空の覇権をめぐる17年(3)—赤道直下 マレーシアでの体験
1995年、私はクアラルンプールへの赴任命令を受けました。
ミッションは、マレーシア全土に工場を持つ日本企業や、日本に商品を送っている米国企業への営業。
●AIOブランドのPC全盛を誇るソ●ー、現地に深く根を下ろした●●ソニック、ペナンの工場で受注生産を始めた■■LLなどなど。
アジアの製造業が最も熱を帯びていた時代の、その現場に私はいました。
同じ頃、ワシントンでは日米航空交渉が大詰めを迎えていた。
1998年1月に結ばれた歴史的な合意「98MOU」は、フェデックスに「米国貨物航空会社として唯一、無制限の以遠権」をもたらすことになる。
その結果は確かに、私たちの仕事を変えていったのでした。
前編に続き、現場の目で見た17年間の後半を綴ります。前編をまだお読みでない方は、こちら↓からどうぞ。
第4章|「こんな話あるけど、どうだ?」——マレーシアへの赴任
フライング・タイガーとの合併が進む中で、私の周囲に新しい風が吹き込んできました。
フライング・タイガーには、もともとアメリカ各地に日本人の駐在員が配置されていました。
合併とともにその組織も姿を変え、アメリカに残る人、日本に戻る人——それぞれが新しい選択を迫られていました。
そういった人たちと話す機会が自然と増え、海外で働くということの実感が、少しずつ身近なものになっていきました。
ちょうどその頃、フライング・タイガー買収で得た路線権を最大限に活かすための大きな構想が動き始めていました。
"AsiaOne"
「アジア・ワン」
アジア域内のすべての主要都市を翌日配達のネットワークで結ぶという、フェデックスのアジア戦略の集大成です。その準備が着々と進む中、東南アジアでの営業活動が必要になってきました。
営業現場でも、会社のプライオリティがハッキリと「アジア」へとシフトしていくのを、ひしひしと感じ始めました。
アジア向けの貨物がどれだけ獲得できたのか?が大きく営業マンの評価に影響し始めたのもこの時期だったと思います。
そしてある日、声がかかりました。
「こんな話あるけど、どうだ?」
その一言が、私のクアラルンプール行きの始まりでした。
私は迷うことなく「是非!」と答えました。
クアラルンプール前夜—お腹と心の慣らし運転
正式な赴任の前に、私は何度かクアラルンプールへ出張で訪れました。
ビザの手続き、住まい探し——準備のための往来です。
最初は不安だらけでした。
そして現地は、その不安を正直に体で表現してくれました。
とにかく何を食べてもお腹を壊す、それもひどく…という洗礼です。
食事のたびにひどい腹痛に襲われ「大丈夫か、自分の体は…」という気持ちが頭をよぎりました。
それでも救われたのは、現地のメンバーたちの存在でした。
朗らかで、親日的で、初めて会う日本人の私に対しても、自然に友好関係を築こうとしてくれる。昼も夜も行動を共にする時間が増えるにつれ、気がつけば少しずつ、現地の空気に溶け込んでいる自分がいました。
溶け込んだその証拠が、「エコノミーライス」です。
マレーシアに限らず、東南アジアでは当たり前のランチスタイルで、ブッフェ形式で好きなおかずをあれこれと選び、パラパラとしたライスの上に乗せてもらう。これに温かい豆乳を合わせるのが、私の定番になりました。
現地のメンバーと肩を並べてそれを食べることが当たり前になったころには、体もすっかり現地に馴染んでいました。

面白いことに、体の中では逆転現象が起きるようになります。
出張から東京に帰ると、今度は体の調子が悪くなるのです。正露丸が全く効かない…気候も食事も水も、すっかりクアラルンプール仕様になっていたのでしょう。
体が「ここが自分の場所だ」と認めたとき、本当の意味での赴任が始まったような気がします。
第5章|AsiaOne戦略の現場で—クアラルンプール1995〜1998
特命の中身
1995年から1998年にかけての3年間、私はクアラルンプールに駐在しました。
ミッションは明快でした。
マレーシア全土に製造拠点を広げていた日本企業への営業です。
日本から運ばれる部品をマレーシアの工場へ届け、そこで製造された製品を日本をはじめ世界各地へ発送する——その貨物フローを丸ごとフェデックスで獲得することが、私に与えられた仕事でした。
当時のマレーシアは、アジアの製造業地図の中心にありました。
日本の大手メーカーが大ヒットしたPC製品を全盛期に送り出していた頃、その生産ラインを支える様々な部品が日本や他のアジアの工場から、最終製品に組み上げるためにマレーシアへと渡っていました。
アメリカの新進気鋭のコンピューターメーカーがダイレクトモデルで業界に参入し、顧客がオーダーメイドのパソコンを注文すると、ペナンの工場で組み立てて日本の顧客に直送するという、当時としては革新的なグローバルサプライチェーンも動き始めていました。
まさにアジアの「モノづくりの血脈」が、日本とマレーシアの間を行き来していた時代です。
70ポンドを超えた先の世界
着任した当時のマレーシアのフェデックスは、クアラルンプールとペナンの2拠点でした。ただ、その設備を見ると、会社が変わろうとしている過渡期であることが良くわかりました。
ワンボックス型の配送車、流れてくる小型荷物を人が手で横に押しながら動かすローラー式のコンベア、貴重品保管用の3畳ほどの小さなスペース——すべてが「70ポンド以下のスモールパッケージを素早く、丁寧に扱う」ための専用設備でした。

一般航空貨物を扱うような大型の機材や広い保管スペースはまだ整っておらず、フォワーダー出身の営業マンの採用も始まったばかり。
フェデックスがスモールパッケージ専門の会社から総合的な航空貨物会社へと脱皮しようとしているトランスフォーメーションは、まだ始まったばかりという印象でした。
しかし、その変化の芽は、じわじわと確実に動き始めていました。
ペナンに夜明けをもたらした貨物機
私が顧客に対して最も強く打ち出せたセールスポイント、それはシンプルでした。「どんな大型貨物でも、翌朝一番に届く」という一点です。
ペナン島はマレー半島北西部に浮かぶ小さな島です。
「東洋の真珠」と称されるマレーシア屈指の美しいリゾートアイランドです。マレー、中国、インド、ヨーロッパの文化が融合しており、世界遺産に登録されたジョージタウンでの異国情緒あふれる街歩きや、美味しいストリートフード、北部ビーチでのリゾートステイを同時に楽しむことができます。

観光地として名高いこの地に、多くのハイテク産業が工場を持っていました。なぜか?
1995年当時、ペナンに多くの工場が集まっていた背景には、マレーシア政府の積極的な外資誘致政策と、電機・電子産業の集積がありました。
1970年代にインテルなどの海外企業が進出して以降、部品調達、製造、検査、包装までを地域内で行える産業基盤が整備されました。
さらに、税制優遇、英語を使える人材、技術者、国際空港や港湾などの物流インフラも充実しており、ペナンはアジア有数の電子機器生産拠点として発展していました。
当時の競合他社の空輸サービスは旅客機のベリー(貨物室)に混載されて運ぶものでした。
観光客が乗る旅客機は通常、昼間に飛ぶ。
日本からペナンへ航空輸送するとなれば、シンガポールかクアラルンプールで乗り継ぎが発生し、到着は早くて翌日の昼すぎ、条件次第では翌々日になることも珍しくありませんでした。

最優先である乗客の手荷物が多いと載せられず、次の便に回される可能性もある
フェデックスは違いました。
フィリピンのスービックベイのハブで夜中に日本からの貨物を接続し、夜明けとともにペナン空港へ直接降り立つ。
空港からそのまま工場へ運ばれる頃には、日本の工場が前日の夜に送り出した部品が、翌朝の生産ラインに間に合っている——この1日から2日の差が、製造業の現場では決定的な意味を持ちました。

「他社にはまねができない」と言い切れる強みは、自社機ネットワークがあってはじめて生まれるものでした。

競合他社がクアラルンプール行きの案件では、価格とスペースの確保でフェデックスに対抗してきたのに対し、ペナン行きに関しては「フェデックスには勝てない」というくらい独壇場でした。

【コラム⑤】AsiaOneとスービックベイ
フェデックスがアジアのハブとして選んだのは、フィリピン・マニラ近郊の「スービックベイ(Subic Bay)」でした。かつてアメリカ海軍の最大級のアジア基地として知られたこの地が、1992年の米軍撤退後に民間国際空港として転換されたのです。

滑走路は軍用規格で長大、広大な敷地に空港施設が整っている、フィリピン政府が外国企業誘致に積極的でリベラルな航空権益政策をとっていた——これらの条件が重なり、フェデックスはアジア太平洋ハブの設置地としてスービックベイを選択しました。
1995年9月のAsiaOne開始時、スービックベイのソーティング施設は週160便のアジア域内貨物便を処理。東京・大阪・ソウル・香港・クアラルンプール・シンガポールなど14都市を一夜で結ぶネットワークの中枢として機能しました。
日本人が行くと、支社長が出てくる
ところで、営業の現場でもう一つ大きな武器がありました。
それは私が「日本人」であることです。
マレーシアに製造拠点を持つ日本企業の多くは、その経営中枢を日本から赴任した駐在員が担っていました。
現地の営業マンが訪問すると、物流担当のマネージャーに会うのがやっとです。ところが私が同行すると、支社長や工場長が笑顔で迎えてくれる。
この違いは、現地の営業スタッフたちが最も喜んでいたポイントでした。

日本人駐在員同士のコミュニティも機能していました。
昼の商談だけでなく、夜の社交場、グリーン上の戯れも含めて、日常を共にする中で育まれる信頼関係は、ビジネスの成否に直接影響しました。
「モノを売る前に、人を売る」——日本的な営業文化が、マレーシアでも通用することを実感した3年間でした。
クアラルンプールの夜—宗教警察と、真夏の果実
そして、こんなこともありました。
赴任中の3年間で印象に残っていることは、数え切れないほどあります。
その中から一番印象に残っているハナシは…
ある夜の、胸をなでおろした話。
マレーシアはイスラム教の教えが厳格な国です。
ビジネスの現場では日本人の駐在員や華僑(中国系マレーシア人)と接することが多く、日常の仕事の中でそれを強く意識することはあまりありませんでした。しかし一度だけ、忘れられない場面に遭遇しました。
日本人の顧客とクアラルンプール郊外のカラオケボックスで楽しんでいたときのことです。
突然、店内の電気が一斉に点灯しました。
ドカドカドカッ!
カラオケボックス店の廊下に物々しい足音が響きます。
どうやら隣の部屋で、マレー人の若い男女がお酒を飲みながらパーティーをしていたようでした。
イスラム教において飲酒はハラーム——厳しく禁じられた行為として、罰金や禁固刑に処せられる可能性もあるようです。
入ってきた宗教警察と思しき人たちに次々と連れ出される若者たちを見て、私たちは全員で胸をなでおろしました。
もし私たちも同じ部屋にいたら、同罪でした。

異文化の中で生きるということは、こういう緊張感と隣り合わせでもあると、改めて実感した夜でした。
そして、「真夏の果実」の夜。
マレーシアでの人との出会いは、ゴルフとカラオケが大きな橋渡しになりました。日本人駐在員のお父さんたちとのゴルフやカラオケは何より楽しく、一方で華僑の友人たちとの交流も、思いがけない形で深まっていきました。
全体的に親日的な雰囲気の中で、華僑の人々は日本の歌をよく知っていました。
サザンオールスターズなどは現地の歌手がカバーしていることもあり、多くの人が知っている曲がたくさんありました。
赴任中のある時、アジア太平洋地区の成績優秀な営業マンを集めたご褒美旅行に参加するチャンスをもらいました。場所はオーストラリアのパース。
その会場で毎回恒例で開かれる大カラオケコンテスト。各国のエンタメ力の強いメンバーが、それぞれの国を代表して、歌や踊り、寸劇や民族舞踊などを披露します。参加者はみな思い思いの衣装で舞台に立ち、コンペティションに臨みます。
私はその年は日本チームには入らず、現地マレーシアの営業マンとデュエットに挑みました。曲はサザンオールスターズの「真夏の果実」——香港の大スター、ジャッキー・チュン(張學友)が「每天愛你多一些」としてカバーし、アジア中で愛されていた曲です。
彼は日本語で、私は中国語で——互いの言葉で歌い合うデュエットは、アジア各国からのコンテスト参加者たちをしのぎ、見事優勝しました。
No Boundaries(限界を作らない)という、その年のスローガンを体現したのも審査員たちに高く評価されました。

言葉も国籍も違う二人が、一つの歌で繋がる。
あの夜の高揚感は、アジアという場所でしか生まれなかったものだと、今でも思います。
別れの日—涙とウサギ小屋
今思えば、3年間はあっという間でした。
最初は心も体も現地の生活に慣れず、日中の暑さにやられ、仕事のストレスもたまり…と、ペースをつかむのに苦労しました。
ただ、マレーシアでの生活は、慣れれば本当に心地よいものでした。もともと順応性が高く、どこでも生きていけるタイプではあるので、あまり参考にはならないかもしれませんが、もしできるなら、もう一度暮らしてみたいと思っています。
まず、暮らしの面でも、日本とは別世界でした。
東京のウサギ小屋のような自宅と比べると、クアラルンプールではプールとジムを併設した広くてきれいなコンドミニアムに住んでいました。
日本企業の駐在員が住むエリアとは少し離れた場所でしたが、ここでも新しい発見の連続でした。買い物も近くに大きなスーパーがあったり、日本人学校のバスも周遊していたり、病院も大きくて立派な総合病院があったりで、生活する上での不安はあまり感じませんでした。
空間の豊かさや流れる時間の緩やかさが、生活のリズムそのものをゆったりとさせてくれる——そんな3年間でもありました。

マレーシアでの楽しかった赴任を終え、クアラルンプールを去る日、私はとても寂しい気持ちでいました。
見送りに来てくれた現地の営業チームのメンバーたちの中には、涙を流して悲しんでくれる者もいました。短い期間でしたが、これほど充実した時間はなかなかないと、改めて思ったものです。
帰国後しばらくは、ふとした瞬間にクアラルンプールの空気が恋しくなりました。エコノミーライスと温かい豆乳の朝、プールサイドの夕暮れ、そして涙で見送ってくれた仲間たちの顔。
あの3年間は、私の人生の中でも、特別に輝いていた時間のひとつです。
その話は、note連載「選び続けた35年」の第4章以降で綴っています。
フェデックスで積み上げた17年間が、ディズニーでどう生きたのか——よろしければ、本編もお読みいただけると嬉しいです。
→「選び続けた35年」はこちら
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