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【雨季の宿】第一章🪲カブトムシを探しに来ただけだ

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第一章🪲カブトムシを探しに来ただけだ

そう口にしてみれば、いかにも無邪気で、取るに足らぬ動機のように響くかもしれない。

実際、それはバンコクの安宿で耳にした、どこの誰とも知れぬ男の、酒にまみれた与太話に過ぎなかったのだから、なおさらである。

夜毎にバックパッカーたちの間で繰り返されるそうした武勇伝は、たいていが虚構であり、誇張であり、あるいはその場限りの慰めに過ぎない。

しかし、すべてが嘘とも限らぬという微かな可能性の澱(おり)が、かえって人の心にこびりつく。

その輪郭の曖昧さが、妙に手放しがたいものに思えたのだ。

だが、わたしが北の辺境であるこの地へ逃げ込んできた理由は、もちろんそれだけではなかった。

バンコクに、長く居すぎたのである。


あの街の夜は、ねっとりと時間を溶かす。

昼と夜の境界は熱気の中で崩れ落ち、日付という概念は、気づかぬうちに意味を失っていく。

スクンビットの奥、名前も覚えていない埃っぽい通りにある店で、わたしはいつの間にか同じ席に座り、同じ女を呼ぶことを習慣としていた。

はじめは探り合うように英語で交わしていた言葉も、やがては片言のタイ語へと移り、意味の贅肉が削ぎ落とされることで、関係はむしろ密度を増していった。

「กินเบียร์ไหม(ビール飲む?)」

それだけで充分であった。

彼女は笑い、わたしも笑う。言葉はそれ以上の説明を必要としない。

やがて彼女はわたしの部屋に自由に出入りするようになり、洗面台には歯ブラシが一本増え、見慣れぬ衣服が椅子に掛けられ、その存在はぬるま湯のような日常へと自然に溶け込んでいった。

彼女の名を、わたしは確かに知っていたはずである。

幾度となく呼んでいたはずである。

しかし今となっては、どうしてもそれを思い出すことができない。

ある夜、わたしは別の女を部屋に入れた。

カオサンで拾った、スイスから来たというその女は、軽やかな笑い方をし、旅の途上であることを誇るように語った。

英語は流暢で、会話は滑りよく、なにより酒の回りが早かった。

そのまま部屋へ連れ込み、何事もなく夜は過ぎた。ただ、それだけのことであった。

深い意味など何一つない、数時間の交わり。

翌朝、戻ってきたあの子は何も言わなかった。

取り乱すことも、泣き叫ぶこともしなかった。

ただ、冷え切った視線をわたしから外し、口元から笑みを完全に消し去った。

それで充分であった。決定的な沈黙は、どんな罵詈雑言よりも明確に、状況の終わりを告げていた。

わたしは数日後、追われるように街を出た。


移動するための理由を必要としたのである。

「幻のカブトムシ」というのは、そのための、いささか都合のよい口実であった。

赤土の山道を縫うように進んできたオンボロのバスは、予定を半日近く過ぎてから、ようやくこの町に辿り着いた。

夕暮れの光はすでに薄れ、空は濁った灰色から紫へと沈みかけている。

バスターミナルと呼ばれる場所は、トタンの屋根があるだけの粗末な空間であり、ひび割れたコンクリートの窪みには油の浮いた水が溜まり、あばらの浮いた犬がそれを避けるように身を丸めていた。

バスを降り立つと、鼓膜の奥が痛くなるような奇妙な静けさがあった。

エンジンの振動が消えると、それまで気づかなかった巨大な空白が急に押し寄せてくる。

誰も急がず、人々は無言で荷を持ち、それぞれの方向へと自然に散っていく。

その中で、いくつかの刺すような視線がわたしをかすめた。

長くは続かない。

ただ、品定めするように一瞥し、それ以上関わる価値がない(あるいは関わるべきではない)と判断すれば、すぐに逸らされる。

この町に流れ着くファランは、たいてい後ろ暗い理由を持っている。

そして、その理由は往々にして語られないし、誰も問いただそうとはしない。

トゥクトゥクの運転手に道を尋ねると、男は短く顎をしゃくり、指で先を示しただけだった。

それだけで充分であった。

言葉は必要以上に交わされない。

そのこと自体が、ここでは最も自然な振る舞いであった。

舗装はやがて途切れ、むき出しの赤土が靴底にまとわりつく。

木造の家屋と粗末な店がまばらに並び、ひさしのトタンは赤茶けてひしゃげている。

得体の知れない肉の焼ける匂いが低く漂い、脂を含んだ煙が重く路地を流れている。

店先のプラスチックの椅子に腰掛けた男たちは、ラベルの剥げたぬるいビール瓶を手にし、こちらを直接見ることなく、しかし決して監視の目を緩めていない曖昧な視線を投げかけている。

あてがわれた宿に入り、形式だけの手続きを済ませて外へ出ると、空気はすでに夜特有のまとわりつくような湿り気を帯びていた。

裸電球が下がる食堂に入り、ビールと料理を頼むと、店の男は奥の厨房へ引っ込む代わりに店先へ歩み出た。

そして、地面をうろついていた一羽のニワトリを、無造作に、そしてあまりにも正確に捕らえた。

その一連の動作には、ためらいというものが一切存在しない。

羽がわずかにばたついたかと思うと、次の瞬間には首をひねられ、ニワトリは永遠に動きを止めていた。

ごく小さな骨の鳴る音がしたが、それは特別な死ではなく、ただ日常の風景の一部としてそこにあった。

「オーケー?」


振り返った男の問いは、単なる形式であった。

わたしは黙って頷いた。

どうでもよかった。

やがて、規則正しい包丁の音が、奥から響いてくる。

そのリズムは冷徹なまでに一定であり、一切の迷いがない。

隣のテーブルには、初老のファランが座っていた。

ひどく痩せこけた身体からは、鼻腔の奥にこびりつくような、甘く焦げた匂いが漂っていた。

それは衣服にも、髪にも、皮膚の毛穴の奥深くにも染み込み、もはや一生消えることのない種類の匂いであった。

わたしはそれを嫌悪しなかった。

むしろ、どこかで安堵に似た泥濘(ぬかるみ)のような感覚を覚えていた。

同じ種類にまで墜ちた人間がいる場所は、それだけで奇妙な居心地のよさをもたらす。

皿が運ばれてくる。

つい先ほどまで地面をつつき、生きて動いていたものが、唐辛子とハーブにまみれて湯気を立てている。

生命から物体への変化はあまりにも短く、当然の帰結であり、そこに感傷を差し挟む余地は一ミリもない。

逃げていたものが、皿に乗る。喰われる。

ただ、それだけのことである。

店を出ると、通りは濃密な闇と、ぽつんとした灯りとに極端に分断されていた。

その境界は刃物のように明確であり、闇の深奥で何かが蠢いている。路地の奥に、複数の人影があった。声はなく、ただ布の擦れるような動きだけがある。

重たい何かが手際よく運ばれているが、その輪郭は定かではない。

ふいに一人が振り返り、暗がりの中からわたしと視線を交わした。

その一瞬で、充分であった。


わたしは視線を足元に落とし、歩みの速度を変えずに通り過ぎた。

見ていなかったことにする。

それが、この場所で生き延びるための唯一の作法である。

通りの先で、煙草をふかしているファランが壁にもたれていた。

赤い火が、彼の浅い呼吸に合わせて暗闇の中でわずかに明滅する。

「ドント・ルック・トゥー・マッチ(見すぎるなよ)」

擦れヶ様に吐き出されたその言葉は短く、余計な説明を一切含んでいなかった。

わたしは何も答えず、煙の匂いだけを残して、そのまま宿へ戻った。


部屋に入ると、澱んだ空気はまだ昼間のどうしようもない熱を抱え込んでいた。

天井からぶら下がる裸電球のまわりには羽虫が群がり、壁に張り付いた巨大なトッケー(ヤモリ)が、それらを静かに、しかし確実に捕らえていた。

その動きは滑らかで、一切の無駄がなく、残酷なまでに美しい。

染みのついたベッドに横たわる。

汗ばんだ肌に、目に見えない虫が這うような感触が散る。

疲労は骨の髄まで達しているのに眠りは訪れず、時間だけが汗のように粘りつきながら流れていく。

やがて、ノックもなしに扉が開いた。


鍵はかけたはずであったが、その事実にはもはや何の意味もなかった。

若い女が立っている。

何も言わず、さして興味もなさそうに部屋に入ると、当然の権利であるかのようにベッドへ滑り込んでくる。

その一連の動きは機械的で、すべてはあらかじめ決められたビジネスの手順のようであった。

わたしには、彼女を拒む理由も、追い出す気力もなかった。

ただ、黒い流れに身を任せる。

やがて無機質な行為が終わり、女は汗を拭うこともなく無言で手を差し出す。

わたしは財布から紙幣を抜き取り、渡す。

彼女は数えようともしない。

互いの価値は、言葉を交わすまでもなくすでに確定しているのだ。

女は一度も振り返ることなく部屋を去り、扉は軋む音を立てて閉まった。

わたしはしばらく、シーツに沈んだまま動かなかった。

ただ、ひび割れた天井を見つめていた。


電灯のまわりの羽虫は目に見えて減り、トッケーはなおも微動だにせず、次の獲物を待ち構えている。

残っているのは、羽の破れたものや、動きの鈍いものばかりであった。

逃げ遅れたどんくさい命だけが、そこにぶら下がっている。

皮膚の奥で鈍い痒みを感じながらも、それを掻こうと腕を上げる気すら起きない。

いまさら何かを修正したところで、何の意味があるというのか。

さきほどまで頭の奥でざわついていたもの

…路地の影、冷たい視線、バンコクに残してきた女の顔…

それらはいつの間にか遠ざかり、輪郭を失い、意味の束縛から解き放たれていく。

自分がどうしてこんな果てまで来てしまったのか、本当の理由はわかっている。

だが、もはやそれを考える必要はなかった。

むしろ、その理由を明確な言葉にしてしまえば、ようやく手に入れたこの絶対的な静けさが、粉々に壊れてしまうような気がしたのだ。

見上げると、電灯のまわりには、もうほとんど何も残っていなかった。

そのとき、トッケーが低く、喉の奥を鳴らすような湿った声で鳴いた。

  トッケー

重苦しい間を置いて、もう一度。

   トッケー

その原始的な鳴き声は、乾いた夜気の中にインクのように滲み、部屋の隅々の影にまで広がっていく。

かつてバンコクの瀟洒なホテルで聞いたときには不快にしか感じなかったその不気味な響きが、いまは妙に柔らかく、耳の奥の一番暗い場所に落ち着くべき居場所を見つけていた。

錆びついた扇風機の単調な回転音と混じり合い、やがてそれは外から届く音ではなく、自分自身の内側から滲み出る感覚そのものへと変わっていく。

ここは、決して安全な場所ではない。

だが、今夜に限っては危険でもない。

あるいは、安全か危険かという区別そのものが、ここではすでに意味を持たないのかもしれない。

そのぼんやりとした思考は、確固たる形を保つ前に、熱気の中で静かにほどけた。

トッケーの声が、もう一度、ゆっくりと部屋に落ちる。


わたしは、その不器用な子守唄に包まれるようにして、ようやく眠りの縁からこぼれ落ちた。

夢は見なかった。

ただ、深く、濁った水の底へ向かって、重りをつけて沈んでいくように、意識は静かに、そして確実に閉じていった。

その果てしのない沈降のなかで、わたしはほとんど安堵に近いものを感じていた。

それが底辺へ到達したことに対する安堵であるのか、自らの輪郭が消えていくことへの安堵であるのかは、最後までわからなかったが…

少なくとも、そこにはもう、逃げるべき「次」の場所は存在しなかった。

第二章へ続く

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