僕が「若いお兄さん」と呼ばれなくなったとき
「若いお兄さんと腕を組むことができて、今日は元気に過ごせそう」
お店に来たご高齢の女性に腕を掴まれて、そう言われた。僕はいつまで「若いお兄さん」と呼んでもらえるのだろう。褒め言葉を受け取る裏で、自分の2人称がどこか濁って見えてきた。
そもそもに腕を組まれたのは仕方なくだった。娘さんが車を入り口まで回してくるそのわずか1分足らずの間、身体を支える柱の代わりにされただけだ。
細いけれど温度のある指が僕の腕を必死に掴む。
それは愛情による必死さというよりは、ただ転倒しないための安全確保の必死さと言った方が正しい。
しかしそういえば、誰かにこんなに必死に腕を掴まれるのはいつぶりだろう。
もしこの瞬間に地震が起きたとしても、僕はせめて柱としての役目だけは全うしたい。
「若いお兄さん」には、もしかすると柱の役目をやり遂げた僕に対するお礼の意味もあったのかもしれない。
「あなたをただの柱代わりと思ってるわけじゃないのよ」という、それを伝えるための代名詞が「若いお兄さん」だっただけの可能性もある。
「若い」というのも、どこまでが社交辞令だろう。その方から見れば僕は確かに若いのかもしれないけれど、もしも僕が60歳だったとしてもその方よりも若くなる。それでも「若いお兄さん」だろうか。いやこれは無理がある気がする。
それでも躊躇うことなく僕に対して「お兄さん」という言葉を使ったということは、僕はまだその呼び名を送るに値する範囲には一応のところいるのかもしれない。
僕の今の年齢だと、もうとっくに「お兄さん」という範囲は抜けてしまっている計算だ。どちらかというと「お兄さん」よりも「おじさん」の仲間入りをしている。
けれどこの記事を書いている時点では、今のところ「おじさん」と呼ばれた経験は一度もない。
なんとか崖っぷち。若草が生い茂る楽園の崖に立って、下を覗けば枯れ草の揺れる人生第二の生きる場所が用意されている。
誰かに「おじさん」と声をかけられながら背中をぽんっと押されたら、僕はたちまち崖を転がり落ちていくだろう。
そんなギリギリの場所に立ちながら、僕はなんとか「お兄さん」でいさせてもらっている。
「ほら、お兄さんの方をちゃんと向いて」
別のある日のこと、子どものメガネを買いにお店にやってきたお母さんが、まだ幼い我が子に対してそう言った。
おそらく僕と同年代くらいであろうお母さんが僕を「お兄さん」と呼んだのは、本当に「お兄さん」に見えたのか、もしくは気を使って無難な呼び方を選んだのか、それとも僕を「おじさん」と呼んでしまうと自分も「おばさん」に自動的になってしまうのを回避するためなのか、その答えは僕にはわからない。
いつか僕にもやってくるだろう「お兄さん」の使用期限が切れたとき、僕はなんて呼ばれるだろう。
メガネ屋にいる限りは、「店員さん」と呼ばれるのかもしれない。相手がどのパターンでも当たり障りのない、この上なく無難な呼び方で。
それは裏を返せば、「店員さん」の割合に反比例して、「お兄さん」ではなくなっているということだろう。
いつしか「店員さん」が10割になったとき、僕は枯葉の揺れる人生第二の生きる場所に立っている。
それまでせめて、限りある「お兄さん」を噛み締めていきたい。
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路上にチップもらう用のシルクハットを置いてパントマイムするの、実はやってみたかったんです