ボルヘスの『伝奇集』型の読めなさ(1万文字)

ボルヘスの『伝奇集』型の読めなさ
v2.22
【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。また、本稿では、ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』『砂の本』、スタニスワフ・レム『完全な真空』『虚数』について、その核心的な内容に深く触れています。もし作品を未体験の方で、先入観なく享受されたい場合は、必ず先に作品そのものに触れてから、本稿をお読みください。
1. 制作会議化する読書
ボルヘスの『伝奇集』を読んだときの経験である。
本を読んでいるのに、本文そのものよりも、本文が開いてしまう別の構想へ意識が向かう。物語や論旨を受け取るというより、その背後にある作り方、仕掛け方、分類の仕方、読ませ方に注意を持っていかれる。筆者にとって、『伝奇集』にはそういう読書感覚があった。いま読んでいる文章の背後に、別の文献、別の注釈、別の体系、別の企画が控えているように感じる。
この感覚は、ある種の本を読んだときにも起きる。本文の内容を追っているはずなのに、作り手側のコンセプトが透けて見えてくる。題名はどこへ刺そうとしているのか。どの痛点を押さえているのか。どの時代感覚をつかんでいるのか。この企画なら、どんな章立てが可能なのか。筆者なら、どこから入るのか。そう考え始めると、読書は静かな受容でいられなくなる。
たとえば、学生時代に数学の先生から講談社ブルーバックスの寺阪英孝『非ユークリッド幾何の世界 幾何学の原点をさぐる』を貸してもらったときも、冒頭で止まってしまった。地平線上へまっすぐ伸びていく線路の絵があり、現実の平行線は交差しないのに、二次元上の絵では遠くへ行くほど近づき、やがて一点で交わるように見える。なぜだろう、という疑問が強すぎて、次の頁へ進めなかった。線路、遠近法、二次元、三次元、視覚、地平線、平行線、交点、現実と表象の違いが頭の中で動き出した。読書としては止まっているが、思考は止まっていない。一つの図と一つの問いから、勝手に発想が増殖していた。
その顛末は、別の物語に書いた。
結局、非ユークリッド幾何学の本を読んでいたのに、筆者は「無限遠点の正体は、無限小への縮退だった」という結論へたどり着いた。読書の対象は非ユークリッド幾何学だったが、思考の進路は遠近法、視覚、表象、無限遠点、無限小へ逸れていった。本来の主題を読み進める前に、入口の図と問いが、筆者自身の別の問いへ変換されたのである。『伝奇集』を読む経験にも、これと同じ種類の横滑りがある。本文の前に立った瞬間、本文の外へ通じる通路が開いてしまう。
議論したいという感覚とも少し違う。反論したいのでも、著者と対決したいのでもなく、一緒に制作会議がしたくなる。本文を読んでいるのに、頭の中では「この切り口は強い」「ここは紙の本とWeb活字を分けたほうがよい」「この論点は別の記事にできる」「これは読書不能そのものを演じている本として読める」といった声が動き出す。読書の時間が、企画を組み立てる時間へ変わっていく。
2. 『伝奇集』の手触り
『伝奇集』の手触りは、筆者の中では、物語を読むというより、書物や知識の装置を覗く感覚に近かった。作品の筋を追っているはずなのに、そこで扱われる書物、注釈、分類、架空の体系のほうへ意識が向かう。読んでいる文章の背後に、まだ読まれていない別の本があるように感じる。そこに、普通の読書とは別の落ち着かなさがある。
たとえば、図書館の描写がある。蔵書の規模が語られる。代表的な署名や記号めいたものが示される。そこで、筆者はボルヘスの意図を推察し始める。おそらくボルヘスは、その世界の全体像を構想として頭の中で完全にデザインしきっているわけではない。片りんを描写するだけで、見てきたようなウソをつく。しかも、その片りんに選ばれるキーワードがうまい。図書館、書物、署名、無限、分類、探索、信仰、狂気。そういう言葉を要所に置かれると、こちらの頭の中で勝手に世界が立ち上がる。
ボルヘスは、既存の文学作品と宗教的信条を組み合わせたような抽象的な描写を、いかにも重要な記載内容であるかのように置いてくる。全部を説明しない。世界の設計図を丸ごと提示しない。だが、読む側の想像力が勝手に補うポイントを押さえている。筆者には、ボルヘスが読む側の補完してしまう急所だけを選んで置いているように見える。世界の全体像を作り込んでから細部を描写しているというより、世界があるように感じさせる記号を的確に配置している。そのため、読んでいるこちらの想像力が勝手に働き、見せられていない部分まで補ってしまう。
このあたりに、筆者はボルヘスの悪だくみを見る。これはいい意味での表現である。読む側の想像力、知的虚栄、宗教的連想、分類したがる欲望を見抜き、それを作品の駆動力として使う勘のよさの話である。非ユークリッド幾何学の本で起きた横滑りは、筆者の側の連想にすぎない。だが、ボルヘスの場合は、横滑りを誘発する仕掛けそのものが文章の中に置かれているように見える。作り手の狙いが見えた瞬間、読書は鑑賞から分析へ、分析から構成へ移っていく。客席に座っていたはずなのに、気がつけば会議室の椅子に座っている。
その策士ぶりが見え隠れするところで、筆者の読書はしばしば脱線する。なかなかうまいことを考えるな、と思う。そうすると、たとえばこんなパターンで創作できるのではないか、という方向へ意識が動く。次の場面の新しいアイデアに触発され、なるほど、そう来たか、それなら自分の構想もこう膨らませることができるな、と考え始める。読書と構想が交互に行き来して、気が散って仕方がない。
その感覚は、推理小説めいた構造にも通じる。延々と意味の分からない描写が続き、なんとなく事件の構造が見えてくる。意外な反転があるのだろう、と推測する。案の定、最後の一文でそれまでの解決がずれ、読者の側が別の真相に気づく、といった具合である。すべての道筋を懇切丁寧に説明されるのではなく、断片と雰囲気と形式の圧力だけで、「これはそういう種類の仕掛けだ」と察してしまう。その察しが当たったとき、読書は筋の理解よりも、作り手の手口を見抜く体験に変わる。
なるほどな、と感心する反面、これだと一発芸で終わるじゃないか、という感慨も抱く。仕掛けの鮮やかさは強い。だが、仕掛けの型が見えた瞬間、その系列は同じ手つきで何度も増殖しにくい。案の定、その系列はその話で終わっている。だからこそ、筆者の関心は、作品の結末そのものよりも、その一回限りの仕掛けをどのように成立させているのかへ向かう。これは物語を読む快楽であると同時に、手品の種を見てしまう快楽でもある。
一発芸といえば、日本でショートショートを定着させた第一人者である星新一も乙女座である。星は1926年9月6日生まれで、短編よりさらに短いショートショートを得意とした作家として知られている。星新一において驚くべきなのは、一発芸を一発で終わらせなかったことである。アイデアの切れ味、落語にも似た反転、寓話としての簡潔さ、欲望と文明への皮肉。そうした短い仕掛けを、どこまで続けられるかという根競べの領域まで押し広げた。筆者はそこに、ボルヘスやレムとは別種のからくりの持久力を見る。ひとつひとつは小さな仕掛けでありながら、その数と均質さによって、星新一は一発芸を形式へ変えた作家だったのだと思う。
ただ、その気の散り方そのものが、白日夢のような読書経験として上書きされていく。本文を読み、そこから見えた策を読み、自分の構想へ移り、また本文へ戻る。『伝奇集』の読書は、筆者にとって、そういう往復運動だった。物語を追う時間でありながら、同時に、創作のからくりを盗み見ている時間でもあった。
3. 架空の書物
『伝奇集』の中で、筆者の関心に強く触れるのは、存在しない書物や作家を、まるで実在する資料のように扱う手つきである。架空のものを、批評、書評、注釈、百科事典、著作目録のような形式に載せることで、現実の書物に近い手触りを与える。そのため、物語を読んでいるはずなのに、どこかで本当にその本があるような気配を感じる。
「ハーバート・クエインの作品の検討」は、実在しない作家ハーバート・クエインの四つの著作について批評する体裁を取る。推理小説、逆行分岐する小説、二部構成の演劇、故意に未完で終わる作品群が、作品そのものではなく「その作品についての分析」として示される。筆者にとってこの形式は、物語を作ることと、物語について語ることが一つに溶ける面白さを持っている。
「アル・ムターシムを求めて」は、インド人弁護士ミール・バハドゥール・アリが書いた架空の小説に対する書評という形式を取る。探偵小説、神秘思想、書評の文体が重なり、究極の存在であるアル・ムターシムを求めて、人から人へと気配をたどる物語が、直接の物語ではなく、その本を論じる文章として立ち上がる。
「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」では、セルバンテスの『ドン・キホーテ』と一語一句同じテクストを書こうとする架空のフランス人作家が論じられる。同じ文字列であっても、書いた人間、時代、読まれ方が変われば、文章の意味は変わる。筆者にとってこの作品は、書物というものが文字列だけで成立しているわけではないことを強烈に示していた。
「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」は、架空の国家ウクバールについて記された百科事典の謎から始まり、やがて世界規模の架空体系であるトレーンが現実を侵食していくメタフィクションである。ここでは、架空の分類や哲学や言語が、現実の感触そのものを変えていく。分類が世界を作る。言葉が現実に先回りする。そこに筆者は、書物の恐ろしさと楽しさを同時に感じる。
ボルヘスには、評論集『審問』『続審問』もある。筆者がここで中心に置くのは『伝奇集』だが、実在の書物や作家を論じながら、架空の文献や思想を自然に織り交ぜていく書評集的なスリルは、ボルヘスという作家を考えるうえで避けがたいものだと思う。現実と虚構の境界が、書評、注釈、目録、批評という形式の中で曖昧になる。その感覚が、筆者の読書を落ち着かなくさせる。
4. 乙女座的なからくり
これは筆者の思い込みだと思うが、ボルヘスは乙女座であり、筆者も同じ星座である。どちらかというと、体力や運動神経よりは、戦略やからくりが好きなタイプである。物語を力技で押し切るより、仕掛け、構造、分類、形式、手順、目録、注釈のようなものへ快感を覚える気質である。
筆者が『伝奇集』に引っかかるのは、物語のスケールや登場人物の感情よりも、そこに仕込まれたからくりの精密さである。読ませ方が、ただ筋を進める方向へ向かわない。架空の書物を置く。書評の形を取る。百科事典の項目から世界を始める。著作目録や注釈の体裁で、存在しないものに重さを与える。こうした仕掛けに、筆者の注意は強く引っ張られる。
ボルヘスの乙女座的な面白さは、荒々しい破壊よりも、整った形式を通じて読者を迷わせるところにある。書誌、注釈、目録、百科事典、分類、引用という、ふつうは知識を整理するための道具が、ボルヘスの手にかかると迷宮の入口になる。筆者が「からくり」と呼びたくなるのは、この整い方そのものに仕掛けがあるからである。世界は乱暴に壊されるのではなく、あまりにも整った棚に収められることで、かえって人間の手に余り始める。
この意味では、『記憶の人、フネス』『バベルの図書館』『砂の本』も、ボルヘス的な秩序の限界を示している。『記憶の人、フネス』では、すべてを記憶してしまう人物が、細部を忘却して抽象化するという人間の思考の条件を逆照射する。『バベルの図書館』では、すべての可能な本を含む図書館が、完全な知識の夢であると同時に、必要な一冊へ到達できない迷宮として現れる。『砂の本』では、始まりも終わりも確定できない一冊の本が、無限を生活の手元へ持ち込んでしまう。記憶、蔵書、ページという、本来は世界を扱いやすくするための道具が、人間の理解を超える圧力へ変わっていくのである。
おまけに言うと、スタニスワフ・レムも乙女座であり、猛烈なボルヘス・フォロワーとして語りたくなる作家である。筆者にとって、ボルヘスとレムに共通しているのは、実験的小説への嗜好である。ストーリーとテーマで勝負するというより、趣向を凝らした変わり種としての小説である。存在しない書籍の書評、存在しない書籍の序文、架空の講義録、架空の知性体による人間論。そういう形式そのものに、知的な遊びと批評が宿る。
ここにも、筆者はレムの悪だくみを見る。これもいい意味での表現である。レムは、存在しない本を論じることで、存在しない本の内容を読ませる。書評や序文という周辺形式を使いながら、中心にあるはずの作品本体を空洞にし、その空洞を読者の想像力で満たさせる。ボルヘスが架空文献と注釈の迷宮を作ったように、レムは架空書評と架空序文の棚を作る。二人の悪だくみは、物語を直接語るよりも、物語を取り巻く形式を操作するところにある。
レムの『完全な真空』は、存在しない本に対する架空の書評集である。SF小説、哲学書、実験文学のような架空の書物が、書評という形式で語られる。ひとつの書評の中で別の架空の書物が引用されることもあり、メタ構造はかなり手が込んでいる。未来の技術、人間の存在意義、知性の限界、文明への皮肉が、直接の物語ではなく、書評という迂回路を通って現れる。
『虚数』は、架空の書物の前書きや序文を集めた作品として読める。エロティシズム、知性の進化、ゲーム理論などを主題にした序文が並び、後半には超高性能コンピュータGOLEM XIVによる、知性、進化、人類の位置についての講義録も収められている。これもまた、作品本体を読ませるというより、作品の入口、前置き、序文、講義という形式を通じて、存在しない本の重みを作る。
ボルヘスとレムを並べると、筆者には、実験的小説という言葉が浮かぶ。物語をまっすぐ語るより、物語を支える形式をずらす。書評、序文、百科事典、注釈、講義録、著作目録。そうした周辺形式を中心に置くことで、小説の形そのものを変える。筆者は、その変わり種の塩梅に惹かれる。
5. 筆者の作品
筆者自身も、そのような形式に影響を受けて、次のような作品を書いている。
共産論
無神論
これらは筆者にとって、完成品として対価を請求するための作品というより、宗教・思想的な思考実験を実装した作品である。いわば、素人の学習ノートである。存在しない書物を実在するもののように扱う発想、架空の思想書や論考を立ち上げる感覚、書物そのものを一つの装置として作る感覚が、筆者の中では確かに刺激されている。物語の筋を追うより、書物の形式を作ることへ意識が向かう。その意味で、『伝奇集』を読む経験は、筆者の中の作り手を強く起こす。
そこには、時代的な背景もある。WEB以前の時代であれば、素人の学習ノートは机の引き出しや個人のノートの中に閉じていた。遠方にいる、似た関心を持つ人とつながる道も限られていた。現在は、そうした学習ノートを公開できる。宗教、思想、文学、架空文献、批評の形式を使った思考実験を、遠方の誰かが読み、反応し、場合によっては共同作業に近いものへ発展させる可能性がある。場合によっては、スタジオ・ジブリやピクサーのような共同作業が、縁もゆかりもないWEBコミュニティの上で実現するかもしれない。というのが、筆者の密かな期待である。筆者にとって、この環境そのものが一つの思考実験であり、試行錯誤の場である。とても面白い時代になったものである。
ボルヘスを読んでいる間に、このような発想やアイデアがどんどん浮かんできてしまう。架空の書物の題名、存在しない著者、著作目録、書評の文体、思想書めいた章立て、注釈の入り方。次々に車窓の風景のように流れていく。読書どころではないとも言えるし、これこそが読書の醍醐味だとも言える。
筆者はそれを、車窓の風景のように眺めている。流れる発想を無理につかまえようとしすぎず、かといって見送るだけにもせず、さながらMindfulnessの如く、ボルヘスを読む。本文を読みながら、その周囲に立ち上がる仮想の図書館を眺める。これは、かなり奇妙な読書体験である。
6. 分類が企画になる
『伝奇集』を読んでいると、分類というものの不穏さを強く感じる。分類は、知識を整理する道具である。だが、同時に世界の見え方を変える装置でもある。何を同じ棚に置くか。何を別の概念として分けるか。どの順序で並べるか。どの名前を与えるか。その選択によって、対象の意味は変わる。
この感覚は、読書論やメディア論の本を読むときにも起きる。紙の本と画面上の文章を分けたい。長文読解と情報取得を分けたい。読めない状態の中でも、疲労、退屈、環境変化、制作欲の発火を分けたい。最初は本文を理解するための補助だった分類が、途中から独立した思考の主題になる。
このとき筆者の読書では、筋をなめらかに追うより、形式、分類、書誌、注釈、章立て、外部へ伸びる構想に注意が吸われていく。物語の本筋を読んでいるつもりでも、細部と構造が前景へ出てきて、そこから別の記事、別の本、別の企画が立ち上がってしまう。読書は、内容を理解する行為であると同時に、理解のための棚を増やしていく行為になる。
分類は、そのまま章立てになる。章立ては、主張の流れを作る。主張の流れが見えると、自分の文章を考え始める。本文を読む。分類する。分けたものに名前をつける。順番を考える。章を立てる。題名を考える。こうして、受け取る行為が、いつのまにか作る行為へ変わっていく。
7. 読書へ戻る
制作会議化する読書には、魅力と危うさがある。魅力は、読書が思考を発火させることにある。危うさは、著者の言葉を受け取る前に、自分の関心へ回収してしまうことにある。だから、このタイプの読書では、発想が走ったらいったんメモし、そのあと本文へ戻る必要がある。
本文へ戻ることは、作り手の自分を消すことではない。むしろ、作り手の自分を暴走させないための姿勢である。著者の本を読み、自分の発想をメモし、もう一度本文へ戻る。その往復によって、読書はただの理解から、批評と制作の入口へ変わる。
ある本が、別の本を呼び、別の分類を呼び、別の記事を呼ぶことがある。『伝奇集』を読んだとき、筆者はその連鎖の速さを強く感じた。本文を読みながら、その周囲に仮想の図書館が見えてしまう。そこに足を踏み入れた瞬間、筆者はもう、ただの読者ではいられない。
筆者は別稿で、本を読めなくなった人々について考えたことがある。そこでは、これから大量生産、大量消費されるコモディティ化した文学の多くは、作品として歴史に名を残すより、学習ノート化し、コミュニケーションの一部として消費されていくのではないかと考えた。かわりに、古典的な名作の再演、リメーク、オマージュが文化の中心へ寄っていく。音楽でいえば、クラシックやジャズのように、すでに存在するスタンダード・ナンバーを、時代ごとの演奏者が解釈し直す形に近づいていくという見立てである。
その意味で、本稿が扱ってきた「制作会議としてのボルヘス」は、一つのジャンルとして再演、リメーク、オマージュされ続ける可能性を持っている。そして、筆者はクリスチャンである。筆者にとって、この路線におけるスタンダード・ナンバーであり、マグナム・オパスであり、最高傑作に当たるものは聖書である。聖書は、単に古典の一つとして並ぶ本ではない。創造、堕落、契約、律法、王権、預言、受肉、十字架、復活、終末、新天新地までを貫き、人間、歴史、罪、救済、言葉、共同体、神の臨在を束ねている。物語であり、律法であり、詩であり、預言であり、手紙であり、黙示であり、同時に世界そのものを読むための巨大な参照体系でもある。文学、神話、歴史、倫理、象徴、祈り、終末論が一つの書物群の中で響き合っているという意味で、筆者にとって聖書は、再演とリメークとオマージュの源泉として、比類のないマグナム・オーパスである。
聖書には、ボルヘスのような制作会議としての露骨な行間や余白は多くない。だが、人間が本来備えている想像力、イメージ力、創造力を進化させうる行間や隙間は、圧倒的な密度で残されている。しかも、その余白は、単なる空白ではない。アダムとエバ、カインとアベル、ノア、アブラハム、ヨセフ、モーセ、ダビデ、ソロモン、ヨブ、預言者たち、福音書のイエス、使徒たち、黙示録の幻といった一つひとつの場面が、互いに反響しながら、後代の解釈、説教、絵画、音楽、文学、映画、思想を生み続けてきた。聖書は、読むたびに別の棚を増やすどころか、文明そのものの棚割りを変えてきた書物である。だから筆者にとって、いい意味での悪だくみの素材として、聖書をスタンダードに置き、その再演、リメーク、オマージュを試作し、発案することは、ある種の夢である。
ボルヘスを読むと、本文の周囲に仮想の図書館が立ち上がる。そこには、読んだ本だけでなく、まだ存在しない本、書かれるかもしれない記事、架空の著者、未来の注釈、聖書の再演として試作される構想まで並び始める。筆者にとって『伝奇集』の読みにくさは、読めないから止まる読みにくさではなく、読みながら別の棚が増え続ける読みにくさである。
8. 論旨整理
・本稿の中心は、ボルヘスの『伝奇集』を読んだときに起きる、読書が制作会議化する感覚である。
・非ユークリッド幾何学の本では、筆者の連想が本文から横滑りし、無限遠点と無限小の問題へ向かった。
・ボルヘスとレムの場合、横滑りを誘発する仕掛けそのものが作品の形式に組み込まれているように見える。
・筆者が「悪だくみ」と呼ぶのは、ボルヘスとレムの形式操作に対する、いい意味での比喩である。
・ボルヘスは、図書館、書物、署名、無限、分類、探索、信仰、狂気といった片りんだけで、巨大な世界があるように感じさせる。
・『記憶の人、フネス』『バベルの図書館』『砂の本』は、記憶、蔵書、ページという、人間が世界を扱うための道具が、人間の理解を超える圧力へ変わる作品である。
・星新一は、ショートショートという一発芸的な仕掛けを、一発で終わらせず、形式として持続させた作家として見ることができる。
・レムは、架空書評、架空序文、架空講義録によって、存在しない本の重みを作る。
・筆者が惹かれるのは、物語の筋だけでなく、書評、注釈、百科事典、著作目録、序文、講義録といった周辺形式が中心になる実験的小説の面白さである。
・『伝奇集』を読むと、本文を読む時間が、架空文献、分類、章立て、別の記事、別の作品の構想へ変わっていく。
・筆者自身の『共産論』『無神論』も、そうした形式に影響された、宗教・思想的な思考実験としての素人の学習ノートである。
・WEB上で素人の学習ノートを公開できる現在、遠方の誰かとの交流や、思いがけない共同作業が生まれる可能性がある。
・制作会議化する読書には、著者の言葉を受け取る前に自分の関心へ回収してしまう危うさがある。
・そのため、発想が走ったらメモし、本文へ戻る往復が必要になる。
・古典的な名作は、今後さらに再演、リメーク、オマージュの素材として機能していく可能性がある。
・筆者にとって、そのスタンダード・ナンバーであり、マグナム・オーパスに当たるものは聖書である。
・聖書は、創造、堕落、契約、律法、王権、預言、受肉、十字架、復活、終末、新天新地までを貫く、比類のない参照体系である。
・聖書の再演、リメーク、オマージュを、いい意味での悪だくみとして試作し、発案することは、筆者にとって一つの夢である。
・その往復の中で、読書はただの理解から、批評と制作の入口へ変わる。
・筆者にとってボルヘスを読むとは、本文の周囲に立ち上がる仮想の図書館を眺めることでもある。
・その図書館へ足を踏み入れた瞬間、筆者はただの読者でいられなくなる。
・『伝奇集』の読みにくさは、読めないから止まる読みにくさではなく、読みながら別の棚が増え続ける読みにくさである。
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