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神黄泉薫るパターン認識の旅:シュールレアルなサントラ編(1.1万文字)

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神黄泉薫るパターン認識の旅:シュールレアルなサントラ編

v3.72

【注釈】

本稿は、筆者個人による調査、読解、考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集、整理、ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性、完全性、最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。また、本稿では、『青い恋人たちの詩』『まぼろしの市街戦』『去年マリエンバード』『カモメの城』等の映像、音楽作品について、その核心的な内容に深く触れています。もし作品を未体験の方で、先入観なく鑑賞されたい場合は、必ず先に作品そのものに触れてから、本稿をお読みください。

1. 続編の趣旨と視点

以前、私は自分が世間一般とは異なる「変わり者」であり、そのために生きづらさを感じているというテーマで記事を書きました。本稿はその続編にあたります。前回の記事では、その特性ゆえに、異なる物事の間に存在する共通の「パターン」が見えることがある、と述べました。

例えば、音楽を聴いていて「A、B、A、B、C」という構成に触れたとき、全く同じ構造が小説のプロットや絵画の構図にも存在することに気づく、といった具合です。今回は、そのパターン認識の具体的な一例を、音楽の歴史の中から紹介したいと思います。ただし、これはあくまで私の主観的な洞察であり、学術的な定説ではありません。1975年のテレビ画面から始まった、シュールレアルな記憶の連鎖と一個人の空想의 旅路にお付き合いください。

2. 1975年の原体験

1975年頃、多感な中学生時代を過ごした世代にとって、午後のテレビ放送は予期せぬ前衛芸術との遭遇の場でした。休日や放課後、何気なくテレビを点けると流れていた吹き替え版の洋画。そのラインナップの中には、子供心には到底理解不能な「シュールな映画」がしばしば紛れ込んでいました。

3. 青い恋人たちの詩の迷宮

1968年のフランス映画『青い恋人たちの詩』(原題:Les Gauloises bleues、「青いゴロワーズ」の意)は、そんな体験の代表格です。物語は、貧困と孤独の連鎖を描いた冷厳な詩編でした。主人公はイヴァンという名の少年です。彼は枯れ木のような森でかくれんぼをし、寒々しいアパートで母親の帰りを待ちます。父親は社会の法に裁かれ、母親は生活苦に疲弊し、パン屋でパンを買う金さえ持たない困窮が描かれます。

子供心に焼き付いたのは、その断片的な映像のコラージュでした。線路の上に横たわる人々、処刑や死を暗示するマネキン、寒風吹きすさぶ荒野で一人ぼっちの少年。それらは現実の貧困を描きながらも、どこか現実から遊離したシュールレアリスム絵画のように脳裏にこびりつきました。

当時は番組の途中から視聴したうえ、録画も叶わない時代でしたから、それは正真正銘、一度きりの体験でした。子供の私にストーリーなど理解できるはずもありません。しかし、静止画を思わせるシュールな構図や色彩、あるいは突如として病室に大勢の人間がなだれ込んでくるコメディじみた描写など、脈絡のないそのあまりの「唐突さ」に、一種独特の興味を抱いたことを鮮明に覚えています。

画面の右上には、『青い恋人たちの詩』というタイトルだけが静かに表示されていました。その文字だけが記憶の楔となり、長い年月を経た今、ようやく私はその物語の全貌を理解するに至ったのです。

4. 本作を支えた表現者たち

この独特な世界観を構築したクリエイターたちは以下の通りです。

  • 監督:ミシェル・クルノー(Michel Cournot)

    • 1922年生まれ、2007年没。もともとは「ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌などの著名な映画批評家であり、本作が唯一の長編監督作品です。批評家としての鋭い視線を映像制作に向け、貧困という社会的なテーマを、従来のリアリズムではなく、前衛的で詩的な手法で描こうとしました。カンヌ国際映画祭の関連部門(批評家週間)で上映され、その難解さゆえに賛否両論を巻き起こしました。

  • 出演:アニー・ジラルド(Annie Girardot)

    • 実力派女優として知られ、本作では生活に疲れ切った母親役を演じました。

  • 出演:ジャン=ピエール・カルフォン(Jean-Pierre Kalfon)

    • 大人になったイヴァンを演じ、社会の底辺で生きる男の虚無を体現しました。

  • 出演:ブリュノ・クレメール(Bruno Cremer)

    • 父親役として、逃れられない運命と裁きを受ける男を演じました。

  • 音楽:クシシュトフ・ペンデレツキ / クラウディオ・モンテヴェルディ

    • 映画のクレジットには、現代音楽家のペンデレツキやバロック音楽のモンテヴェルディの名が並びます。これらの厳格で重厚な音楽が、貧しい母子の日常に神話的な悲劇性を与えていました。

  • 主題歌:イヴ・シモン(Yves Simon)による「Les Gauloises bleues」

    • ゴロワーズはフランスの代表的なタバコ銘柄であり、この歌はタバコそのものを歌った曲でもあります。その甘くアンニュイな旋律は、映像の残酷さと対比され、忘れがたい余韻を残しました。

5. まぼろしの市街戦の衝撃

もう一本の忘れられない作品が、1966年の『まぼろしの市街戦』です。第一次世界大戦末期、敗走するドイツ軍が仕掛けた爆弾を解除するためにフランスの田舎町に派遣された兵士が目にしたのは、精神科病院から解放され、王や貴族になりきって優雅に暮らす患者たちの姿でした。「狂気こそが正気であり、戦争こそが狂気である」という逆説的なテーマが描かれます。

見始めた当初、私は直感しました。「これは『青い恋人たちの詩』ではないか」と。画面に漂う独特の空気に惹きつけられ、食い入るように見入りました。しかし次第に違和感を覚えます。舞台は戦場であり、一見すると戦争映画の体裁をとっていたからです。シュールレアリスムとは無縁に思えました。

しかし、中盤から様相が一変します。登場人物たちの服装や振る舞いが、奇妙にシュールな残像を心に焼き付け始めたのです。精神病棟の患者たちが街を占拠し、王や貴族になりきって優雅な日常を演じる。それに翻弄される通信兵アラン・ベイツ。その構図は、戦争という現実を背景に、シュール以外の何物でもない異空間を現出させていました。

物語は爆弾処理を巡るサスペンスの緊張感を保ちつつも、ラストで突如としてモンティ・パイソンを彷彿とさせる祝祭的なカオスへと突入します。そして最も衝撃的だったのは、それまで狂気に浸っていたはずの患者たちが放つ「芝居は終わりだ」という、作中で最も理性的な台詞でした。この一言で世界観は鮮やかに逆転します。籠(病院)の中へ、自ら素っ裸で戻っていくアラン・ベイツの姿。そのエンディングを目撃した瞬間、私は「これは極上の風刺ドラマだったのだ」という深い驚きに包まれたのです。

6. 祝祭と狂気の創出者たち

この美しい寓話を生み出したのは、以下の巨匠たちです。

  • 監督:フィリップ・ド・ブロカ(Philippe de Broca)

    • 1933年生まれ、2004年没。『リオの男』などで知られ、ヌーヴェルヴァーグの一員とみなされることもありますが、より娯楽性とファンタジー色の強い作品を多く残しました。コメディの皮を被りながら戦争の不条理を描く手腕は卓越しており、本作はカルトクラシックとして不動の地位を築いています。

  • 音楽:ジョルジュ・ドルリュー(Georges Delerue)

    • 1925年生まれ、1992年没。「映画音楽のモーツァルト」とも称される、フランス映画界を代表するメロディメーカーです。『軽蔑』や『プラトーン』など300本以上の映画音楽を担当しました。悲劇的なシーンにあえて美しい旋律を当てることで、悲しみを浄化するような効果を生む天才として愛されています。本作でも、「狂気と平和」という不条理な対比を、この上なく美しい旋律で表現しました。

それは、放課後の気怠い午後や休日の昼下がりに、ブラウン管の向こう側から突如として現れた「不可解な異空間」との遭遇でした。物語の理屈など到底理解の及ばない子供心にも、その得体の知れない雰囲気に全身で浸る感覚は決して不快なものではありませんでした。むしろ、意味から解放された浮遊感に身を委ねるその体験は、記憶の底に柔らかく沈殿する、幸福な時間だったのです。

7. マリエンバードの謎

その後、成人してシュールレアリスムという概念に興味を抱いた私は、あるSF雑誌で高く評価されていた『去年マリエンバード』という作品に出会います。期待に胸を膨らませてレンタルビデオで鑑賞したものの、そこにはかつて以上の「分からなさ」が待ち受けていました。

当時、私は32インチの大型ブラウン管テレビと2台のVHSデッキをローンで購入し、自宅をさながらプライベートな映画館へと改造していました。かつてはテレビの洋画劇場で一期一会の出会いをするしかなかった作品群も、レンタルビデオの普及によって手元に置ける時代が到来していたのです。私は貪るようにテープを借り出し、ダビングを重ね、夜毎3本立ての映画鑑賞会を独り開催するという、没入の日々に明け抜けていました。

そのラインナップには、『ビバリーヒルズ・コップ』や『ブルース・ブラザース』『サボテン・ブラザース』といった純粋な娯楽作も並んでいました。しかし、私の心を真に捉えて離さなかったのは、『ブレードランナー』や『遠い夜明け』『ガンジー』、あるいはデヴィッド・リンチやアレハンドロ・ホドロフスキーの監督作品、グルジェフの伝記映画『注目すべき人々との出会い』といった、鋭い問題提起を含み、観る者を世界観の深淵へと引きずり込むような没入度の高い作品群でした。

そんな「凝り性」を自認する私でさえ、『去年マリエンバード』は全くのお手上げでした。面白いとも感じられず、映像への没入感も湧きません。唯一理解できたのは、それが一筋縄ではいかない「キワモノ」であるということだけ。やたらと豪華な建物や情景だけが上滑りしていくような印象を残し、私の中の評価軸では「判断保留(ペンディング)」の棚へと追いやられてしまったのです。

8. 迷宮を構築した人々

1961年のこの作品は、豪華なバロック様式のホテルで、男(X)が女(A)に「去年、マリエンバートで会いましたね」と話しかけ、女はそれを拒絶し続けるという、ただそれだけの物語が繰り返されます。

  • 監督:アラン・レネ(Alain Resnais)

    • 1922年生まれ、2014年没。『夜と霧』や『ヒロシマ・モナムール』で知られる左岸派の巨匠です。記憶と忘却、時間の構造をテーマにした難解かつ芸術的な作品を作り続け、映画文法を解体した革新者として映画史において極めて重要な位置を占めています。

  • 音楽:フランシス・セリグ(Francis Seyrig)

    • 20世紀中期に活躍した作曲家で、本作に出演している女優デルフィーヌ・セイリグの兄でもあります。ブニュエル監督の『銀河』なども手掛けました。バロック音楽や現代音楽の素養を背景に、映画の構造そのものと対話するような音楽を作曲します。特に本作におけるパイプオルガンを用いた反復的な音楽は、音そのものが迷宮の構造を形作っており、映画音楽史において最も不安で印象的なスコアの一つとされています。

9. 町山智浩氏による解明

長きにわたる「保留」の状態に終止符が打たれたのは、数年前のことです。YouTubeで映画評論家、町山智浩氏による解説動画を目にした瞬間、文字通り目から鱗が落ちる思いでした。かつてSF雑誌がこぞって絶賛していた理由、およびこの難解な映像迷宮の「解」がついに明かされたのです。

町山氏の解説によれば、本作の原作者アラン・ロブ=グリエは、アルゼンチンの作家アドルフ・ビオイ=カサーレスによるSF小説『モレルの発明』に強く影響を受けているといいます。『モレルの発明』には、孤島にある機械によって記録された「永久ループする立体ホログラム」の人々が登場します。つまり、『去年マリエンバード』の登場人物たちも、終わりのない時間を永遠に繰り返すホログラムのような存在であるという解釈です。このSF的な設定(ループ構造)を当てはめることで、あの不可解な会話と時間の迷宮の謎が、論理的に解き明かされたのです。

10. 音楽とシュールの交差点

これら三つの作品(『青い恋人たちの詩』『まぼろしの市街戦』『去年マリエンバード』)の音楽は、聖歌のような荘厳さ、あるいは典雅な弦楽四重奏、重層的なオルガンの響き、はたまた大道芸人のサーカスを思わせる軽妙さなど、その表現は多岐にわたりながらも、ある意味では伝統的な音楽ジャンルに属していました。

しかし、『去年マリエンバード』においては、静寂が断続的に訪れる時間と、不協和音を孕む重層なオルガンが織りなす不安な響きが、劇的な対比として印象深く配置されていたのです。これらの音響が、作品全体のシュールな世界観と一体となり、私の記憶の中に強烈な「パターン」として刻み込まれました。

その「奇妙なパターン」に再び出会ったのは、しばらく後のこと、テレビ番組『日曜美術館』でパウル・クレーの特集を観たときでした。実は、私はプログレッシヴ・ロックを好むと別の記事でも記しましたが、クレーの画集は幼少の頃から自宅にあり、特にお気に入りの画家の一人でした。当時は彼の芸術について深い知識は持ち合わせていませんでしたが、その神秘的な色彩と線には強く惹かれていました。

そしてその日の『日曜美術館』では、BGMとしてタンジェリン・ドリームの『ストラトスフィア(原題:Stratosfear)』が全編にわたり使用されていたのです。この視覚と聴覚の完璧な合致、および両者が生み出す「意味の解釈を拒む世界」という印象が、先に触れたシュールレアリスム映画で感じた「パターン」と完全に重なり合ったのでした。

11. パウル・クレーの芸術

  • パウル・クレー(Paul Klee / 1879年-1940年)

    • スイスの画家ですが、プロ級のバイオリンの腕を持つ音楽家でもありました。『ポリフォニー』や『パルナッソス山へ』などの作品に見られるように、バッハなどのポリフォニー(多声楽)の構造を色彩と線でキャンバスに再現することを追求しました。抽象絵画の父の一人であり、その作品は多くの音楽家を触発し続けています。

12. ドイツ電子音楽の先駆

  • Tangerine Dream(タンジェリン・ドリーム / 1967年結成) ドイツのエレクトロニック・ミュージックバンドで、Edgar Froese(エドガー・フローゼ)を中心に結成されました。シンセサイザーやシーケンサーを駆使した浮遊感のある音響空間を創造し、ベルリン派エレクトロニック・ミュージックの先駆者として知られます。『ストラトスフィア(Stratosfear)』をはじめとする一連の作品は、映像芸術との親和性が高く、抽象絵画を音で表現したような独特の世界観を持っています。

13. 勅使河原宏の映像詩

この衝撃を受け、私はシュールレアリスム文学の代表作である安部公房の映画を改めて鑑賞するに至ります。勅使河原宏監督、武満徹が音楽を手掛けた安部公房原作の四つの代表作(『おとし穴』『砂の女』『他人の顔』『燃えつきた地図』)は、その特異な造形美と音響によって国際的に高く評価されています。私が実際に鑑賞したのは、この四作のうちの一本である『砂の女』と、勅使河原監督が単独で手掛けたドキュメンタリー映画『アントニー・ガウディー』の二作品です。

勅使河原宏監督による『アントニー・ガウディー』(英題: Antonio Gaudí)は、1984年に公開されたドキュメンタリー映画です。この映画は、スペイン、バルセロナの建築家アントニ・ガウディの作品群を、勅使河原監督独自の審美眼で捉えた映像詩として高く評価されています。勅使河原監督は1959年に初めてバルセロナを訪れて以来ガウディに魅了されており、本作は1984年に再び現地を訪れて撮影されました。

ナレーションを排し、勅使河原作品に欠かせない作曲家、武満徹の音楽と圧倒的な映像美によって、サグラダ・ファミリア、カサ・ミラ、グエル公園などの建築物が「ガウディの宇宙」として描き出されています。建築家、磯崎新などの専門家からも注目され、単なる記録映画を超えた「一人の芸術家(勅使河原)がもう一人の芸術家(ガウディ)を凝視した」作品と評されました。

特に『アントニー・ガウディー』で体験したヴィジュアルと武満徹の音楽がもたらす心地よさは、以前『日曜美術館』でパウル・クレーの特集が組まれた際に、BGMとしてタンジェリン・ドリームの『ストラトスフィア(Stratosfear)』が全編にわたり使用されていたのを目撃した、あの完璧な合致に似た体験でした。どちらも、有機的な造形美と、意味の解釈を拒む音楽の静謐な協働が生み出す、深遠な世界でした。

14. 映像作品の視聴環境

ソフト化や配信についても、DVDは『勅使河原宏の世界 DVDコレクション』に収録されており、リニューアルパッケージ版が2012年7月20日に発売されています。また、Blu-rayは米国のクライテリオン・コレクション(Criterion Collection)から修復版が2020年に再発売されています(北米版)。配信については、2026年2月現在、日本の主要な定額制動画配信サービス(Netflix、Amazonプライムビデオ等)での見放題配信は一般的ではありませんが、Criterion Channelなどの専門プラットフォームで扱われることがあります。

15. 安部公房との共作

勅使河原作品(私が鑑賞した『砂の女』や『アントニー・ガウディー』など)には、まさにあの「無音と不協和音の断続」という、私が発見したパターンが音響として具現化されていました。これらを生み出したのは、以下の黄金のトライアングルです。

  • 原作・脚本:安部公房(Kobo Abe)

    • 1924年生まれ、1993年没。ノーベル文学賞候補とも目された作家、劇作家です。『砂の女』や『燃えつきた地図』に代表されるように、都市における人間の孤独、個の喪失、実存の不安をシュールレアリスムの手法で描き出しました。

  • 監督:勅使河原宏(Hiroshi Teshigahara)

    • 1927年生まれ、2001年没。華道草月流の家元であり、画家、映画監督です。安部公房とのコンビで、カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞するなど、その造形美と前衛的な演出は国際的に高く評価されています。

  • 音楽:武満徹(Toru Takemitsu) 1930年生まれ、1996年没。正規の音楽教育を受けず独学で作曲を習得した、「タケミツ・トーン」で知られる世界的作曲家です。『ノヴェンバー・ステップス』などの管弦楽曲のみならず、映画音楽でも砂の音や風の音を音楽として扱い、「不条理」を音響として肉体化しました。

16. 現代音楽の源流

さらに探求を進める中で、こうした現代音楽における不条理の表現の源流がイーゴリ・ストラヴィンスキーに始まると聞き、彼の三大バレエ作品を聴いたところ、そこにもまさに、同じ「パターン」が脈打っていることを確信したのです。

  • イーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky / 1882年-1971年) ロシア出身の、20世紀を代表する作曲家です。バレエ音楽『火の鳥』『ペトルーシュカ』、および『春の祭典』で知られます。リズムの解放と不協和音の使用により、音楽史における最大のスキャンダルと革命を引き起こしました。その変拍子やポリリズムは、後のプログレッシブ・ロックにおける複雑な構造の雛形となりました。

17. 日本の前衛芸術

この無音と断続的な非日常的なメロディや不協和音といった特徴を、私は子供時代に経験していることに気づきました。それは、『ウルトラQ』や『ウルトラセブン』といった一部の作品に使用されていた、非日常を表現する際の手法として、受け継がれていたのでした。

  • 監督:実相寺昭雄(Akio Jissoji)

    • 1937年生まれ、2006年没。TBS出身の演出家、映画監督です。逆光や極端なアングル(実相寺アングル)、シュールな構図を多用し、特撮番組に芸術的な異化効果を持ち込みました。『ウルトラセブン』第8話「狙われた街」などはその真骨頂です。

  • 音楽:冬木透(Toru Fuyuki)

    • 1935年生まれ。国立音楽大学出身の作曲家です。クラシックの語法を特撮音楽に導入し、交響詩『ウルトラセブン』やワンダバ(男声コーラス)など、重厚かつ前衛的なスコアを提供しました。特撮音楽の地位を芸術の域まで高めた功労者です。

18. 峻厳なるプログレ

さらに、同じ特徴はプログレッシヴ・ロックの最先端で開花していました。それまでは、ジャズやクラシック、バロックといったオーソドックスなジャンルとの融合がプログレッシヴ・ロックの特徴でしたが、70年代後半には、現代音楽との融合を果たします。

  • Henry Cow(1968年-1978年) イギリスのバンドで、フレッド・フリスらを擁しました。「ロック・イン・オポジション(反対派ロック)」運動を提唱し、即興演奏と現代音楽の複雑な構造をロックに持ち込みました。妥協なき前衛姿勢で知られます。

  • Samla Mammas Manna(サムラ・ママス・マナ / 1969年結成) スウェーデンのプログレッシブ・ロックバンドです。ジャズ、現代音楽、北欧民俗音楽を融合させた独特のサウンドで知られ、ユーモラスでありながら高度に実験的な音楽を展開しました。ロック・イン・オポジション運動の重要なメンバーです。

  • Aksak Maboul(アクサク・マブール / 1977年結成) ベルギーのアヴァンギャルド・ロックバンドです。Marc Hollander(マルク・オランデル)を中心に結成され、チェンバー・ロック、ジャズ、民族音楽、実験音楽を自由に横断する独創的なサウンドを追求しました。知的でありながらユーモアも兼ね備えた、ヨーロッパ前衛ロックの代表格です。

  • Univers Zero(1974年結成) ベルギーのチェンバー・ロック(室内楽ロック)バンドです。ストラヴィンスキーやバルトークの影響を色濃く反映した、暗黒的で峻厳なサウンドが特徴です。聴く者に戦慄とカタルシスを与える唯一無二の存在です。

当然の如く、これらの難解な音楽は、ポップミュージックの第一線からは姿を消しました。リスナーも、我慢比べのようなこの種のジャンルは、通常であれば避けることでしょう。しかし、私には、よく知っている馴染みの場所のようなものでした。

19. カモメの城の記憶

最後にもう一つの映画でこの記事を締めくりましょう。この映画は、私が中学の頃、ある不祥事で学校に父兄同伴で呼び出しをくらっていた前日の夜に、もう、この世から逃げ出したいけれど、痛いのや苦しいのは勘弁してほしいなどと逡巡していた時に、現実逃避をして見始めた深夜映画でした。

主人公が美少女系であったのと、私の不祥事とまんざら関係がないわけではないストーリーに引き込まれて、最後まで視聴した後、ようやく安堵と疲労に包まれて眠りについた記憶があります。ストーリーはシュールではなかったですが、主人公の少女の母親が精神病院で亡くなったことや、その少女のヤンデレ系の妄想や追い込みの強さと、その後の急速な展開には、ある意味「残酷な現実こそが一番シュールである」というメッセージが込められていたかもしれません。

映画の名前は、1965年の映画『カモメの城』(原題:Rapture)です。物語は、海辺の古城で父親と二人きりで外界を拒絶して生きる少女パスカル(パトリシア・ゴッジ)と、そこに現れた脱走兵ヴィンセント(ディーン・ストックウェル)の悲劇的な恋を描いたものです。

なお、ディーン・ストックウェルはその後、デヴィッド・リンチ監督作品『ブルーベルベット』(1986年)において、サイコパス的なベン役を演じ、不条理でシュールな演技の代表的存在となります。『カモメの城』での彼の演技は、その萌芽とも見えるのです。

20. カモメの城の表現者たち

  • 監督:セルジュ・ブールギニョン(Serge Bourguignon)

    • 1928年生まれ。アカデミー外国語映画賞を受賞した『シベールの日曜日』で知られます。画家を目指した後に映画界入りした経歴を持ち、映像の詩的な美しさと、社会から孤立した純粋な魂を描くことを得意としました。寡作でありながら、その繊細で耽美的な作風はカルト的な人気を誇ります。

  • 音楽:ジョルジュ・ドルリュー(Georges Delerue) 『まぼろしの市街戦』も担当した、メロディの魔術師です。筆者はこの映画を見た数年後に、バッハの「G線上のアリア」を聴いた際、強烈にこの映画のラストシーン、一度しか聴いていないはずの本作のラスト、崖っぷちで空を見上げるパトリシア・ゴッジの姿を思い出し、てっきり、映画のサントラにバッハが採用されていたのだと思い込みました。

数年前に、本作のDVDを購入し、満を持して視聴したその音楽は、コード進行などがG線上のアリアにそっくりなオマージュ作品でした。これについては、音楽の持つ不思議な力、著作権や版権などに関係なく、作者と視聴者の間に形成される絆のようなものを感じずにはいられません。かつて『去年マリエンバード』でフランシス・セリグの音楽に感じたあの迷宮的な感覚とは対照的に、ドルリューの音楽は、悲劇的な現実に美しい秩序を与えていたのです。

21. 結びの考察

映像と音楽の融合がもたらす衝撃は、時に観客の記憶の中で独自の進化を遂げます。『カモメの城』や『青い恋人たちの詩』が残した、あの「何もない部屋」や「崖っぷちの沈黙」の記憶。それは私たちの脳内で純化され、後に出会う高尚な芸術体験を補完し、時には書き換えてしまうほどの強度を持っています。

一度きりの視聴で植え付けられた、あの放課後の「心地よい置いてきぼり感」こそが、アヴァン・ミュージックと映像が交差する瞬間に生まれる、最も贅沢な芸術体験なのです。

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