触れれば、戻れない。 ——告白しない男の、誠実で残酷な恋 第11章
【第11章 触れれば、始まる ――帰国前夜】
帰国前夜。
執事として、最後の夜。
月曜日ではなかったが、燕尾服を着ることは前から決めていた。
夕食は、いつもと変わらない手順で整えられた。
食卓に着いた彼女は、いつものように軽く礼を言い、
私はいつものようにそれへ応じる。
どこから見ても、普段と変わらない夜だった。
ただ、ひとつだけ。
キッチンのワークトップに、ワインボトルが置かれていた。
私はそれについて、何も言わなかった。
彼女もまた、触れなかった。
食事が終わる。
私が皿を下げ、彼女がグラスを寄せる。
その手順もまた、いつも通りだった。
それでも、視界の端にはずっとその瓶がある。
細長い首。
深い色のガラス。
クララから託されたままの一本。
私は一旦ジャケットと白手袋を脱ぎ、食器を洗い終えてから手の水気を拭き取る。
彼女はダイニングに残り、何も言わずにボトルを見ていた。
沈黙は落ち着いていた。
落ち着いているはずなのに、どこかだけが静かに張っている。
燕尾服のジャケットに再び腕を通し、白手袋をはめる。
「……お飲みになりますか」
先に口を開いたのは、私だった。
ワインボトルを手に取り、テーブルへ戻る。
彼女はすぐには返事をしなかった。
ボトルへ視線を落とし、それから私を見る。
「それは、クララからの?」
「ええ」
「そうですか」
それだけ言って、彼女は小さく頷いた。
聞き返さない。
どんな理由で渡されたのかも、なぜ今ここにあるのかも、問わない。
その引き方が、今夜は妙に静かだった。
「でしたら」
彼女はボトルから視線を外さないまま続ける。
「開けてもいいのかもしれませんね」
私は答えず、棚からグラスを二つ取り出した。
脚の細いものを選ぶ。
音を立てないようにテーブルへ置く。
彼女の座る席の傍に立つ。
コルクへ指をかけるその所作だけが、やけに鮮明だった。
抜栓の音は小さかった。
静かな部屋には、それで十分だった。
赤ワインを注ぐ。
液面はゆっくりと上がり、わずかに揺れ、すぐに落ち着く。
満たされたグラスを彼女の前へ置く。
触れた指が、グラスの脚にわずかに留まる。
今夜は、すぐには離れなかった。
自分の分には少なめに注ぐ。
一度だけ液面の高さを確かめた後。
対面の席へ置き、私は燕尾服のテールを整えながら音を立てずに腰を下ろした。
テーブルの上には、細い脚のグラスがふたつある。
赤い液面に、灯りだけが揺れている。
グラスには、まだ触れない。
触れれば、ただの送別では済まなくなる。
それを知りながら、私はまだ、最後まで執事でいられると思おうとしていた。
ワインを飲む理由なら、いくらでも作れる。
送別。
節目。
クララの託し物。
そうした言葉のどれもが、今夜に触れるための言い訳に見えた。
だから、誰もそれを口にしなかった。
彼女は何も言わない。
私もまた、何も言わない。
私は彼女を見る。
彼女は、まだグラスに触れていない。
だが視線は逸らさず、こちらを見返している。
――まだ、何も口にしていない。
それでも、何も起きていない夜ではなかった。
――触れれば、戻れなくなる。
そのはずだった。
そう思っている自分が、まだいる。
けれど、本当はもう、戻る場所など残っていないのかもしれなかった。
テーブルの上、赤い液面に灯りが揺れる。
私の指先は、まだグラスの近くにある。
彼女の指もまた、脚の細いグラスのそばに置かれていた。
私はグラスのそばで白手袋をはめた手を閉じ、呼吸をひとつ、整えた。
もう戻れない距離を、受け取られたなら。
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