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②『「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ』西研(2012・NHK)/ 第1章 ルサンチマンを克服せよ

ツァラトゥストラは30歳の時に山に籠った隠者で、山にいる間に溜まった知識を人々に分け与えるべくちょくちょくと下山しては弟子たちに様々な説教をする・・・・みたいな話らしい。

『ツァラトゥストラ』は聖書のパロディ

文体はルター訳の『新約聖書』に近く、明らかにこれを意識して書いた風。これはニーチェ先生の心のうちに「キリスト教に代わる新しい生き方の書をつくる」という気持ちがあったからなのだそう。

西先生によれば、ニーチェ先生はキリスト教だけを狙って批判していたわけではなく、科学技術の進歩に対する信仰や、民主主義、社会主義、国家主義等ヨーロッパで信じられてきたこれまでの最高価値の全てを否定、こういうもの全部が「キリスト教的なモノ」としてアンチの対象であった、と。
・・・・皆が有難がってるものの全てがキライ的な? 

もしかしたらこれはこれで嫌いかもな。
尾崎先生の歌にはイイネできても、周りにつられてなんとなくヤンキーになるヤンキーはNGな気がする。

また、『ツァラストゥトラ』の副題は「万人のための書だが、誰のためでもない書」というもので、ニーチェ自身、この本の思想はそう簡単にわかるものじゃないぞ、と思っていたようです。

p.16

そうかなあ~~。
ここんとこ、私だったら別の意味にとりたい気がしました。
「キリスト教に代わる新しい生き方の書をつくる」ことが目的だったとしても、ご自分が新たな権威にすげかわってしまったのでは意味がない。周りにつられてなんとなくニーチェを崇めるニーチャーが出現したりしませんように・・・・という思いのこもった副題だったのでは?って気がしました(←自分、原文読んでないくせに笑 でも個人の感想文だからそのまま書いとく)。

『ツァラストゥトラ』は4部構成

主要テーマはふたつ。
①「超人」 前半(第1・2部)
②「永遠回帰」 後半(第3・4部)

人間は、動物と超人の間に張り渡された1本の綱なのだ

第1部「ツァラストゥトラの序説」§4

これは、「人間とは動物から超人に向かう間の存在であり、人間そのものではまだだめで人間を超えていかなければいけない(p.16)」ということなのだそうです。第1・2部では「超人のために没落せよ」という言葉がリフレインされるらしいのですが、これは、「超人にはなれなくても、超人のために超人を用意すべく努力して死んでいけ。自分の後に超人が生み出されればいい」という意味なんですって。
・・・・超人を容易するたの努力ってどんな努力??

後半の「永遠回帰」については・・・・

「万物は永遠に繰り返す。どんな忌まわしい過去もまためぐってくる。君はそんな嫌なことを含んだこの人生を何度でも繰り返すことを欲するか?」。すなわち、自分の人生を究極的に受け入れて肯定できるか、と突き付けてくるのです。

p.16
忌まわしさの程度によります

この後はニーチェ先生の人生を読むパート。
先生の人生を短くまとめると「若くして成功に恵まれたものの挫折」「苦悩の中での執筆」「精神を病んでの死」ということになるのだそうです(悲)

この中に「ヘーゲルへ対抗心を燃やすショーペンハウアー」「ショーペンハウアーに感銘を受けるニーチェ」のエピソードが出てくるのですが、これ、なんとなくですが神経症傾向のスコアの違いなんじゃないかなって印象を受けました。個々の苦悩へのチューニングの違いが「しっくり」のレベルを異ならせてんじゃないか説。
読んでゆくと、西先生はここんところを「実存派」「社会派」分類で解説しておられました。

そもそも人間には「実存派」と「社会派」の二つのタイプがあるようです。自分自身の苦悩と生き方にとことんこだわり、あまり社会のことに関心をもたないタイプの人が実存派ですね。それに対して、もちろん個々人の苦悩は大事だけれど、社会をよくするのが先ではないかと考えるタイプの人がいます。これが社会派です。
不景気や悪法があればみんなが苦しむわけですから、人々の生活の「基本条件」である社会をよくすることが大切だと社会派の人は考えるのです。ヘーゲルの思想は典型的な社会派です。それに対して、ショーペンハウアーやニーチェはまったくの実存派ですね。

p.23

以前書いた童話をGoogle先生にみてもらったことがあるのですが、その時の評が「実存の童話」。今ここでやっと「実存派」の正しい意味を回収することができました。先生ありがとう(遅い)。
『選択的天草四郎ライフのすゝめ』という童話なのですが、なるほど、たしかに、あれは実存派の童話でした。西先生分類でいけば私も実存派ってことになるのやもしれません。面白いねえ。

ルサンチマン=無力からする意志の歯ぎしり

ルサンチマンとは、うらみ・ねたみ・そねみ。

そうだった。これこそ意志の歯ぎしりであり、、もっとも孤独な悲哀である。すでになされたことに対する無力ーー意志はすべての過ぎ去ったものに対して怒れる傍観者である。

『ツァラトゥストラ』第二部「救済」の節

こうして意志は、憤懣と不興からさまざまな石を転がして、自分ほど憤懣と不興を感じていないものに復習する。

たぶん同上

西先生の解説。
「たら・れば」も一種のルサンチマンで、ルサンチマンの根っこにあるのは「自分の苦しみをどうすることもできない無力感(p.35)」。絶対に認めたくないけれど、どうするこもできないという「怒りの歯ぎしり」を何かにぶつけることによって紛らわそうとする心の動きが「ルサンチマン」なのだそう。

ルサンチマンがなぜ問題か
①「自分を腐らせてしまう」から
②「主体的に生きる力を失わせてしまう」から

ルサンチマンがキリスト教を生んだ

ニーチェはさらに、ルサンチマンこそがキリスト教ーーすなわちヨーロッパの文化のすべての基礎となっている「神」ーーを生み出したと考えています。

p.36

こういった思想が、これまでの価値を根底的に転換せねばならないという「価値転換」の主張へとつながってゆく、と。おおっ。

神様・天国 人間が苦悩から逃れるために創り出した幻想
神様 弱者のうらみ・ねたみ・そねみから生まれた(概念の中でのマウント)

「道徳における奴隷一揆は、ルサンチマンそのものが創造的になり、価値を生み出すようになったときはじめて起こる(by.ニーチェ)」(p.37)

神を用いることによって現実の評価(ユダヤ人と支配者の立場)をひっくり返し、心理的な復讐・マウントの実現を果たすというのは、→「自分が気持ちよくなって自己肯定するのではなく(貴族的価値評価法)、強い他者を否定することで自己肯定する行為(僧侶的価値評価法)」。p.40

「みじめで卑しく力なく貧しい者のみが良い者である」という解釈をふりかざすことが「=道徳における奴隷一揆」ということみたいです。

だけどニーチェ先生はキリスト教の功績(シェルターとしての価値)は認めていて、全否定しているわけじゃないのだそうです。
ニーチェ先生は窮屈だけど安全だった古いシェルターを飛び出して、次のステージ(創造)に羽を広げてみたかったんじゃないでしょか。
こういうと失礼かもですが、なんだか子供の成長、独り立ちの過程のよう。


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