神は悪を創りしか:そも作るべからざるか(9.7千文字)

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神は悪を創りしか:そも作るべからざるか
v36.13
【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあたっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。
1. 導入
神は悪を創造したのか。この問いは、宗教思想のなかで、幾度となく繰り返されてきました。そこには鮮やかな答えもあります。機知に富んだ切り返しもあります。聞いた瞬間、長年の疑問が晴れたように思える言い方もあります。しかし、その鮮やかさは、ときに問いの核心を見えなくします。
筆者がここで問いたいのは、三つです。
第一に、神が悪を創ってはいけないという前提は、本当に自明なのか。
第二に、もし神が創ってもよい悪があるとすれば、それはどのような意味での悪なのか。
第三に、その可能性を認めるなら、これまで積み重ねられてきた膨大な議論は、どこから見直されるべきなのか。
本稿の題名は、あえて古語めいた形にしました。「創りしか」は、現代語で言えば「創ったのか」という意味合いです。「作るべからざるか」は、「そもそも作ってはならないのか」という問いを、少し硬く言い換えたものです。言い換えれば、本稿は最初から、神が悪を創ったか否かという一点だけでなく、そもそも創ってはならないという前提そのものを、疑いの俎上に載せています。
この問いは、信仰と不信仰のどちらかを勝たせるためだけのものではありません。むしろ、善と悪、神と世界、愛と欠如、秩序と崩壊を、どの階層で、どの語で、どのように捉えるのかを問うものです。そこで必要になるのは、勢いのある断言ではなく、現実の重さから目をそらさない思考の持続だと筆者は考えます。
2. 定型化された弁証
よく知られた弁証の一つに、寒さは熱の不在であり、闇は光の不在であり、したがって悪もまた神の不在にすぎない、という説明があります。悪を独立した実体ではなく、善の欠如として捉える整理自体には、神学史上の系譜があります。そのため、この議論を最初から無意味と切り捨てるつもりはありません。
ただし、問題はここからです。この説明が与えるのは、しばしば悪の問題を解いた感触であって、悪の問題そのものではありません。定義のうえで整ったからといって、現実の苦痛まで片づいたわけではない。そこに、筆者は大きな違和感を覚えます。
悪は独立実体ではない。そう言うことはできるかもしれません。しかし、では善の欠如が起こりうる世界を誰が創ったのか。欠如が欠如として済まず、苦痛、破壊、恐怖、死として立ち上がる条件を誰が用意したのか。この問いは、その弁証のあとにも残ります。むしろ、問いの重さはそこから始まります。
よくできた弁証ほど、この問題を覆い隠します。美しく整理された言葉は、現実をしばしば薄くします。だが、世界の側は薄くない。痛みは痛みとしてある。死は死としてある。神学的説明が整ったからといって、現実そのものの重みが消えるわけではありません。
3. 熱と寒さ
まず、比喩としてもっとも身体感覚に近い熱と寒さから見ておきたいと思います。熱が低い状態を寒いと呼ぶ。この説明自体は間違っていません。しかし、人が寒さに震え、体力を奪われ、行動を制限され、ついには死に至るという事実は、単なる数値の低下ではありません。そこには、身体経験としての厳しい現実があります。
ここで起きている混同は、温度の低下という記述と、寒さという現象の混同です。数値と経験、構成因子と現実作用、物理学的記述と生の手触りが、一続きのものとして扱われてしまう。その結果、「寒さは存在しない」という言い方が、あたかも現実のつらさまで消したかのような印象を与えてしまうのです。
けれども実際には、寒さは存在しないのではありません。独立した物質として存在しないだけであって、現象としては厳然として存在する。人は寒さで死にます。そこにあるのは、言葉の遊戯では済まない現実です。
悪についても同じです。悪が独立実体でないとしても、悪が現実の中でどれほど深く人を傷つけるかは、別途引き受けなければなりません。筆者が批判したいのは、まさにその切実さが、説明のうまさによって見えにくくなることです。
4. 光と闇
熱と寒さの比喩で見た区別は、そのまま光と闇の比喩にも当てはまります。光が届かない状態を闇と呼ぶのであって、闇という独立した粒子が飛び回っているわけではない。物理的な比喩としては、その整理は十分理解できます。
しかし、物理的構成因子の話と、人間が経験する現象の話は別です。光子が不在であることと、闇の中で人が不安に駆られ、方向を失い、恐怖を覚えることとは、同じではありません。前者は説明であり、後者は経験です。説明がついたからといって、経験の重みが軽くなるわけではありません。
もし神が世界の創造主であるなら、神が創ったのは光だけではなく、光が届く場所と届かない場所、遮蔽が成立する構造、有限な空間配置の全体です。つまり、闇を独立実体として創らなかったとしても、闇が現象として生じる世界の条件を創ったとは言えるはずです。
ここで筆者が言いたいのは単純です。闇を不在と呼ぶことはできる。しかし、不在だから軽いとは言えない。不在を説明したことと、不在が生み出す現実を引き受けたことは同じではありません。
しかも、この点は聖書本文とも緊張関係を持ちます。創世記は、天地創造の冒頭でこう記します。
「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」
創世記 1章3節から5節、新共同訳。
ここでは、神が光と闇を分け、闇を夜として秩序の中に置いています。闇は創造の外へ追われた異物ではなく、神の整えた世界の一部として記されているのです。
さらにイザヤ書は、より強い言葉を置きます。
「光を造り、闇を創造し 平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。」
イザヤ書 45章7節、新共同訳。
もちろん、ここでいう「災い」を、そのまま道徳的悪そのものと同一視しているわけではありません。それでもなお、神の働きが及ぶ範囲から闇や災厄を外していない点は重いと言えます。
この一句は、「神は闇を作っていない」という言い方と、そのままでは噛み合いません。創世記の闇と、道徳的・象徴的な闇とを単純に重ねてよいわけではありませんが、それでも聖書そのものが、神の働きの外へ闇をきれいに追い出してはいないのです。神を守るために「神は光だけを担当し、闇は神の責任ではない」と整理してしまうと、かえって聖書本文の厳しさと遠ざかってしまいます。
なお、新約に入ると「闇」は象徴としての意味をさらに強めます。宇宙秩序の一部としての闇だけではなく、無知、拒絶、罪、死の象徴としての闇が、より表に出てきます。その複数性を認めたうえでも、神の働きの外へ闇を追放しきれないという事実は残ります。
5. 悪の条件
ここで論点をはっきりさせておきます。筆者が問いたいのは、神は悪なのか、ではありません。神は悪ではない。しかし、悪が生じうる世界の創造主ではあるのではないか。ここをどう考えるのか、ということです。
悪という言葉には、いくつもの層があります。独立した存在原理としての悪。倫理的評価としての悪。苦痛として経験される悪。構造上の欠如や減少としての悪。人格化された敵対者としての悪。これらは同じではありません。ところが、多くの議論では、それらがひとまとめにされてしまいます。
筆者が重視しているのは、階層です。最上位の層では善意による創造であっても、その末端の展開において、善の減少や欠如が悪として現れることはありうる。ここを見ないまま、善が悪を創ったら善ではない、という一刀両断に進めば、世界の複雑さは見えなくなります。
言い換えるなら、神は悪そのものを独立実体として創らなかったかもしれない。しかし、善の欠如が痛みや破壊として現れる領域を、世界のあり方のうちに含めた。その意味では、悪が生じる条件は神の創造の外に置かれてはいません。
ここで重要なのは、神が悪を創造してはいけないという前提自体が、まだ十分に吟味されていないということです。もし創造の上位にある善意が、下位では欠如、抵抗、死、崩れというかたちで現れるなら、単純な二元論は崩れます。そして、その崩れの中でこそ、議論はようやく深さを持ち始めます。
6. サタンと散逸
この問題をさらに考えるために、サタンという語をどう読むかも重要になります。筆者は、サタンを単なる外部の悪魔としてだけではなく、崩壊、減衰、散逸、死へ向かう傾向の総体としても見ています。乱暴に言えば、現世におけるエントロピーをサタン的なものとして読む感覚です。
もちろん、これは教科書的な整理ではありません。しかし、世界の内部に働く死と散逸を、ただの事故として切り捨てるよりは、よほど現実に近いと感じます。崩れること、ほどけること、失われること、死ぬこと。これらは世界の外から飛来する異物ではなく、世界そのものの条件の中に組み込まれています。
そのときサタンは、神に敵対する完全な外部原理というより、神の創った世界の内部で働く、厳しい執行のようにも見えてきます。死すべき運命を執り行い、秩序を揺さぶり、時間を前へ進めるものとしてです。ここには不快感が伴うでしょう。しかし、その不快感を避けて通ると、悪はいつまでも浅いままです。
また、人格についても、簡単に退けることはできません。人間は古来、崩壊や災厄を人格的に経験してきました。人格化とは、単なる迷信ではなく、世界に働く力を、人が関われるかたちに翻訳する営みでもあります。したがって、サタンを人格として語ることと、散逸の原理として語ることは、必ずしも相容れないものではありません。層が違うだけです。
ここで、最高善と欠如の関係を考えるために、一つの比喩を挙げておきたいと思います。最高善の象徴を太陽になぞらえるなら、その表面にさえ黒点が宿るという事実は示唆的です。黒点は、単なる無ではありません。欠如や暗さのように見えながら、現実に作用する現象です。もし最高善の象徴にさえ影が宿るなら、欠如や暗さは、単なる無の残りかすではなく、世界の動きを支える一要素として見えてきます。もちろん、これは自然科学的説明を神学へそのまま持ち込むためではなく、欠如が単なる無ではなく、現実に力を及ぼしうるという感覚を示すための比喩です。
7. 必要
では、なぜそのような世界が創られたのか。筆者は、必要だったからだと考えています。ここでいう必要とは、冷たい設計図としての必要ではなく、物語と生成の条件としての必要です。
もし世界が、欠如も減衰も死も別離も一切持たない、完全に均質な善だけの状態であったなら、そこに今わたしたちが知っている意味での人生はあったでしょうか。選択はあったでしょうか。成長はあったでしょうか。救済はあったでしょうか。愛は、危険も喪失も有限性も持たない世界で、同じ密度を保てたでしょうか。
筆者はそうは思いません。人生の彩り、物語の切実さ、祈りの深さ、回復の歓びは、有限性と死の影があるからこそ立ち上がる。これは悲劇礼賛ではなく、現実の手触りに関する判断です。光だけでは、世界は平板になる。影があるからこそ、濃淡が生まれ、時間が生まれ、意味が生まれる。
しかも、この「より大きな物語」は、単なる情緒ではありません。生成、変化、緊張、緩和、悲劇、回復、犠牲、救済。そうしたものを含んだ世界でなければ、今わたしたちが知っている意味での人生の切実さは生まれない。ここを削ってしまうと、悪はただの付随的な欠陥に見えてしまいます。しかし筆者には、そうは見えません。
だからといって、悪そのものを神と同一視したいわけではありません。神は最高善である。それでも、神が有限で欠如を含む世界を、より大きな物語のために必要としたという見方は、最初から排除されるべきではないと筆者は考えます。
ここで悪を「欠陥」とだけ呼ぶ見方からは、一歩離れる必要があります。むしろ、欠如や抵抗や死さえも、世界の推移を可能にする仕様として見ること。そのほうが、現実に即しているように思えます。
8. 映画「神は死んだのか」
ここで、映画「神は死んだのか」を取り上げます。原題は God’s Not Dead、2014年のアメリカ映画で、監督は Harold Cronk、脚本は Cary Solomon と Chuck Konzelman です。物語の中心には、大学に入学したクリスチャン学生 Josh Wheaton と、無神論者の Professor Radisson との対立が据えられています。教授は授業初日に、学生全員に “God is dead” と書かせようとし、Josh だけがそれを拒み、教室全体を前に神の存在を弁証することになります。
ただし、この作品は単なる教室討論劇ではありません。イスラム教徒の家庭にいる少女の改宗、認知症の母をめぐる家族関係、病を宣告された女性、牧師たちの移動、そして終盤のコンサート場面など、多数の挿話が並行して走ります。終幕近くで Professor Radisson は交通事故に遭い、路上で牧師に介抱される中、死の直前に信仰を言い表す流れへ進みます。
この映画の強みは、まず主題の明快さにあります。信仰と懐疑、大学教育と個人信念、公共空間で神について語ることの困難を、非常にわかりやすい対立として示している。議論の入口としてはよくできています。また、Josh が学業上の不利益を引き受けてまで署名を拒む構図には、ドラマとしての推進力があります。
さらに、終盤を支える音楽の使い方も巧みです。映画のラストではクリスチャン・ロック・バンド Newsboys が本人たちとして登場し、「God’s Not Dead (Like a Lion)」を演奏します。この曲は、Daniel Bashta 作の “Like a Lion” をもとに、Newsboys が2011年に “God’s Not Dead (Like a Lion)” として発表したものです。映画の終幕では、この曲が作品全体の高揚感と勝利感を決定づけています。この高揚感は、作品全体の勝利調をさらに強く補強しています。
しかし、この作品には弱みもあります。第一に、この映画は大学討論劇の姿を取りながら、全体として非常に強い福音派動員の映画でもあります。牧師、改宗、福音派著名人、Newsboys の大規模コンサートという流れは、教室の議論をしだいに、アメリカ福音派のメガチャーチ的な祝祭空間へ吸収していきます。作品世界は中立的な討論の場というより、最初から信仰の勝利を祝う舞台装置を豊かに持っているのです。これは長所でもありますが、思想劇として見ると偏りにもなります。
第二に、Professor Radisson が死の直前に信仰告白へ至る展開は、あまりに強引です。物語としては劇的ですが、思想劇として見ると、せっかく途中まで積み上げられていた対話の重みを急激に感傷へ傾けてしまう。教授の知的立場、喪失、怒り、学生との論争という複雑な流れが、最後は「死の間際の回心」という一撃で処理されてしまうため、人物の厚みより説得の意図が前に出てしまいます。
第三に、ここがいちばん惜しいのですが、この映画は掘り下げれば豊かな論点をいくつも含みながら、それを十分に生かし切れていません。神の存在証明をどう扱うかという問い、理性と信仰の関係、喪失体験が無神論へ変わる心理、公共空間で宗教を語ることの難しさ。これらはいずれも掘り下げれば豊かな主題です。にもかかわらず、作品はしばしば、その豊かな論点を、終幕の強い勝利演出と陣営化された人物配置によって自ら損ねてしまう。せっかく含まれている豊かな問いを、弱い部分がかなり損ねている。筆者がこの作品に抱く最大の惜しさは、まさにそこにあります。
その豊かな論点の一つとして、見逃しがたい場面があります。特に重要なのは、議論の終盤で主人公 Josh Wheaton が、無神論の立場を単なる知的主張としてではなく、その背後にある感情の傷や怒りとして見抜こうとする場面です。彼は Professor Radisson に対して、理屈の応酬を重ねるのではなく、「あなたはなぜ神を憎むのですか」と問います。この問いは、神の有無をめぐる抽象論から一歩進み、無神論者の根本的な動機へ触れようとするものです。つまり、信じないという判断の背後に、単なる理性の問題だけでなく、喪失や恨みや反抗が潜んでいるのではないか、という論点です。筆者はこの点を、この映画の優れた着眼として評価しています。なぜなら、恩恵を拒む人々の態度が、ときに何らかの深い恨みや反抗を含んでいるように見えるという筆者自身の印象とも、ここが強く重なるからです。映画全体としては強引な勝利演出に流れる弱点を抱えているにせよ、この問いそのものは、無神論をめぐる議論の核心にかなり近づいています。
しかも、この映画の問題は、個々の描写の粗さにとどまりません。善悪や信仰と無神論を鋭く対立させる枠組みに、作品が強く頼っているからです。鮮やかな論破、明快な勝利、回心の劇性。そうしたものは観客に強い満足を与えます。しかし同時に、それはそこで考えることを止めさせる仕掛けにもなりかねません。筆者が見たいのは、どちらが勝ったかだけではなく、なぜこのような対立の枠がこれほど反復され、人を熱狂させるのかという点です。
9. 大人の神認識
ここまでの話を踏まえるなら、大人の意見とは、単に整理の正否を争うことではなく、整理が届く範囲と届かない範囲を見分けることです。
寒さは熱の不在である。闇は光の不在である。悪は善の欠如である。その整理そのものには意味があります。しかし、それで議論を終えるなら足りない。構成因子の問題と、現象の問題と、創造条件の問題と、倫理評価の問題は同じではないからです。大人の思考とは、それぞれを切り分けながら、なお互いのつながりを見失わないことです。
また、善か悪か、神がいるかいないかという白黒を急ぐ見方の中だけでは、議論は深まりません。本当に必要なのは、その見方そのものを一段引いて見ることです。なぜこうした論争が繰り返されるのか。なぜ鮮やかな論破物語が好まれるのか。なぜ人は、複雑な現実より、すっきりした勝利を欲するのか。そこまで見て初めて、宗教論争はようやく思想の問いとして立ち上がります。
さらに言えば、大人の神認識とは、矛盾や痛みを孕んだままの世界を引き受けることです。神を擁護するために現実を薄めるのでもなく、現実の残酷さを理由に神を切り捨てるのでもない。両方の誘惑を越えて、世界の複雑な美しさと痛みを同時に見ること。その姿勢に、筆者はもっとも誠実なものを感じます。
その意味で、本稿の題「そも作るべからざるか」は、単に神が悪を創ったか否かを問うだけでなく、神には最初からそれを行う資格がないと断じてよいのかを問い返すための表現でもあります。
10. 締め括り
筆者はクリスチャンです。ただし自称秘教的クリスチャンであり、聖書の無謬性を信じつつ、他の教えや象徴体系とのあいだに複合的な共通点を見いだしうる立場にも立っています。
本稿では、「神は存在する」という立場から、「神は悪を創造していない」という見解に過度に固執するクリスチャンを批判してきました。理由は単純です。せっかく信仰を持っているにもかかわらず、苦しむ人の前で、定義の上で勝ったことに安住するなら、それは福音の心に反するのではないかと恐れるからです。
この点で、マタイによる福音書には忘れがたい一句があります。
「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
マタイによる福音書 10章42節、新共同訳。
この一句は、壮大な教理の勝敗よりも先に、目の前の小さな者への具体的な応答を置いています。だから筆者は、悪をめぐる議論においても、痛みの現実を薄めてしまう言い方を恐れます。相手を言い負かすことより、冷たい水一杯のほうが先に来る。少なくとも、福音書はそう読めます。
同時に筆者は、「神は悪を創造した。だから神はいない。あるいはそんな神は要らない」と断じる無神論者にも賛成しません。率直に言えば、身近な範囲で親交のある人々を見ているかぎり、その立場はあまり幸福そうには見えません。たとえるなら、大富豪の家に生まれながら、その家の中にある理不尽さや痛みに深く傷つき、ついには家そのものを拒んでしまう子どものように見えることがあるのです。もちろん、この比喩が人を傷つけうることは承知しています。それでもなお、存在の大きさを前にして、受け取るべきものまで拒んでしまう態度には、どこか痛ましさがあると筆者は感じます。
要するに、筆者が距離を取りたいのは両極です。神を守るために世界の痛みを薄く語ってしまう信仰者と、悪の存在を理由に神そのものを切り捨ててしまう懐疑者。そのどちらにも、世界の大きさに対して結論を急ぎすぎるところがあると筆者は感じます。
ただし筆者は、これまで積み重ねられてきた論争そのものを無意味だとは考えません。むしろ、神をめぐって人がこれほど執拗に問い続けてきたこと自体、そこにすでに神への関心があり、神への興味があり、その意味では福音へ触れる入口の一つでもあったと受け止めています。だからこそ筆者は、論争を捨てたいのではなく、その急ぎをいったん止め、問いをもう少し深いところへ連れて行きたいのです。
神は悪を創りしか。筆者の答えは、ここではっきり述べるべきでしょう。神は、「悪」と呼ばれうる構造を創った。これは否定できません。善の欠如が痛み、破壊、死、崩れとして現れうる世界そのものを創った以上、その意味で神は、悪が成立する条件を創ったのです。
しかし筆者は、それが従来しばしば論じられてきた意味での「悪」、すなわち神の存在そのものを否定しなければならない理由になるとは考えません。むしろ逆です。神が悪を創ってはいけないという前提そのものが、ここで問い直されなければならない。そういう意味では、神は「絶対善」であり、「絶対悪」は創造していないとは断言できます。神が創ったのは、あくまで被造世界のうちで悪と呼ばれうる条件や構造であって、神自身に対置される独立実体としての「絶対悪」ではありません。
筆者にとって重要なのは、そこで神を退けて終わることではなく、その逆説の大きさゆえに、いっそう神への関心が深まり、神への興味が強まり、そこからさらに福音へ近づいていくことです。
だから筆者は、神を信じるからこそ、この難しさから逃げません。神は悪を創りしか、そも作るべからざるか。この問いに正面からとどまり続けること自体が、神義論を深めるだけでなく、神への関心を新しくし、福音の入口をあらためて開く営みでもあると考えています。
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