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【妄想シリーズ】「妄想の雨」

雨の夜だった。駅前の喫茶店を出たとき、彼女は傘を持っていなかった。正確には、持っていないように見えたのではなく、ただ少し困った顔をして、空を見上げていた。その仕草だけで、私はもうだめだった。

あの人は、何気ない動作をひとつするたびに、こちらの想像力を静かに暴力みたいにねじ曲げる。髪を耳にかける。グラスに口をつける。少しだけ首を傾ける。それだけで私は、触れもしない未来を勝手に先回りして、勝手に熱を持つ。現実の彼女は何もしていないのに、私の中ではいつも、すでに危険なほど近い。

「送りますか」

そう言った声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。彼女は一瞬だけこちらを見て、それから小さく笑った。その笑い方がまずい。あまりに柔らかくて、あまりに無防備で、私は頭のどこかが静かにひび割れる音を聞いた気がした。

「じゃあ、少しだけ」

少しだけ。たったその言葉で、私はひとつの長い物語を勝手に書き始めてしまう。並んで歩くこと。傘の端が肩に触れること。沈黙のあいだに何かが起きそうで、何も起きないこと。その何も起きない時間のほうが、むしろ私をひどく昂らせること。私はそういう人間だった。起きた出来事より、起きるかもしれないという予感で壊れてしまう。

歩道に雨が細く落ちて、街の灯りをほどいていた。彼女は少し前を歩いた。視線を落としたまま、何でもない話をしていた。私はそれに相槌を打ちながら、ほとんど聞いていなかった。聞いていたのは声の温度だけだ。雨粒みたいに冷たく、なのに妙に甘い。その甘さがどこから来るのか分からないまま、私は勝手に喉を渇かせていた。

角を曲がると、彼女は立ち止まった。家の明かりが、濡れた髪の先をかすかに光らせている。私はそこで、何かを言うべきだったのだと思う。けれど実際には、何も言えなかった。言葉にした瞬間、私の中で膨らみすぎた熱が、あまりにもみっともない形で外へ出てしまう気がしたからだ。

彼女は振り返って、「ありがとう」と言った。

その一言で十分だった。十分すぎた。私はうなずき、彼女が玄関に入るまでを見ていた。扉が閉まる。そこで終わりだ。何も始まっていない。触れてもいない。約束もしていない。それなのに私は、帰り道ずっと自分の中の空白を抱えたまま歩いた。

あの夜、私はようやく気づいた。私を苦しめていたのは、彼女ではない。彼女の何でもない仕草に、何か特別な意味を勝手に与えてしまう、自分の妄想のほうだった。

それでも、困ったことに、その妄想は嫌いになれなかった。
何も起きなかったからこそ、私は今もあの雨の匂いを思い出す。
そして思い出すたびに、まだ起きていない何かを、また少しだけ期待してしまう。





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