無神論:かたい城の男(The Man in Hard Castle)(2.2万文字)
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v19.2
【注釈】本稿は、筆者個人による調査、読解、考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集、整理、ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性、完全性、最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。
序章 依頼
殺神事件の報告書を引き出しの奥にしまい込んでから、どれほどの時間が経っただろうか。ユリー・アーノルド・ソーンは、時の流れにほとんど意味を見出さない生活を送っていた。新たな依頼が来るまで、秘密結社「劇場」の仕事はそういう性質のものだ。
通信が入ったのは、午後の遅い時間だった。画面に映ったのは、ジョーン・ユーニス・スミスの計算機のように冷静な顔だった。ジョーン・ユーニス・スミス。劇場の中枢に座る重鎮であり、その経歴だけで1篇の悪趣味な伝記が書ける人物だった。いま画面に映っているのは、30代前半ほどに見える女の顔である。だが、その顔の奥にある意識は、若さとは無縁だった。彼女はかつてヨハン・セバスチャン・バック・スミスという名で知られた老富豪であり、劇場の資金源の1つでもあった。死期が迫ったとき、彼は自らの脳を秘書の身体へ移し替えるという、倫理も趣味も最悪な方法で生を継ぎ足した。以後、若い女性の外見と、強欲で老獪な老人の精神が1つの身体に同居することになった。外見だけが変わり、性格はほとんど変わらなかった。命令口調、他人の非番を勝手に終わらせる癖、相手の反論を先回りして切り捨てる手際、そのどれもが健在だった。
ソーンは毎回、画面越しに一瞬だけ奇妙な違和感を覚える。若い女性の喉から、長い年月と膨大な損得勘定をくぐり抜けた老人の確信が出てくる。その混線が、ジョーンという人物の不気味さだった。劇場には、普通の意味で人格の一貫した者の方が少ない。だが、その中でもジョーンは格別に出来が悪い。切れ味が良すぎるのだ。人を道具として扱うことに一切のためらいがなく、そのくせ道具の性能には人並み以上の敬意を払う。だからこそソーンは使われ続けているし、だからこそジョーンは彼を昇格させる。
「ソーン。次の仕事だ。」
「非番は終わりましたか。」
「君の非番は私が決めると言ったはずだ。」ジョーンは言った。「殺神事件の調査は見事だった。君の昇格も決まった。だから、次の舞台を用意した。」
ソーンは黙って画面を見つめた。ジョーンの背後の壁には、複雑な樹形図が映し出されていた。無数の枝分かれする線が、マルチバースの構造を示している。劇場。表の歴史に名を残すことのない組織でありながら、歴史そのものの縁に爪をかけて生き延びてきた連中の集まりだった。王朝も共和国も帝国も、革命も産業も戦争も、すべてが人類史という巨大な舞台の上で演じられる表向きの演目にすぎないと、彼らは本気で信じている。英雄は台詞を与えられた役者であり、宗教改革も啓蒙思想も世界大戦も、観客席から見える範囲で整えられた大道具にすぎない。その奈落のさらに下、照明の当たらない場所で、劇場の者たちは別の台本を回している。表の歴史記述に現れない異常事象、文明の流れの中に突如あらわれる過剰な飛躍、誰か1人の頭脳や1冊の書物では説明しきれないほどの因果の歪み。そういうものだけを扱うための、性格の悪い検死組織。それが劇場だった。
劇場の構成員たちは、学者でも官僚でも司祭でも軍人でもなかった。あるいは、そのどれでもありえた。共通しているのは、歴史を信じていないことだ。少なくとも、教科書の順序で並べられた因果の整然とした列を、そのまま受け取るような趣味は持っていない。劇場にとって重要なのは、何が起きたかではなく、なぜそんな起き方をしたのか、である。文明史の折れ曲がる地点、思想が突然に過剰な洗練を見せる瞬間、宗教や科学が本来の速度を無視して跳躍する場合、その背後にはしばしば舞台装置の故障か脚本の改稿がある。ジョーンはそれをそう呼んだ。
「未来へ跳んでもらう。」とジョーンは続けた。「ただし、我々のいる蓋然世界Aではない。分岐の基幹となるもう1つの世界、蓋然世界Bだ。」
蓋然世界。劇場の用語で、他の無数のマルチバースが派生する、歴史の基本的な幹となる世界のことだ。ソーンたちのいるA世界と、それとは別の進化を遂げたB世界。双子でありながら、全く異なる運命を辿った宇宙である。
「蓋然世界Bの西暦2242年、ニューヨーク。そこに跳び、都市の構造と住民の精神性を調査して報告せよ。以上だ。」
「目的は。」
「ない。目的は君が見つける。それが今回の試験だ。」ジョーンは即答した。そして、わずかに声のトーンを落として付け加えた。「今回は報告書の巧拙ではない。現場で何を介入すべき事象と見なすかを見る。」
通信が切れた。ソーンはため息をつき、転送装置へと向かいながら、その言葉の重みを反芻した。ソーンに与えられている役割は、あくまで観察者だった。彼はアストラルボディを具象化し、時間の壁を越えて他の時代へ赴くことができる。だが、その能力の大きさと、彼に許されている権限の小ささとはまるで釣り合っていなかった。劇場の規律は厳格である。過去に干渉してはならない。歴史を変えるような行動は禁止されている。接触は最小限、証言の採取は慎重に、装置や文書への介入は痕跡を残さぬ範囲に限る。未来調査についても事情は同じで、観察と報告が基本であることに変わりはない。ソーンはこれまで、その窮屈な規則の中で成果を出してきた。ジョーンが彼を気に入っている理由の半分は、能力の高さであり、もう半分は命令違反ぎりぎりまで自制できる点にあった。
だからこそ、今回の目的は君が見つけるという命令は不穏だった。目的が与えられない調査は、しばしば最終的に干渉の誘惑へつながる。観察者のままでいられるかどうか、それ自体が試験になるからだ。ジョーンは最初からそこまで織り込んでいるのかもしれない。ソーンはそう考えたが、考えたところで命令は撤回されない。劇場では、疑念はしばしば理解より先に役に立つが、拒否権ほど役に立つことはない。そして劇場の人間には、たいてい拒否権がない。今回は観察者ではいられないのかもしれない。未来へのジャンプは、過去へのそれとは異なる神経を使う。過去は確定しているが、未来は無数の可能性が霧のように重なり合っているからだ。
1. 蓋然世界B
座標が固定され、ソーンの意識は時間の奔流を遡り、そして未来へと射出された。ソーンは、劇場の中では珍しく、理屈より先に現場へ降りるタイプの調査員だった。文献に強い者、儀礼痕跡に強い者、宗教史や金融史から因果の裂け目を探る者など、劇場には様々な専門がいる。ソーンの専門は、そのどれでもなく、そのすべての手前にあった。実際に見に行くこと。空気の湿り気、石材の摩耗、会話の間、制度が説明しきれずに残す沈黙。そうしたものを先に拾い、あとから報告書へ落とす。それが彼の仕事の癖だった。ジョーンが彼を便利に使う理由もそこにある。ソーンは、舞台上の台詞より先に、舞台袖の軋みを聞き取る。視界が晴れると、未来の蓋然世界Bの西暦2242年、ニューヨークの光景が広がっていた。
マンハッタンの摩天楼の頂上に降り立ったソーンは、眼下に広がる都市を見て息を呑んだ。空を飛ぶ乗り物が静かに行き交い、建物の壁面は巨大な情報パネルとして機能している。技術レベルは、ソーンの知るA世界と大差ないように見えた。しかし、何かが決定的に違っていた。
音だ。
鐘の音がどこからも聞こえない。祈りの声も、聖歌も、読経も響いてこない。ソーンはすぐさま視覚デバイスを起動し、都市の全景をスキャンした。十字架や三日月、ダビデの星といった宗教的シンボルが一切見当たらない。セントラルパークの広大な緑地にも、教会や寺院の尖塔は1つも存在しなかった。まるで、人類の歴史から宗教という概念が、根こそぎ削除されたかのようだった。
だが、ソーンは即断を避けた。探偵の直感が、文字情報だけで納得することをよしとしなかった。彼は地上へ降り、自分の足でこの都市の空白を確かめることにした。
彼はまず、A世界の歴史感覚から見て、かつてセント・パトリック大聖堂があったはずの第5番街の座標へ向かった。しかしそこにあったのは、巨大なガラス張りの行政アーカイブセンターだった。ソーンは携行スキャナーで基礎構造を走査し、石材の年代測定を行った。礼拝堂の基壇も、祭壇の痕跡も、鐘楼の基礎も検出されない。おそらく、この場所は宗教施設から転用されたのではない。最初からそのような目的で設計された痕跡がなかったからだ。
ソーンはセンターの受付にいた都市史アーキビストの女性に声をかけた。
「この地点には昔、共同祈念のための建築があったのではないですか。」
アーキビストは怪訝な顔をした。「共同祈念とは何です。」
「人々が集まり、超越的なものに祈りを捧げる場所です。教会や寺院と呼ばれるような。」
彼女は少し考え込んでから答えた。「集団慰撫の建築類型はこの系統史には存在しません。死別や不安に対する対処は、家庭圏や医療圏に分散しています。あなたが言う教会に相当する語は、歴史的俗信分類の付録にしか出てきませんね。何か古い文学の真似事ですか。」
彼女の語り口には、説明を省くほどの当然さがあった。ソーンはその当然さに、深い不気味さを感じた。
次にソーンは、セントラルパークに相当する広大な再生生態区画へ足を運んだ。地磁気、音響、気流を測定すると、確かに心が鎮まるような、いわゆる聖地と誤認されそうな自然条件が揃っている場所があった。彼は近くを歩いていた都市環境設計者に尋ねた。
「この都市には、人が願いごとをしに集まる場所、何かを祈る場所はないのですか。」
設計者は軽く笑って答えた。「静養区や、心理的負荷を物理的環境で緩和する認知安定区ならあそこに見えるでしょう。ですが、場所自体に超自然的効能があるという理解は、初等教育の誤謬史で学ぶことです。ここはただの環境調整システムの一部ですよ。」
聖地は自然に存在するのではなく、解釈によって生まれるのか。ソーンはそう内省した。この世界には、自然現象を霊的に解釈する文化の土壌が完全に消え失せているのだ。
最後に、ソーンは死生観の扱いを確認するため、公共の死別調整センターを訪れた。白く清潔な空間で、担当職員に話を聞いた。
「ここでは、死はどのように扱われるのですか。」
「整理されます。」職員は事務的な口調で答えた。「記憶保持、情動調整、生活再編。それらの実務的処理を進めます。ただ、片づいても、納まるとは限りませんがね。」
その言葉には、宗教語彙が一切含まれていなかった。魂が天に召されることも、どこかで見守っているという慰めもない。洗練された合理性だけがそこにあった。しかし、なぜと問う文化そのものが痩せ細っているこの社会の完成度は、ソーンにとって痛々しいほど冷たく感じられた。
3つの現場調査を終え、ソーンはついに携帯情報アーカイブにアクセスした。検索ウィンドウに「宗教」と打ち込む。結果は「該当する主要カテゴリはありません。歴史的俗信、あるいは古代の精神疾患の1種として分類されています」と表示された。
次に「聖書」と入力した。すると、代わりに1つの書物の名が画面を埋め尽くした。
『無神論』。
著者、アノニマス・シモン・マグス・ブラック・スミス。初版、1790年。
この世界の歴史は、この1冊の書物によって完全に書き換えられていた。それは聖書に代わる大ベストセラーであり、全世界の教育、法律、倫理の母体となっていた。ソーンは驚愕した。なぜ宗教が消えたのか。その答えは、この書物と、その著者にあった。彼はジョーンに短い報告を送り、新たな座標を申請した。
「原因を調査する。1790年、ロンドンへ。」
2. 城の図面
1790年のロンドンへ向かう前、ソーンは2242年の深層アーカイブに潜り、アノニマス・シモン・マグス・ブラック・スミスという人物の足跡を徹底的に調べた。そこで彼は、スミスの拠点とされた施設の図面断片に行き当たった。かたい城の所在を示す図面である。
その図面は、ソーンの知るどのような城の平面図とも異なっていた。広大な敷地に、巨大な円筒群が幾何学的に配置されている。それは王侯貴族の居城というより、軍事施設、あるいは巨大な地下観測所のような異様な構造をしていた。塔や尖塔のように天を目指す意匠は極端に少なく、全体が低く、広く、そして外壁が異常に厚く描かれている。
住むための城ではなく、何かを測るための城。ソーンはそう直感した。なぜスミスほどの知性と影響力を持つ人物が、見晴らしの良い高台や華麗な宮殿ではなく、このような無骨で分厚い円筒群の底に身を潜めたのか。現代の記録だけでは、その真の目的は分からない。現地へ行くしかない。
3. 接近
時間跳躍。蓋然世界B、ロンドン郊外、1790年。
霧に包まれた荒野の先に、その建造物は蹲っていた。ソーンは息を潜めて接近し、双眼鏡で全容を確認した。入城できるか否かを判断するためである。
それは、鉄の円筒実験城だった。
高くそびえる単一の塔ではない。広大な敷地に、太さや高さの異なる複数の巨大円筒が不気味な沈黙とともに配置されている。主炉らしき太い筒、天頂を向いた観測筒、外部環境を遮断するための遮蔽塔、記録を保管するためと思われる堅牢な筒。それらが太い鋼のパイプと渡り廊下で複雑に連結されている。
外壁は異様に厚く、石材と分厚い鉄板の複合構造で覆われていた。近づくにつれ、それが居城というよりは、巨大工房、兵器庫、あるいは後世の巨大な素粒子検出器の複合体であるかのような錯覚に陥る。スミスほどの身分なら高い城に住みたくなっても不思議ではないのに、なぜか上へではなく、厚く、低く、広く築かれている。これが、高い城ではなく、かたい城と呼ばれる所以か。
ソーンは城壁の死角を探し、侵入を試みた。しかし、数歩近づいただけで、彼はこの城の真の恐ろしさに気づいた。魔法やオカルト的な結界などではない。設計が精密すぎるのだ。
足を踏み入れた瞬間に音が不自然に吸われる通路配置。わずかな足音や振動の反響で、侵入者の位置が即座に特定される床構造。視線導線が幾何学的に計算し尽くされており、死角が物理的に存在しない。金属壁全体が微細な共鳴ネットワークを形成しており、外部からの接触の微振動が全域へ伝達される仕組みになっている。
さらに、通常の時間座標固定で内部の空間へ直接転送しようとしても、城の内部だけが異常な座標の揺らぎを見せ、ターゲットを固定できない。これは防衛設備というより、外部からのノイズを完全に遮断するための極限の観測環境だ。
正面から門を叩いて入る城ではない。ソーンは1度退き、深い霧の中へ身を隠した。完成されたこの要塞を、今の装備で攻略することは不可能だ。
4. 遡行
完成形が崩せないなら、建設途中の論理を見に行く。それが逆転策となる。探偵としての直感がソーンにそう告げた。彼は城の周囲に残る古い搬入導線の跡や、外壁の鉄組成の風化具合から建設初期年代を割り出し、転送装置を再設定した。
時間跳躍。同じ場所、1768年。
霧が晴れると、そこにはまだ完成していない円筒群の骨組みがあった。むき出しの鉄塔、半地下へ向かって掘り進められた巨大な基礎、炉心区画の造成現場。完成後の威圧感はないが、その構造の特異さは骨格の段階でも十分に伝わってきた。
ソーンは遠距離から現場を観察した。そこで彼は初めて、これが城というよりも、何か途方もないものを測るための器械群であることを確信した。
火花散る現場の中心で、指示を飛ばす1人の若い男の姿が見えた。彼がスミスだろう。男は設計図ではなく、金属板に直接何か数式のようなものを書きつけ、1人で円筒の基礎内部へ降りていく。ソーンは彼との接触を避け、ただその構造の弱点、すなわち外部からの振動を城がどのように処理し、どの帯域のノイズならシステムが無視するのかを徹底的に計測した。
必要なデータは揃った。ソーンは再び1790年へと座標を合わせた。完成城を攻略するための鍵を手にして。
5. 内部構造
1790年。ソーンは再びかたい城の前に立った。今度の侵入方法は、壁を破るのではなく、壁にとって意味のないものになることだった。過去の観測データから割り出した、城の警戒系が環境ノイズとして処理して棄却する微弱な振動パターンと熱源の閾値。ソーンは自身の装備をその閾値内に同調させ、音響的な死角を縫うようにして分厚い鉄扉の隙間をすり抜けた。かたい城の内部への到達である。
内部は、豪華絢爛な王城のイメージとは対極にあった。
厚い鉄壁と石壁に囲まれた空間。音が不気味なほど反響する区画を抜けると、今度は自分の呼吸音すら吸い込まれるような、まったく反響しない無音の区画が現れる。主炉の熱気に満ちた筒と、凍るように静かな冷却筒。金属の階段、渡り廊下、覗き込むための観測窓、至る所に煤けた板や複雑な図形が刻まれた刻線板が配置されている。
巨大な振り子、磨き上げられた鏡の列、地磁気を測る磁石、正体不明の液体が満たされた槽、精緻な歯車群、真空に近い状態を保つための分厚い箱、光を完全に遮断した暗室に近い観測筒。
寝室や広間のような、人が住むための城らしさは希薄だった。にもかかわらず、全体としては息苦しいほどの要塞のような威圧感がある。ソーンは歩きながら理解した。これは城であると同時に、巨大な炉であり、観測装置であり、書庫であり、試験場であり、論理を組み立てるための機械なのだ。スミスは本を書いただけの思想家ではない。彼は自らの手で装置を作り、測り、確かめている。
ソーンは、さらに下へ続く螺旋階段の存在に気づいた。降りるほどに空気は冷え、外界の気配が剥がれ落ちていく。地上の風も、馬車の軋みも、人の営みのざわめきも、厚い岩と鉄に濾し取られ、最後には自分の血流だけが耳の奥で鳴っているように感じられた。これは隠れるための地下ではない、とソーンは悟った。余計なノイズを徹底的に遮断し、普段なら世界の雑音に埋もれてしまうほど微かな反応だけを拾い上げるための地下なのだ。高みは権威を与えるが、深みは検出感度を与える。スミスは城を築いたのではない。巨大な暗室であり静室であり、世界そのものの囁きを聞くための器械を地中へ埋め込んだのだ。
ソーンはふと、古代の巨大建築について読んだ異端説を思い出した。人は昔から、空を観測するだけでなく、地中へ向けても世界を測ろうとしてきたのではないか。ピラミッドすら、単なる墓ではなく、天空と地下の両方へ感覚を伸ばす器械だったのだと唱える者もいた。もちろん、そんなものは証明された話ではない。だが、スミスの城を前にすると、その手の妄想を笑い切ることもできなかった。
6. 鍛冶屋
ソーンは城の中枢へと続く渡り廊下を抜け、主炉筒の脇に連結された作業区画へと足を踏み入れた。そこは、これまでの無機質な空間とは異なり、雑多な熱気に満ちていた。
火花、金床、散乱する金属片、無数の筆記具、観測板。その中心で、1人の男がただ1人、金床に向かってハンマーを振るっていた。一見するとただの鍛冶屋だが、周囲の異常な器具群と空間の威圧感が、この男の存在を凡庸なものから遠ざけている。
ソーンは足音をわずかに立てて存在を知らせた。
男はハンマーを止め、振り返った。知的なエネルギーに満ち、どこか楽しげな悪戯っぽい光を宿した目。
「見学の時間には遅いと思うが。」男は明るい声で言った。
「搬入の道に迷いましてね。」ソーンは偽の身分を装って答えた。「ここは城ですか、それとも工房ですか。」
男はソーンの顔ではなく、足元を見た。「どちらでもあるし、どちらでもないよ。だが、その靴は鉄を運ぶためのものじゃないな。歩くためというより、滑り込むための素材だ。」
ソーンは内心で舌を巻いた。この男は一瞬で装備の違和感を見抜いている。
「面白い技術だ。」男は続けた。「その服の繊維も、この時代の織機では作れない。君は何処から来たんだい。」
「遠い所からです。」
「だろうね。だが、未来から来たというには、君は少し過去の匂いに引かれすぎている。時間を遡ることに慣れている人間の歩き方だ。」
男は金床に寄りかかり、微笑んだ。
「ようこそ。私の名はアノニマス・シモン・マグス・ブラック・スミス。ただのスミスでいい。考えたって仕方がないことだが、君がここへ来た理由は、外の景色が変わったからだろう?」
スミスは最初からすべてを語ろうとはしなかった。彼はずば抜けた観察眼でソーンを測り、相手の嘘を面白がりながら、少しずつ間合いを詰めてきた。彼は、まだ科学が魔術と未分化であった16世紀の気風をその身に宿しながら、18世紀に生きる規格外の天才だった。知性の深淵を覗き込み、それを笑い飛ばせる強靭な精神を持っている。
7. 『無神論』
スミスとの短い探り合いの後、ソーンは作業台の上に置かれた分厚い原稿の束に目を留めた。校正刷りの段階にある『無神論』の原稿だった。その書籍の構成は重厚であった。
「読んでみるかい。世界を変える前の、ただの紙切れだがね。」スミスが促した。
ソーンは原稿を手に取った。その内容は、ソーンの知る歴史上のいかなる書物よりも重厚かつ革命的だった。未来の固有名詞は一切使われていない。だが、スミスは独自の言葉で、数世紀先の科学的発見を完璧に記述していた。この書は、宇宙の物理的構造と人間の認識を完全に解体し、真の現実を突きつける究極の証明書である。
第1部「生命の量子論」
人間の意識を「タンパク質の織りなす回路網の中で、揺らぎの波が重ね合わさり、見ることによって1つの現実に鍛え定まる小宇宙」として記述していた。魂という概念を完全に排除し、思考とは「脳という装置が維持する複数の成り行きの折り重なりと、その収縮プロセスが生む情報処理」であると定義していた。近代科学の成立以前に、彼はすでに脳内の量子効果に相当する現象を驚くほど精密に思考していた。
第2部「経済と散逸構造」
市場の自己組織化を、熱力学的な現象として記述していた。富の蓄積と分配は、神の采配ではなく「開放系が外部からエネルギーを取り込み、内部の無秩序を増大させながら、より複雑な形を自発的に形成する渦のようなパターン」であると喝破していた。
第3部「人間の条件と共同幻想」
人類が地球の支配者となった要因を「物理的には存在しない物語を、あたかも実在するかのように信じ、共有する能力」にあると看破していた。宗教、国家、貨幣、法律。それらはすべて、サピエンスという種が脳内に持つ虚構構築能力の産物であると断じ、宗教を対立を生む不完全な物語として退け、神の不在という、より高度で普遍的な虚構を新たに共有すべきだと提唱していた。
第4部「宇宙と多世界」
宇宙を、無数に存在する可能性の分岐の1つとして数学的に定義していた。私たちが観測する宇宙の物理法則が生命の存在に適しているのは、設計者の意図ではなく、観測者という存在が成立しうる枝の上でしか、宇宙を観測することはできないという観測選択効果による必然であると結論付けていた。
ソーンは原稿から顔を上げた。これは宇宙の構造そのものを記述した、冷徹で、しかしどこまでも美しい物理学の書であった。
8. 科学史
ソーンは城内で得た情報を基に、劇場への中間報告をまとめた。この世界の科学史がいかに異なっているかを詳細に記述した。それは量子力学の歴史の違いでもあった。
我々の蓋然世界Aでは、量子力学の歴史は長く苦難に満ちたものだった。量子力学の成立は1900年のプランクの量子仮説に始まり、1920年代にハイゼンベルク、シュレディンガー、ボーアらによって理論的基礎が整えられた。彼らは、観測されるまで世界は無数の可能性の重ね合わせ状態にあるという奇妙な事実を突き止めた。アインシュタインやボーアたちは、この事実の哲学的意味に生涯をかけて苦悩した。そして、波動関数が観測によって収縮するのではなく、あらゆる可能性が並行して存在し続けるという多世界解釈の1つの仮説がヒュー・エヴェレットによって提唱されたのは、さらに後の1957年のことであった。
しかし、この蓋然世界Bでは、アノニマス・シモン・マグス・ブラック・スミスという1人の天才が、18世紀の段階でそのすべてに独力で到達していた。彼はニュートン力学という古典物理の段階を飛び越え、いきなり宇宙の量子的本質を掴み取っていたのだ。ファインチューニングの現象を設計者の意図とみなす立場を採ることなく、無数の宇宙の中からたまたま生命が存在し得る宇宙を観測しているに過ぎないという人間原理に相当する発想を、彼は驚くほど整った数式と論理で先取りしていた。観測者が成立しうる枝でしか宇宙は観測されえないという観測選択効果を、独自の理論体系として提示していたのである。
9. 近代思想家
スミスの理論が完璧な真理として世界を覆った結果、蓋然世界Bの近代思想家たちは、A世界で見られたような神との悲壮な葛藤に苦しむ必要がなかった。彼らは躍進を遂げたのである。以下は思想史上の人物像を、この世界線の条件に照らして整理した仮説的記述である。彼らの天才性は、神という古い制約から解放されたことで、極めて純粋かつ肯定的な形で開花した。
この蓋然世界Bのアダム・スミスは、神学的な後ろ盾に頼らず、市場の自己組織化として『国富論』を自信に満ちて書き上げた。カール・マルクスは、宗教を民衆のアヘンと告発するまでもなく、最初から唯物論的歴史観を堂々と展開し、資本主義の解剖に専念した。フリードリヒ・ニーチェは神の死を宣告する挑発的身振りを必要とせず、より直接に超人思想を展開した。チャールズ・ダーウィンは、進化論を発表する際に教会からの非難を恐れることなく、生命の多様性を自然選択の美しい法則として力強く発表した。
さらに後の時代において、ジークムント・フロイトは人間の無意識を宗教的罪悪感から切り離して純粋な科学として探求した。スティーヴン・ホーキング博士も、晩年には神を不要な仮説として扱う傾向をいっそう明確にし、創造主仮説を持ち出さずに宇宙論を展開することを、ほとんど当然の前提として受け入れていた。著名人たちは全員が自信に満ち溢れ、神の不在を前提とした現代人が描く理想の社会像を体現し、それぞれの分野で目覚ましい活躍を遂げていた。
10. 祝祭社会
スミスの理論がマジョリティとなったマルチバースは、一見すると理想郷だった。祝祭社会と陽和なる専制が同居する世界である。宗教戦争もカルトもなく、人々は「たまたまこの宇宙にいるのだから、今を楽しもう」という合理的諦念のもと、パーティーピープルのように明るく生きていた。
しかし、ソーンが未来のニューヨークで見た社会には、深刻な歪みが存在した。すべてを確率と偶然で片付けてしまう社会では、個人の深い悲しみや理不尽な苦痛が、単なる統計上のブレとして処理される。病に倒れた者、愛する人を失った者に対し、周囲は、残念な確率を引いたね、でも考えたって仕方がない、次の楽しみを見つけよう、と明るく励ます。そこには、物語による魂の救済が一切存在しない。
弱者がその弱さのまま存在することを許さない、冷徹なまでの陽の圧力が社会を覆っていた。これを、ソーンは陽和なる専制と名付けた。誰もがポジティブであることを強いられ、内省や悲しみは非効率な精神状態としてカウンセリングや投薬の対象となる。
社会の支配階級は、スミスのように、意味の不在を心から楽しめる精神構造を持つ天才たちで占められていた。彼らはAIや量子技術、宇宙開発を最高の遊びとして謳歌し、そのカリスマ性で大衆を導く。だが、その光についていけない大多数の凡人たちは、自らの存在意義を肯定する物語を失ったまま、静かに虚無に蝕まれていた。神のいない世界で生きる精神的体力を持たない彼らにとって、出生率の低下や安楽死施設の静かな繁盛は、この世界の残酷な真実を物語っていた。
11. 確率論の文化
ソーンはニューヨークの街をさらに歩き回りながら、この社会のもっとも特徴的な言語習慣を観察していた。世界はすべて2択か3択かで処理されていた。それは、日常会話の構造そのものに埋め込まれていた。
駅のホームで、老人が孫らしき少女に話しかけていた。
「今日、傘を持っていくべきかな。」
少女はすぐさまポケットから小型端末を取り出し、画面を一瞥した。「気象モデルだと降水確率62パーセント。持っていく1択だよ、おじいちゃん。閾値は50を越えたら持参、が標準でしょ。」
老人はうなずき、傘を手に取った。迷いも逡巡もなかった。
街頭の議論の場でも、この習慣は顕著だった。政治的な問題について市民が討論しているのを、ソーンは立ち止まって聞いた。
「移民受け入れの拡大は、どう判断する。」
「賛成73パーセント、反対27パーセント。現時点での集計だ。有効母集団は34万件の行動データとシミュレーション。これ以上議論を延ばすのは、情報コストの無駄じゃないか。」
「でも、その73パーセントは5年後のモデルだろう。現在の実感と乖離がある場合、どう重みをつける。」
「実感バイアスの補正は標準で0.7かけるべきだ。だから実質的には51パーセント対49パーセントの接戦と見るべきだ。つまり、今は動かない方が安全策だ。」
「その安全策を選ぶコストは計算されているか。」
「もちろん。不作為リスクは行動リスクの1.3倍。だから、まあ、3択だな。強行、静観、条件付き実施。条件付きの期待値が最も高い。」
ソーンはその会話を聞きながら、奇妙な息苦しさを感じた。彼らは何も恣意的には決めていない。すべてが確率と期待値で整理され、選択肢は必ず2択か3択に絞り込まれ、各選択肢には数字が貼り付けられる。これは間違いなく合理的だ。だが、決断のたびに人は何かを喪失しているようにも見えた。
学校でも同じだった。ソーンが立ち寄った公立学校の授業では、12歳ほどの子供たちが確率的倫理学の演習をしていた。
「友人が困っている。助けると自分のリソースが15パーセント減る。助けない場合、友人の苦境が継続する確率は78パーセント。さて、あなたはどう行動しますか。」
子供たちは各自の端末で計算を始めた。
「期待効用は助けた方が高い。長期的に見れば、友人関係ネットワークの強化は自分のリソース回復に貢献する。助ける、が最適解です。」
「でも、友人が78パーセントで苦境から抜け出せないとしても、22パーセントで自力回復する可能性がある。助けないことで、その22パーセントの自律的解決を促せるかもしれない。」
「それは正しい。3択にすべきだ。強く助ける、見守る、条件付きで補助する。」
教師はうなずいた。「そうです。2択に縛られると最適解を見落とす。常に第3の選択肢を探しなさい。それがこの社会の基本的な思考訓練です。」
ソーンは教室を後にしながら、考えた。宗教のない社会では、人は祈りの代わりに確率を握りしめる。神の意志の代わりに期待値を持ち出す。だが、確率は意味を与えない。それはただ、リスクを管理するための道具に過ぎない。意味への欲求は計算できない。そしてこの社会では、計算できないものはおおむね存在しないものとして扱われた。
12. ゲーム理論の文化
確率論が思考の土台を形成しているとすれば、その上に積み上げられた実践の倫理がゲーム理論だった。戦略こそが倫理であるという構造だ。ソーンがビジネス街を歩くと、いたるところにその痕跡があった。
取引所の一角に設けられた公開交渉ルームで、ソーンは2人の男が会話するのを観察した。
「今回の提案は、君にとってのドミナント戦略か。」一方が言った。
「相手の選択に関わらず、私の最優戦略は承認だ。ただし、相手が協力的に出る前提での話だ。もし相手が裏切りに出る確率が30パーセントを越えるなら、先手で牽制に転じる。」
「ナッシュ均衡に持ち込めるか。」
「持ち込める。ただし、相手方が反復ゲームとして認識しているかどうかが鍵だ。1回限りのゲームだと思われると、協力の動機が崩れる。」
「では、こちらから先に信頼のシグナルを出す。相手がホモエコノミクスなら、長期的利益の計算から協力を選ぶ。」
ソーンは驚かなかった。この文化では、交渉は囚人のジレンマの応用問題であり、社会生活全体が反復ゲームとして設計されていた。
政治の場も同様だった。ソーンが傍聴した市議会の討議では、議員たちはほぼ全員が戦略的推論の語彙で発言していた。
「この政策は、短期的に協力する動機を作るが、長期的には裏切りの誘因になる。制度設計が不完全だ。」
「罰則の強化でインセンティブを矯正すべきだ。裏切りのコストを協力の利益より大きくする。」
「ただし、過度な罰則は萎縮効果を生み、参加者全体のパイを縮小させる。罰の強さより、監視の確実性を上げる方が効率的だという研究がある。」
「監視コストと抑止効果の比較は。」
「モデル上では3対7で抑止効果が優る。ただし、モデルが前提している合理的行為者の仮定が崩れる場合、逆転する。」
会議はゲーム木の分析のように進行し、参加者はそれぞれの選択肢の期待利益を計算しながら発言した。感情的な訴えや、物語に訴えかける言辞は皆無だった。
教育の現場でも、戦略的思考は中核的な科目として位置づけられていた。ソーンが見学した高校では、生徒たちがシミュレーションゲームを通じて社会制度の設計を学んでいた。教師が課題を提示した。
「君たちは新しい資源配分ルールを決める立場にある。参加者全員が自己利益を最大化しようとする前提で、全体最適を実現するルールを設計しなさい。」
生徒の1人が手を挙げた。「全員が正直に行動するインセンティブを設計するより、嘘をついても損をする仕組みを作る方が現実的です。メカニズムデザインの基本は、自己申告が真実を引き出す構造にすることですよね。」
別の生徒が続いた。「でも、完全なメカニズムは存在しない。必ずどこかに抜け道ができる。設計の完成度より、フィードバックで継続的に改善する仕組みを持つことの方が重要だと思います。」
教師は満足そうにうなずいた。「そうです。これが我々の社会の根本です。完璧なゲームを設計することはできない。しかし、ゲームの欠陥を素早く発見して修正する能力を持つことはできる。それが現代市民の最も重要な知的訓練です。」
ソーンは授業を聞きながら、この社会の洗練を認めた。だがその洗練は、ある根本的な問いを避けることで成立していた。なぜ協力するのか。なぜ他者の苦痛を軽減しようとするのか。ゲーム理論はその動機の源泉を問わない。長期的利益、評判、報復リスク。それらの計算が協力の説明になるが、計算のすべてを超えた場面でなお他者のために動く理由は、どこにも書かれていなかった。
13. 再建型居住区
ゲーム理論が社会倫理の骨格を形成すれば、その論理的な帰結として、敗者が生まれる。そこはゲームに敗れた者たちの場所であった。ソーンは華やかな市街地から1ブロック外れた区画へ足を踏み入れ、この社会の影を目撃することになった。
再建型居住区と呼ばれるその場所は、福祉施設と低賃金労働者の宿舎が混在する地帯だった。路上に設置された公共端末の画面には、社会信用スコアや就労実績のランキングが常時表示されている。低いスコアの者は居住区の表示板に名前こそ出ないが、施設への入退記録から、誰が「ゲームに負けた者」であるかは半ば公然の事実だった。
ソーンは公共食堂の一角で、中年の男と話す機会を得た。男はかつてデータ解析の職についていたが、AIの進化によって仕事を失い、再教育プログラムの順番待ちをしていた。
「あなたは今、どんな気持ちですか。」ソーンは静かに問いかけた。
「負けたな、という感じだ。」男は端的に言った。「市場というゲームで。私の価値が、よりコストの安いシステムに負けた。それだけだ。」
「悔しくはないですか。」
男はしばらく黙った。「悔しいという感情が、何かに訴えかける先がない。神様に文句を言えるわけでもないし、運命を呪えるわけでもない。ゲームのルールが変わり、私の手札が弱くなった。それだけの話だ。悔しいという感情は、たぶん無駄遣いだ。」
その言葉の乾いた合理性が、ソーンには逆に哀れに聞こえた。
隣のテーブルでは、若い女性が端末を見つめながら独り言を呟いていた。「再教育の枠、今期も抽選外れた。抽選確率12パーセントか。まあそんなものか。次の期も12パーセントで引ければ、期待値的には8期以内には入れる計算だ」
彼女は確率を呟き続けた。怒りも嘆きもなく、ただ数字を積み上げることで現実と折り合いをつけようとしていた。
通りに出ると、街頭の議論グループが討論を続けていた。テーマは、「負け組」という言葉の妥当性についてだった。
「負け組という概念自体が、社会の設計の失敗を個人の失敗として誤帰属させるレトリックだ。ゲームのルール自体が公正でなければ、敗者に責任を帰することはできない。」
「しかし、ゲームを公正にする試みは何世紀も続けられてきた。それでも敗者は出る。完全に公正なゲームなど存在しない。ならば、敗者に対する補償システムをいかに設計するかが問題だ。」
「補償は必要だが、補償が過大になれば、ゲームに参加する動機が失われる。最低保障と参加インセンティブのバランスをどこに置くかが本質的な問いだ。」
「結局は、ゲームの外に弾き出された者の尊厳をどう保証するかだよ。スコアに還元されない価値をこの社会は認めているか、というのが根本だ。」
その最後の発言をした老人に、ソーンは近づいた。「あなたは、スコアに還元されない価値を信じますか。」
老人はゆっくりと答えた。「信じているかどうかでなく、そういう概念が必要だということは理解している。だが、それを測る道具がない社会では、必要だと言い続けることしかできん。」
14. 福祉調整局
ゲームに敗れた者たちの存在は、しかしこの社会を即座に崩壊させはしなかった。福祉という楽天主義と、私利私欲という亀裂がそこには同居していた。蓋然世界Bには、それを吸収するための精巧な仕組みが存在していた。福祉と社会保障の体系である。
ソーンが訪れた市の福祉調整局は、驚くほど機能的な施設だった。担当官は明るく説明した。
「今から4世紀前、スミスの理論が普及した直後の時代に、我々の先人たちはすでにゲーム理論の論理的帰結として敗者の存在を予測していました。だから制度設計の段階から、敗者の軟着陸装置を組み込んでいます。基本生活保障、再教育の権利、医療と住居の最低保証。ゲームに負けても、死ぬほどひどいことにはならない。それがこの社会の基本的な誓約です。」
「それは立派な設計です。」ソーンは言った。「しかし、その設計が常に機能しているとは限らない。」
担当官は少し表情を曇らせた。「まあ、理論通りにはいかない部分もあります。制度の裂け目というやつが、どうしても残る。」
「裂け目、というのは。」
「端的に言えば、私利私欲の問題です。」担当官はやや声を低くした。「福祉の財源を管理する立場にある者が、その財源を自分や自分の集団に有利な方向へ誘導する。あるいは、制度の設計そのものを、自分たちの権益を保護する形に歪める。それは我々の社会では個人の道徳の問題ではなく、制度の合理的なゲーム理論的帰結です。管理者にとって、自分の利益を最大化することはドミナント戦略になりやすい。」
「その問題を解決する仕組みは。」
「監視、透明化、任期制限、対抗勢力の制度的保護、内部告発の奨励。ありとあらゆる手を打っています。それでも、人間の創意工夫はシステムの穴を見つけることに関しては恐ろしいほど優秀です。」
担当官は苦笑した。それは、何世紀もかけて繰り返してきた徒労の笑いだった。
ソーンはその夜、ニューヨークの高層街路を歩きながら、夜景を眺めた。光り輝く無数の窓。そのひとつひとつの内側では、ゲームが続いていた。勝者と敗者、戦略と失策、協力と裏切りのサイクル。福祉の網は張られている。だが網の目は完全ではなく、管理者の私利私欲という力が、絶えずその形を歪め続けている。
ある酒場で、ソーンは老いた経済学者と隣り合わせになった。男は酒を傾けながら言った。
「スミスの書物は偉大だったよ。あらゆる迷信を焼き払い、人間を合理の光の下に晒した。だがね、合理の光の下に晒されても、人間の中身は変わらなかった。神を信じない人間も、神を信じていた人間と同じだけ貪欲で、同じだけ近視眼的だ。制度で人の性質は矯正できる。しかし、消すことはできない。」
「では、どうするのですか。」
「走り続けるんだよ。穴を塞ぐ側と、穴を広げる側が。永遠に。」男は酒を飲み干した。「疲れるがね。」
15. 城の主
ソーンは工房の奥にある分厚い鉄扉を見つめた。これまで城内を歩いてきたが、この中枢区画の重みは別格だった。
「その奥が、あなたの城の心臓部ですか。」ソーンが問うた。
スミスはうなずき、鉄扉を開いた。その向こうには、主炉筒へ続く広大な回廊があり、さらに奥には複数の巨大円筒が同心円状に並ぶ中核区が広がっていた。熱が走る筒、無音に近い観測筒、記録板が山のように積まれた記録筒、それらを繋ぐ鋼の渡り廊下。空気そのものが張り詰めたような遮蔽区画。
「あなたの作った世界は、ある者にとっては楽園だが、多くの者にとっては緩やかな地獄だ。」ソーンは言った。
スミスは炉の火を見つめながら、静かに答えた。「あらゆる世界はそうだ、探偵。神がいると信じられていた世界も、地獄を抱えていた。私はただ、地獄の種類を変えただけだ。古い物語の地獄から、物理法則の地獄へ。どちらがマシかは、個々人が決めることだ。」
「あなたほどの身分と知性なら、本来は高い塔から都市を見下ろしたくなるはずだ。」ソーンは言った。「なぜ地下へ、円筒へ、分厚い壁へ向かったのですか。」
スミスはかすかに笑った。「高い塔は人に見せるためのものだ。だが、私は見せたかったのではなく、見たかった。地上はうるさすぎるんだよ。光が多すぎる。振動が多すぎる。人間の営みそのものが雑音になる。ごく微かなものを測ろうとするなら、まず余計なものを全部黙らせなければならない。だから私は潜った。岩と鉄の下へ。上へ伸びる塔ではなく、深く沈む器を選んだんだ。」
かたい城が地下深くへ潜るのは、権力や秘匿のためではなく、世界のもっとも微かな信号を捉えるために、余計なノイズをすべて遮断する必要があったからである。スミスは高みよりも硬度を選んだのだ。鍛冶屋が固い鉄で巨大建造物を作ること自体は難しくない。問題は用途だ。彼はここで、観測による定まりや揺らぎの波を検証する、後世の言葉で言えば量子力学の実験に近い行為をひたすら繰り返していたのだ。
この世界線において、スミスは死なない。彼は2200年代に至るまで、歴史上の名君として、あるいは継承される位格として、文明の中枢に君臨し続けている。彼は宗教的殺戮を終わらせ、迷信を駆逐し、合理と秩序を世界に定着させた建国者として記憶されている。彼は暴君ではなく、あまりに有能すぎる名君なのだ。
しかし、その長い統治の目的は、単に神を否定することではなかった。スミスは自らの統治を完成品とは呼んでいない。「私は神を消したのではない。お前たちから、神の名を奪っただけだ」と、彼はどこかで呟いたかもしれない。神の名を奪われたあとでなお、人間が何を呼ぶかを見ているのだ。物語は焼けば消えるが、意味への欲求は焼けない。彼は、人類がこの先どこで揺り戻すかを、地下深くで静かに観測し続けているのである。
16. アーレント・エントロピー
中核区の最奥部へ向かう廊下で、ソーンはスミスと並んで歩いた。鋼の床が響く。観測筒の中に、ぼんやりとした計器の光が揺れている。恣意的な世界には逃れられない宿命があった。ソーンは長い調査の末に辿り着いた、最も根本的な問いを口にした。
「この世界は、完成に近づくほど疲弊しているように見えます。確率論は思考を合理化した。ゲーム理論は協力の構造を設計した。福祉は敗者を包摂しようとした。しかし、全体として、この社会は活力を失いつつある。それはなぜですか。」
スミスは歩みを止めなかった。しばらく無言で歩いてから、ゆっくりと口を開いた。
「ハンナ・アーレントという女の思想を知っているか。」
「知っています。人間の複数性と、活動の公共空間について。」
「彼女の観察の核心は、人間が人間たりうる条件は、予測不能性と始まりを生む能力にある、ということだ。人はいつでも新しいことを始められる。それが政治的自由の基盤だ。しかし。」スミスは廊下の壁に手を当てた。「この世界では、あらゆる選択が最適化の対象となった。2択か3択か。期待値はいくつか。ドミナント戦略はどれか。そうして人間が自由に始める力、予測不能な行為を起こす力が、合理の網の目によって細かく制御され続けた。」
「それが、活力の低下につながると。」
「アーレントは言っていない言葉で言えばこういうことだ。」スミスはかすかに苦笑した。「私はこれをアーレント・エントロピーの法則と呼んでいる。恣意的に設計された世界(つまり、初めから特定の目的のために作られた世界)では、構成員の人間的活力のエントロピーが尋常でない速度で増大する。熱力学のエントロピーと同じく、1方向にしか進まない。」
ソーンは足を止めた。「恣意的に設計された、というのは。」
「そうだ。」スミスは静かに言った。「この世界は、自然に成立したのではない。何者かの意図によって、神を排除するという特定の目的のために設計された世界だ。恣意的な設計によって構成された世界では、その設計の枠内で人間が生き続けるうちに、想定外の行為をする能力、意味の外側へ踏み出す力が、失われていく。人々は与えられた選択肢の中で最適化し続け、その最適化行動そのものが文化として固定化する。確率論で考え、ゲーム理論で行動し、福祉で敗者を処理し、私利私欲を制度で矯正しようとする。完璧に見える。しかし、人間の活力という意味での自由エネルギーは、ゆっくりと、しかし確実に散逸していく。」
廊下の奥に、観測室の扉があった。スミスは扉を開いた。その先には、無数の計器と記録板が並ぶ広大な部屋があった。長い年月分の記録が積み上がり、あちこちに数式や図表が貼られている。壁一面のグラフには、緩やかな、しかし一貫した下降曲線が描かれていた。
「これは何の記録ですか。」ソーンは訊いた。
「この世界の活力の推移だ。文化的創造性の密度、予測不能な行為の発生頻度、制度の外側に出ようとする衝動の強さ。これらを複合した指標を、私はずっと計測している。」スミスは下降曲線を指でなぞった。「見ての通りだ。単調減少。例外はない。小さな上昇は何度かあった。だが、全体の趨勢は逆転しない。アーレント・エントロピーの法則は、この世界においては絶対則だ。」
「つまり、この世界は。」
「終わりに向かっている。」スミスは静かに言った。「急速にではない。しかし、確実に。人々は生きている。繁栄している。争いも少ない。しかし、何かを始めようとする根源的な衝動が、世代を追うごとに希薄になっていく。それは文化の秩序が整いすぎた結果であり、設計の完成度が高すぎた結果だ。」
ソーンは長い沈黙の後に言った。「逃れる方法は。」
「私はその問いに対する答えを持っていない。持っていたら、この城を建てる必要はなかった。」スミスは計器の前に立ち、背を向けたまま続けた。「私はこの世界を観測場として設計した。人類が神を失ったあとで何に向かうかを見るための実験場として。確率論、ゲーム理論、福祉、私利私欲との戦い。それらすべてを経た末に、人類がアーレント・エントロピーから逃れられるかどうかを見ている。しかし。」
彼は1度だけ振り返り、ソーンの顔を見た。
「今のところ、逃れた例はない。どの世界線でも。」
スミスは口元をわずかにほころばせ、こう言った。
「正解だ。この世界は、その真実を顕在化させる巨大な実験場なんだよ。さあ、どう解決するのがいいだろう。名探偵。」
ソーンは、かたい城の最奥部に立ち、グラフの下降曲線を見つめた。それから、静かに首を振った。
「残念ながら、私の仕事はここまでだよ。それはコウマか、アナスタシアの仕事だ。」
ソーンは、かたい城の主と対決することはなかった。彼は巨大な設計図を見てしまった者の静かな疲労とともに、転送の準備に入った。ソーンの仕事は終わった。しかし、劇場の仕事は終わっていない。ブラックスミスの実験も終わっていない。無神論の完成は、結末ではなく、むしろ別の何かの誕生条件だったのだ。その次の幕には、別の役者が立つ。ソーンは静かに座標を合わせ、この実験場から離脱した。
17. 報告書
ソーンは最後の報告書をジョーンに送った。殺神事件の真実を綴ったものである。ソーンは以前から、ジョーンの名に含まれるスミスという姓を、あまり愉快な偶然だとは思っていなかった。劇場の内部では、姓も顔も、時には年齢すら信用に値しない。誰が誰の名を継ぎ、誰が誰の身体を着替え、誰が過去の偉人とどの程度の縁を結んでいるかなど、調べようと思えばいくらでも疑わしくなる。ジョーン自身、その種の問いを好まない。好まないというより、問いを立てた側を先に処理する傾向がある。だからソーンは、その一致を心の隅に押し込み、いまは考えないことにしていた。
「結論。蓋然世界Bの創造主、アノニマス・シモン・マグス・ブラック・スミスは、神の使徒、あるいはそれに準ずる媒介者である可能性が極めて高い。この無神論一色のマルチバースは、人類から宗教を奪うためだけの世界ではない。神を完全に失った人類が、どこで、どのような形で、再び神に相当するものを欲するかを測る、長期の観測実験場である。」
神殺し事件は、この世界線では起こりすらしなかった。神は殺される前に、自らスミスという名の使徒を遣わし、完璧な論理によってその姿を消したのだ。すべては、人類の自立を促すための、神による壮大な自作自演の演目だった。天才スミスは、神が配置した最も優秀なデバッガーであり、人類を古い宗教的対立から引き剥がすための処方箋を配る役割を担っていた。
しかしソーンは、もう1つの結論を報告書に追記した。「この世界は、その目的ゆえに、アーレント・エントロピーの法則の最も純粋な実験例となっている。恣意的に設計された世界において、人類の活力という自由エネルギーは、制度の完成と引き換えに単調に散逸する。この法則は、現時点において例外なく成立している。如何なる福祉制度も、如何なるゲーム理論的設計も、如何なる確率論的思考訓練も、その散逸を止めることはできていない。問いは、次の担当者へ送る。」
ジョーンからの返信は、一言だけだった。
「了解した。君の仕事はここまでだ。次段階の観測と介入は、ヒジュン・コウマ、あるいはアナスタシアへ回す。」
ソーンはいったん2242年へ戻り、そこから蓋然世界Bの座標を蓋然世界Aへと移した。元の時代へ帰還するには、その位置からさらに過去へ跳ぶ必要があった。転送準備を進めながら、ソーンは今回、報告書が素直に受理されたことをむしろ意外に感じていた。どうせ今回も、固い食べ物のように扱われるのだろうと予想していたからだ。しかしジョーンはその点には一切触れず、ただ事務的に、次の工程へ回すとだけ告げた。
次の工程。たとえば、「時間の毛玉」と呼ばれる世界への介入。それはヒジュン・コウマやアナスタシアのような、劇場支配人を務めた者の領分だった。ソーン自身、その実態は噂でしか知らない。だが少なくとも、介入とは世界を破壊したり、ある歴史を消滅させたりする類のものではない、と聞いていた。時間の毛玉は毛玉のまま残される。ただ、それ以上ほころびが広がらないよう、終端を玉止めする。要するに、以後の介入ができないよう処理するだけなのだという。
かつてヒジュン・コウマ自身が、帝政ロシアの時代に時間の毛玉を作った。その評判だけは、劇場の人間なら誰でも知っている常識だった。だが、今回はおそらく時間の毛玉ではない。少なくとも、アノニマス・シモン・マグス・ブラック・スミスは劇場の人間ではなかった。つまり今回の件には、劇場の外側でなお介入を要する世界を生み出せる何者か、劇場の内部で神の使徒と呼ばれている存在が関わっていた、ということになる。
そして、介入後の結末がどうであれ、蓋然世界Bは、少なくとも劇場の構成員に対して秘匿されるべき種類の世界ではなかった、ということも意味していた。奥義ではなかったのだ。おそらく、神の使徒という名目であれば許容される、ということなのだろう。ソーンはその程度に理解した。
いずれにしても、依頼主が犯人だった、という構図はこれで2度目である。依頼主は探偵に何を期待しているのか。ソーンはそう考えながら、報告書をジョーン宛に転送した。
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