った水にスプーンを付けると、カレーを食べ始めた。
何故かそれをいい合図と受け取ってしまった宮田さんが
「だけど俺、一度も美味しくないって言わなかったんだよね。可愛いところあるんだよ」
スプーンを運ぶ手を止めている暇はなかった。
「じゃあ、お金浮きましたね。週末の食事が三度三度なんだから。他にも何かしてくれてたんじゃないですか?多田さん」
自然と尖った声になってしまった。
「え?まぁ。掃除機かけてくれたり、トイレ掃除してくれたり、買い物行ってくれたり…いろいろでも、下手だったよ、いつも掃除機かけた後、ゴミ落ちてたし」
「ご飯も、掃除も、美味しかったとか、ありがとうとか言いました?」
「そんなの言わなくても分かるでしょ」
そして、鮫島は椅子をガタンと鳴らして立ち上がった。
宮田さんがびくりとして、見上げていた。
鮫島は残されたカップを見つめた。
宮田さんの喉が、何かを飲み込むように動いた。
「宮田さん。女の献身に誠意で応えられない男は男じゃないです」
思わず鮫島の声は鋭く大きくなっていた。
多田さんに同情はするけど、二度と会える人ではないし肩入れしなければいけない理由は無かった。友達でもないし。
だからといって、多田さんの献身に対してあまりに失礼だ。
目の前の宮田さんを見ると、キャベツと、赤キャベツの千切りにチキンソテーが乗った皿から切れ端を一つ取ったところだった。
鮫島はトレーをつかむと、すぐ後ろの返却棚へトレーを返した。
カフェテリアにいた人たちの顔が一斉にこちらを向いて、静かになっていた。
鮫島は出口に向かい、歩きながら震えた。
こんなに自分は熱い人だったっけと、鮫島はそんな風に思った。
宮田は黙っていた。
家に帰ると、鮫島は玄関のところで靴も脱がずに座り込んだ。
午後の仕事の間は忘れていられた。でも、帰りの電車に乗ったとたん、あの場面を何度も思い出してしまった。
なんであんなことを言ってしまったのだろうか、とも思うし、この上なく自分らしいと思ってしまうところもあった。
あれからオフィスに戻ってみると、女の人たちが一斉に鮫島の所へ寄って来て、事の顛末を聞きたがった。
あれって、何?って。
隣の席の高木さんは
「鮫島さんって、静かでクールなんて思っていたのに、宮田さんを一喝するなんて凄い。宮田さんって、のらりくらりとしていて、糠に釘みたいなところがあったからさ」
意外に早く自分の化けの皮が剝がれたようだ。
そして、また一つ、宮田さんの情報が手に入った。
『糠に釘』なのか。宮田さんって。
鮫島は今日の会話をよく思い出してみた。
「言えてる。糠に釘だった」
「わかるー?」
高木さんは大はしゃぎをした。
宮田さんはお昼休憩の後、すぐに営業に出てしまったらしくデスクには帰ってこなかった。鮫島は約束の2時に資料を作り終え課長に渡すことが出来た。
鮫島は靴を擦って脱いだ後、四つん這いになって部屋に上がった。そして、フリーラックに手をかけて立ち上がると、虫かごに入ったカタツムリをかごごと取った。
ペットが欲しいのに、ペット禁止のマンションだった。
ペットになる生き物が何かないかとweb検索すると、「カタツムリ」がヒットした。
鮫島は近所のお寺に良く手を合わせに行っていた。そこのアジサイの上によくカタツムリが乗っている事を知っていたので、ある日、2匹失敬してきた。
自炊で使っていた野菜の切れ端を、切れ端が出る度に与えていた。
虫かごの中のカタツムリ2匹を眺めると濡らしたキッチンペーパーとキャベツの下に潜り込んでカタツムリのまるさんは休んでいる。
気に入った様子だったのが嬉しかった。
今日は、少し暖かかったから後で、水をたっぷりめにあげよう。そう思った。
その時、滅多にならないスマホの電話の着信音が鳴って、一瞬、何の呼び出し音か理解できなかった。
『ああ、電話か』と、受話ボタンを押しスマホを耳に当てた。
「もしもし」
慌てていたので、それが、登録してある番号でないのに気付かずに出てしまった。
誰だろう。
「鮫島さん。多田です」
びっくりした。
だって、電話番号を多田さんに教えてないし、聞いてない。
「高木さんから、今日のこと聞いて、だから、無理に鮫島さんの電話番号教えてもらったの驚いたわよね」
なるほど、隣の席の高木さんか。前にそう言えば、歓迎会の時、場所を後で教えるから連絡先教えてって言われて教えた気がする。
「宮田に怒ってくれたんだって?」
「あんまり腹が立ったもんだから。ごめんね。別れたとはいえ、元カレだものね。悪く言われて怒って電話かけてきたんだ」
「ちがうわよ。いいのよ。もう」
そう言った多田さんの声は笑っていて、湿り気がなかった。
「ね。多田さん。もしよければ、聞かせてよ、話」
少し間があって多田は話し出した。
「宮田って、バツイチなのよ。」
静かな声で、多田さんは話し始めた。たっぷりとした間があったが鮫島は話を逸らさないように敢えて返事をしなかった。
「宮田ね。元の奥さんに洗濯物をしてもらっていたのよ。私と付き合いだしても。それ最初隠してたのよ」
「洗濯物……って事は近所に住んでいるのね。元の奥さん」
「——そう。だから、私、近所を一緒に歩く時、隣を歩かせてもらえなかった。元の奥さんに、私の存在が知られるのが嫌だったんですって」
「…そんなこと」
鮫島は言葉が継げなかった。
「私、宮田が付き合ってくださいって言った時、もういい歳だったのね。だから、遠回りしたくなくて、慎重になったの。宮田に他に付き合っている人がいないか、それとは別にパートナーがいないか、果ては、離婚理由に女の影がないか確認したの。でも、無いって答えたのよ。だから、付き合ったの。もし、いまだに洗濯物をしてもらっている別れた奥さんがいるなんて最初から知っていたら、付き合ってなかった」
そして、多田はため息交じりに、こう続けた。
「嫌なものよ。着た物が全部自分とは違う、自分より気安い女の人の所へ行くって。言葉でいくら好きって言われても信じ続けることができないのよ。無造作に戻ってきた洗濯物が部屋の隅に積まれていたりしてね。結界が張られているように感じた」
「そこまで……どうして?どうして、お付き合い止めようとは思わなかったの?」
「相談した人にも言われた。止めなさい。って。でもね、中々出来るものじゃないのよ。やめた方がいいって分かっていて、走り始めた心をとめるのって。どうしても、やめるって決断が出来なくなっていた」
相談する相手もそれでは、言う相手もいなかったろう。鮫島はそう思った。
「でもね。別れを決めた理由はそれじゃなかったのよ。」
多田さんは、続ける前に一瞬だけ沈黙した。
「え?でも、黙っていた事を怒っていたんじゃないの?」
「それは、そうなんだけど。先月、二人いる娘さんの上の子が誕生日だったのね。それで、誕生日プレゼントを買ったんですって。宮田の趣味って乗馬なのよ。知ってる?」
突然の話題転換に、きっと何かあるんだなと思ってついて行った。知らないわと答えた。
「宮田ってお金がなくて、いつでもかつかつの状態だったのよ。何か特別お金が出ていってしまった時は、私に借金していたの。貯金なんてする人じゃないの。必要なお金だって積み立てしないような人だったのよ。なのに、娘さんのお誕生日プレゼントは買えた。これ、どうゆう意味か分かる?」
鮫島は分かったと思った。
「私が週末作っていた食事で浮いたお金が、あちらに流れていたのよ。違う?」
『宮田さん。女の献身に誠意で応えられない男は男じゃないです』
鮫島は昼間自分が言った言葉を思い出していた。
多田さんの献身が、削られて行っていたのだと感じていた。
「その事に気付いた時、私、もう、二度とここに来ては駄目だってそう思ったの。だから、別れたの」
その時、頭の中に言葉が過って、鮫島は、思わず声に出した。
「思い至れない人」
「え?」
「宮田さんは“思い至れない人”そうじゃない?」
鮫島はそうつぶやいた。
多田さんはわずかの間の後
「ええ。そう………ホントにそう。凄い、あなたネーミングの才能あるわよ。そうなの、“思い至れない”のよ、あの人って。一言で言い当てたわね」
「洗濯物を元の奥さんにしてもらう事で、多田さんが隣を歩けなくなって、どんなに尊厳を傷つけられるかってことが、そして、どんな思いをしてしまうのかを“思い至れない人”」
「ええ。そうね」
「お金が浮いたことで、多田さんに贈り物をするでもなく、娘さんのお誕生日プレゼントを買って贈ってしまった結果、何が起きるのかが“思い至れない人”」
「ええ。ええ。まさしく。そうね。でもね、私、贈り物が欲しいとかあまり思ったこと無いのよ。高いものが欲しいって言うよりもね、例えば、アイスクリーム買ってきてくれるとかだって嬉しいの。だって、自分のアイスを買おうとしている時に、私の事思い出してくれたわけじゃない。私も食べるかなって買ってきてくれるその気持ちがね、嬉しいなって思うのよ」
「そうね。それは私もそう思う。額じゃないのよね」
「そうなの。そうなの」
多田さんは、少しだけ間を取ってから続けた。
「でもね、こうも思うのよね。そもそも、宮田が“思い至れない人”だったから、私達付き合うことが出来たのよ」
「え?どういう事?」
「元奥さんに洗濯物をしてもらっているのを隠しておいて私と付き合うと何が起こるのかに“思い至れない”から、付き合おうと言ってしまった。そして、私は隠されていたからOKした。それがなかったら、つきあうことすらしてなかった」
「そうか。そうだね。宮田さんが“思い至ることが出来ない人”だったから出会って、“思い至ることが出来ない人”だったから、別れることになった。だから、出会うべくして出会って、別れる時に別れたのかも」
「嫌な思い出ばかりじゃなかったし。嬉しい事もたくさんあったしね。あれで、中々、面白い男だったのよ、宮田って。色んな事に興味持っていてね。いい刺激一杯貰った。後悔してないわ」
そう言った多田さんの声は、本当に後悔がないように聞こえた。
「でも、二度とは戻れない」
多田さんは決意のように言った。『戻らない』ではなく『戻れない』悲しい響きだ。終わるべくして終わったのだ。
「うん。ねぇ。宮田さんが恋しい?」
「うん。とても………とても」
一瞬、辺りは静まり返って何事もなかったかのような風が吹いて、レースのカーテンが揺れた。
窓から満月が見えた。
「話したくなったらさ、この番号かけてよ、いつでも。夜なら暇しているから」
「………いいの?」
「いいよ」
多田さんは、少し泣いていたような声を出した。
「私、嫌な人だったでしょ?ごめんなさい」
「私が宮田さんの隣だったからでしょ?わかるよ。怒ってないよ」
「宮田が鮫島さんの事タイプだって言っていたから、気が気じゃなかったの」
「私?どこら辺が?」
「普通のカテゴリーに入るところがですって」
多田さんはもう、涙声ではなかった。
「私、そういうカテゴリーなのね。普通の人が好きって人もいるんだ。世の中バランスがあるね」
「いるいる。そういう人多いよ」
「多田さんはどうゆうカテゴリーなの?」
「ぽっちゃり系ですって」
「人の好みっていろいろだね」
「世の中の人って、皆痩せていて、美人の人が好きなのかと思っていたんだけど、宮田はどっちも苦手なんですって」
何となく可笑しい。
二人で、フフフ、と笑った。
「鮫島さん。あなたって、寒い朝に出会ったホットチョコレートみたい。安心するわ」
「多田さん、今度……ううん、また今度」
そして、多田さんは、おやすみと言って電話を切った。
献身を軽く扱われ、尊厳を傷つけられて、尚、宮田さんを“恋しい”という感覚を正直に言う多田さんが、鮫島は嫌いではなかった。
鮫島が見ていた “浅い口説き文句を言う倫理観に乏しい”人ではない宮田さんを、多田さんは見ていたのだろう。
良いとか悪いとかを超えた性質の様なものを理解できるその感覚が、鮫島は好ましいと思った。
鮫島は電話を切ってから、ごろりと床に寝そべった。
床に置いたスマホに虫かごが映っていた。虫かごにはカタツムリが2匹。
カタツムリは乾燥に弱い。
これから、夏場になったらこの部屋の温度は上がる。
そしたら、フリーラックの上ですら危険だなと思う。
より安全なのは、やはり北側にあるキッチンかしら。
トースターすら置くところが無くて、パンを魚焼きグリルで焼くような鮫島なのに。
場所がない。
最悪、床で良いのかな。
そんな無計画さを、だらしないなと思った。
「まーるさん」
床の上の虫かごに話しかけても、カタツムリのまるさんは答えない。
ただ、白い卵の殻の上をゆっくりと移動していくのが見えるばかり。人間とは違う。違うけど、コミュニケーションはとれる。
鮫島はアトマイザーを取って、蓋を開けると、霧を吹きかけてあげた。
まるさんは喜んで、ぐりんぐりんと殻を回した。
鮫島は、微笑んだ。
<あらすじ>
多田さんの暮らしには、幸せと淋しさが静かに混ざりあっていた。 献身はいつしか搾取へと変わり、尊厳は小さな言葉でそっと傷ついていく。 宮田の優しさはどこか欠けていて、悪意のないまま人を疲れさせる。 その生活を見つめた鮫島は、正しさだけでは救えない温度に触れる。 誰も悪者にならないまま、ただ生活の揺れだけが静かに残っていく物語。
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