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触れれば、戻れない。 ——告白しない男の、誠実で残酷な恋 第1章

【あらすじ】
英国で長年執事を務めてきたセバスチャンは、日本で女性経営者と半年限定の住み込み契約を結ぶ。
「雇用主を惑わせない」「私的感情を持ち込まない」――徹底された職業倫理のもと、二人は一定の距離を保ったまま生活を共にする。
だが日常を整える時間の中で、彼女は雇用主から“選びたい相手”へと変わっていく。
触れないことで保たれていた関係は、契約終了が近づくにつれ静かに崩れ始める。
何も残さず去ることを誠実とする男と、引き止める言葉を言えない女。
帰国前夜、二人は境界の外で向き合う。
触れれば終わるはずだった関係は、触れないままでは終われなくなっていた。
――それでも、二人は選ぶ。


【第1章 触れれば、戻れない】

その夜、すべては終わるはずだった。
半年続いた契約も、この部屋での関係も。
何も起きないまま終える――そのための夜だった。

玄関には、使い込まれたスーツケースが置かれている。
女が、見ないふりをしていられる位置に。

テーブルには、赤ワインとグラスがふたつ。

男はワインボトルを傾ける。
赤が静かに満ちていく。

満たされたグラスを、女の前に置く。

ふたつ目のグラスには、少なめに注ぐ。
液面は女のグラスより低い。
どちらのグラスにも、まだ誰も触れない。

女は何も言わない。
男も何も言わない。

二人の指は、どちらもグラスの近くにありながら、まだ触れずにいる。

沈黙だけが、二人のあいだに静かに落ちていた。
先に動いた方が、何かを壊してしまうような沈黙だった。

――まだ、何も起きていない。
そういうことに、しておく必要があった。

触れれば、戻れなくなる。
――それでも。
触れずに去れるほど、
もう二人は遠くなかった。

あの契約がなければ、この夜はなかった。
本来なら、結ばれるはずのない契約だった。


お読みいただきありがとうございます。

この先、二人の距離は大きく動きません。
けれど、戻れなくなっていきます。

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