触れれば、戻れない。 ——告白しない男の、誠実で残酷な恋 第7章
【第7章 白手袋という防壁】
昼食後の食器を洗い終え、私は手の水気を拭き取った。
布巾を畳み、白手袋へ手を伸ばす。
その時、冷蔵庫の前にいた彼女と目が合った。
「洗い物をありがとうございます、セバスチャン」
「いえ。いつものことでございます」
そう答えながら手袋を取ると、彼女の視線が白布ではなく、私の手そのものへ向いていることに気づいた。
「……待ってください」
私は手を止める。
「白手袋をはめる前に、少しだけ見せていただけませんか。セバスチャンの手」
「手、でございますか」
「はい。普段、あまり見えないので」
奇妙な願いだった。
不快ではないが、扱いに困る。
白手袋は、触れてしまう自分を職務の内側へ留めておくためのものだった。
素手を見せるという行為には、必要以上の意味が宿る。
「見るだけでしたら、構いません」
そう伝えると、彼女はシンク下の引き出しを開け、炊事用の薄い手袋を取り出した。
そして手早くはめ、向き直る。
「準備できました」
「……何の、でございましょう」
「直接触れないための準備です」
そこまで準備されるとは思わなかった。
観念して、右手を差し出す。
彼女は思いのほか真剣な顔で、私の指先を見ていた。
爪の形。
関節の線。
手の甲に浮く影。
見栄えのためではなく、乱れないように整えてきた手だ。
それを確かめるように、彼女は静かに視線を巡らせていく。
「見えない場所なのに、とても丁寧に整えているのですね」
「若い頃に教えられたのです。主に触れる手が、乱れていてはならない、と」
彼女は私の手から視線を上げた。
「……手だけ、ではないのでしょうね」
私は一瞬、言葉を止める。
表面の話ではないと、わかっていた。
「はい。手入れのことだけではなく、執事としての在り方そのものだと」
彼女は小さく頷いた。
いつものように冗談へ流さず、その言葉をそのまま受け止めるような頷きだった。
私は改めて白手袋を手に取る。
これ以上、素手のままで立っているのは落ち着かない。
だが、彼女はそこでさらに言った。
「それを、はめるところも見せてください」
「……白手袋を、でございますか」
「はい」
ほんの一瞬、迷った。
それでも、断る理由が見つからなかった。
「では」
右手から、ゆっくりとはめる。
布の口を広げ、一本ずつ指を収める。
急がず、力まず、皺だけを整えていく。
左手も同じように。
最後に両手を胸の前で軽く合わせると、ようやく呼吸がひとつ落ち着いた。
彼女が静かに言う。
「白手袋をはめる所作は、儀式みたいですね」
「儀式、でございますか」
「はい。仕事に入るための、切り替えのような」
その言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。
見透かされた。
白手袋は単なる制服の一部ではない。
―境目だ。
そのことを、彼女は何気なく言い当ててしまう。
心の中で苦笑した、その直後だった。
「セバスチャンの白手袋、はめてもいいですか?」
私は一瞬、返答を失った。
「……私の、ですか」
「はい。だめでしょうか」
だめではない。
――無防備すぎる。
私はわずかに間を置き、今はめているものではなく、椅子に掛けていたスーツの内ポケットから予備の白手袋を取り出した。
「こちらでしたら」
「ありがとうございます」
彼女は嬉しそうに受け取り、片手ずつ丁寧にはめていく。
当然、サイズは合わない。
指先が余り、白布はぶかぶかのままだった。
「大きいですね、セバスチャンの手袋」
そう言って、彼女は少し笑った。
似合わない。
それなのに、私は視線を外せなかった。
触れてはいない。
同じ布越しですらない。
それでも、
内側へ踏み込まれた。
白手袋は、触れないためのものだと思っていた。
距離を整え、役割を守るための布だと。
だがいま、その白さは何ひとつ私を守っていない。
やがて彼女は手袋を丁寧に外し、きちんと畳んでテーブルに置いた。
「貸してくれてありがとうございました、セバスチャン」
「……いえ」
彼女は満足したように微笑み、そのまま仕事部屋へ戻っていく。
あとに残された白手袋を見下ろしながら、私はしばらく動けなかった。
布一枚では、守れない線がある。
揺らいだのは距離ではなかった。
――今日、知った。
守るはずのものの揺らぎが、伝わったなら。
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