多言語観察|結構違う、「思いやり」のあり方 / Multilingual Observation|How “Kindness” Takes Shape across Languages
【こころの言葉 2】
前回、「癒す」という言葉を考えた。
「癒す」について考えるにつれ、自分の中に静けさが戻ってきた。
その静けさに包まれていると、不思議と心が満たされるような感覚になる。
少し気持ちに余裕が出てくると、自然とまわりにも目が向いてきて、誰かに何かしてあげたくなる―そんな心の動きが、「思いやり」なのかもしれない。
でも、「思いやり」もまた、言語によって、その在り方がかなり違う。
日本語:想像力を働かせて、「察する」
日本語の「思いやり」は、察することに重心がある。相手の言葉より先に、空気や間を読んで、気持ちをくみ取る。やさしさというより、一種の「想像力」に近いのかも。
ーだからこそ、「思いやり」は時に疲れる。
言葉を交わさずに伝えようとする分、自分の中の「察する力」を使うから。自分のことならまだしも、相手がどういう気持ちかを考えるのって、ものすごくエネルギーを使う。だから、「思いやり」って、実は、けっこう疲れちゃう側面を持つ。
フランス語:「距離を保つ」やさしさ
フランス語で「思いやり」に近いのは "empathie(共感)" や "bienveillance(善意)" だろうか。
どちらも相手を尊重するが、そこには「距離」がある。相手の感情に入り込みすぎず、自分の境界を保ちながら寄り添う。そんなやさしさの形がある。
フランス語の「やさしさ」は、感情というよりむしろ、態度だ。相手を一人の人格として認めることが、思いやりになる。
アラビア語:「授かる」慈しみ
アラビア語で「思いやり」に近い言葉は رَحْمَة (raḥma) だろうか。とはいえ、だいぶ意味が違うように感じる。というのも、この言葉は「慈しみ」の意味にも近いから。
人が誰かに優しくするのは、その人が優しいからではなく、神からその慈しみを分け与えられているから―そんな世界観が根底にある。
つまり、「思いやり」は人が生み出すものではなく、「授かる」もの。
だから、思いやりを持つことが、自分の信仰や感謝の表現にもつながる。
言語が違えば変わる、「思いやり」のかたち
日本語では相手を察する想像力、フランス語では距離を保つやさしさ、アラビア語では神から授かった慈悲の心。
それぞれの言語が描く「思いやり」には、人と人との距離のとり方が反映されている。
癒しによって生まれた静けさが、内に向かうのか、外に向かうのか。その向かう先の違いに、「思いやり」という言葉の多様さが現れている。
声も、少しずつ戻ってきた。
もしかすると、「癒し」も「思いやり」も、静けさから音に変わる瞬間が来たってことなのかもしれない。
最後にちょっとだけ、これを読んでくださったあなたへの問いかけを。
今日、あなたはどんな「思いやり」を受け取りましたか?
※【関係性の言葉】に続きます。お時間あれば、ご覧ください。
※ 多言語観察 目次↓
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