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ビールの匂い

バスのドアが開いて、初老の男性が乗ってきた。
座席は埋まっていたので、私のすぐ近くに立った。
歩き回ってきたのか、少し汗ばんだおでこをハンカチで拭いている。
そのとき、なにか懐かしい匂いが鼻についた。
“ついた”と書いたのは、それが決していい香りではないからだ。

「息子をもった父親は、
一緒に酒を飲むのが夢なんだ。
それをお前は壊した」
まだ十代、法律的には飲めない年齢の私にビールを勧めた父。
「頭が痛くなる」
と一杯だけで断ったときに、父は残念そうに私に言った。
「うまそうに飲むんだけどなぁ…」
と未練たっぷりに、ビールを自分のコップに注いだ。

父は、白飯を食べながら「お茶みたいなもんだ」とビールをのどに流し込んでいた。
和菓子を食べながらでもビールを飲むのだから、たしかにお茶扱いだったのだろう。
対して母の系統は下戸だ。
母方の血を引いたのだろうと思っていた。

学生時代、飲み会に参加しないというのは楽しみをひとつ失うことに等しい。
ある飲み会で友人に日本酒を勧められた。
そこへたまたま隣に座った友人が、
「これ旨いんだよ、辛口で。少し飲まない?」
と勧めてきた。
普段なら断るのだが、その日は気分が良かったのか、あまっていたお猪口を受け取り飲み始めた。
弱い、好まないと思っていた酒がうまく感じ、飲み続けることができただけでなく、酔わなかった。

それから何度か試した。
結局頭が痛くなるのはビールだけだったのだ。
一方で父は酒に強かったが、日本酒、焼酎を好まなかった。
好み、体質が合わず、家飲み派の父と外でしか酒を飲まない息子。
グラスとおちょこを合わせる機会は訪れなかった。
冬でも冷えたビールを好んだ父は、1月のある日、瓶ビールをぶら下げて帰ってきた。
栓を空けて飲み始めたが、途中で息苦しそうな仕草を見せて、飲むのをやめてしまった。
ビールを1本飲み切らない父を見たのは初めてだった。


そしてそれが最後のビールになった。

日差しの強い夏の休日、父は自宅の屋根に寝そべり、肌を焼き、汗を流すのを好んだ。
もちろん部屋に戻ってきたらビールである。
野球場でもよく飲んでいた。
神宮の外野寄りの内野席の最上部、風が少し抜ける席でやじることもなく、静かに飲んでいた。
春や秋は母を連れて広い公園へ行き、花を見ながら飲んでいた。
一杯目は一気に飲み、二杯目は自分のペースで口に運ぶ。
グラスに注がれたビールを飲む姿が浮かぶのだが、同時に思い出されるのが匂いだ。

汗をかいた父からは、少しビールの匂いを感じた。
子供の頃、肩車をしてもらったときに、髪から感じた「香り」ではない「匂い」。
嫌ではなかった。

横に立っている男性は、ふたつ先の停留所で席が空き、離れたところに座った。

「寒い冬にな、
それはそれで旨いんだけど、
やっぱりビールは夏だ。
一杯目はとくに最高だ」 。
命日ではないが、ビールを買って墓参りに行ってみた。
汗をかいた缶を墓前に置く。
父のビールは減ることはない。
代わりに少しビールに慣れて、一杯でふらつくことがない私が、缶ビールを減らしていく。
一気に飲まずゆっくりと苦みを味わいながら、言葉のない会話を楽しむのがいい。
ビールを飲み干して、空の缶を墓前に置いて、帰るためにバス停へ向かった。


バスに乗ると前に座って、顔を出している子供が少し嫌な顔をした。
私からも父と同じ匂いがしたのだろう。
「君もいずれは飲むようになるよ、
きっと」
そんな心のつぶやきを感じたのか、子供は隣に座る父に抱きついた。


父との思い出エッセイ集【物語的起承転結版・最新版】

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他のエッセイは、

紘野涼のフリーハンド紹介 

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