空の覇権をめぐる17年(2)—買収した側が、肩身の狭い思いをした話
第3章|フライング・タイガーとの合流
1988年6月、私はフェデラルエクスプレス ジャパンに入社しました。
1988年12月16日、フェデラルエクスプレスは、米国の貨物航空会社、フライング・タイガー・ライン(通称フライング・タイガース)買収の公開買付けを発表しました。
本社からの一斉メールで知らせが届き、間もなくニュースが業界を駆け巡ります。買収額は8億8000万ドル。フェデックスはフライング・タイガー・ラインの39機の機材と6500名の従業員を引き継ぎ、日本を含む21の国・地域への路線権を一気に手にしました。
私たち現場の人間にとって、この報せは「楽しみ半分、心配半分」でした。
フライング・タイガー・ラインは、航空貨物業界における伝説的な存在でした。第二次世界大戦で名を馳せた「フライング・タイガース」戦闘隊の元パイロットたちが1945年に創設した、アメリカ初の定期航空貨物会社。その後40年以上にわたり、ジャンボジェットの貨物スペースをめぐって世界の大荷主と丁々発止の取引を繰り広げてきた、まさに「泣く子も黙る猛者軍団」でした。
一方の私たちフェデラルエクスプレスは、スモールパッケージをドア・トゥ・ドアで届けることを生業とする、相対的に若い会社です。扱う荷物の量も金額も、何より業界での歴史の重みが、まるで違う。
「自分たちより大きくて歴史のある会社を、本社が買収してしまった」という事実を、私たちはどこか信じ切れないまま受け止めていました。

一夜にしてフェデラル・エクスプレスへ届けます」
世界を飛び続けた40年の経験が、 一夜にしてフェデラル・エクスプレスの力になる。
実際のポスタービジュアル
合併が正式に完了した1989年8月7日以降、日本では両社の営業部員同士の顔合わせが始まります。
フライング・タイガー・ラインの日本オフィスは、赤坂にありました。初めて訪ねたとき、その佇まいに圧倒されました。外資系企業の日本オフィスとしての歴史と風格が空間の隅々にまで染み込んでいて、ドアを開けた瞬間、独特のアメリカの匂いさえするような重厚な存在感がありました。当時の私たちのオフィスとは、比べるべくもありません。

(画像はイメージです)
何度かのミーティングを重ねながら、徐々に距離を詰めていく。
先方はジャンボジェットの貨物スペースをキッタハッタで売り買いする大御所役者たち。扱う物量や動くお金もケタ違いにデカい。
こちらはスモールパッケージをチマチマと売る駆け出しの若造たち
こいつらに何が分かるんだ?—相手方からはそう見えていたことでしょう。

昔の航空貨物の世界
※あくまでも個人の感想です^^
買収した側であるはずのフェデラルエクスプレスのメンバーが、どことなく肩身の狭い思いをしていたのは、おそらく私だけではありませんでした。
それでも、この「格差」は一つの好機でもありました。
フライング・タイガー・ラインの日本オフィスのメンバーは、航空貨物業界の大先輩にあたる人たちばかりです。昼も夜もくっついて歩き、業界の肌感覚を学ばせてもらおうと、若い私たちは必死でした。夜の赤坂の街に繰り出しては、先輩たちの武勇伝に耳を傾け、杯を重ねた夜が、いくつも記憶に残っています。

(画像はイメージです)
マニュアルと数字——フェデックスという組織のDNA
合併が進む中で、私自身も営業部内でさまざまな部門を経験していきました。グローバルアカウントを担当する部門、そして日本で初めてのコントラクトロジスティクス部門の立ち上げ——新しい仕事が次々と目の前に現れました。
そうした経験の中で「これがフェデックスという会社だ」と最も強く感じたのは、セールストレーニングでした。
フェデックスは、営業担当者への研修が際立って充実している会社です。
製品知識から顧客対応、クロージングの技法まで、徹底的にマニュアル化・体系化された研修プログラムが用意されていました。研修を終えた営業マンたちは、サイボーグのように「エイギョーマン」化していました。

サイボーグのように育て上げられたセールスマシーン
当然、合併したフライング・タイガーのベテラン営業部員たちも、当然ながらこの研修を受けることになります。
しかしここで、文化の衝突が起きました。

さながらサイボーグ「エイギョーマン」養成所(画像はイメージです)
もともと航空会社の営業と、インテグレーターの営業とでは、仕事の性質がまるで異なります。
フライング・タイガー出身の先輩方は、ジャンボジェット一機分の貨物スペースを大荷主を扱う大手代理店と直接交渉する世界で生きてきた人たちです。その彼らに、スモールパッケージとは何か、ドア・トゥ・ドアサービスの価値とは何か——そういった研修が始まるわけです。
さらにフェデックスは、何でもマニュアル化し数値化することを得意とする会社でした。
営業マンの効率管理のために、一日何件訪問したか、その結果どれだけの契約につながったかを、毎日システムに入力することが求められます。こうした管理の仕組みは、それまでのフライング・タイガーには存在しなかったものでした。
反応は、人によって二つに分かれました。

フェデックス流のトレーニングを受ける
(画像はイメージです)
新しい環境にすぐに馴染み、「大変だけど対応しよう」と前向きに取り組む人。そして「そんなことやってられるか、俺はそんなことをやるためにタイガーに入ったわけじゃない」と反発する人。
当時まだペーペーの営業マンだった私には、「そりゃそうだろうな」と同情することしかできませんでしたが、その狭間で板挟みになっていた営業マネージャーたちの苦労は、想像するに余りあります。
組織の統合とは、制度や仕組みを一つにすることではない。
働く人間の「自分は何者か」という感覚を、どう新しい文化の中に着地させるか——そのことを、私はこの時期に肌で学んでいたのだと思います。
なお、ちょうどその頃、日本法人ではある国内輸送会社との統合も並行して進んでいました。本社が立て続けに買収を重ねる中で、ローカルオフィスの私たちは新しい波が次々と押し寄せてくる感覚の中に置かれていました。
歴史の中にいる人間は、歴史を意識しない
ここで正直に書いておきたいことがあります。
96MOUにせよ、インカンベント、ノン・インカンベントの区別にせよ、当時の現場の営業マンたちがそれを「理由」として明確に意識していたかというと、そうではありませんでした。
日米航空交渉は、官僚や外交官が交渉の席で積み上げていくものです。その結果は確かに現場のルールに影響を与えていましたが、私たちの目の前にあったのは「制度」ではなく、「今月の数字」と「目の前の顧客」でした。
社内のルールは、交渉の結果を反映しながら、気がつけば変わっている。それに気づいたとき、「ああ、また変わったか」と思いながら、新しいルールの中でなんとか抜け道を探す。それが現場の日常でした。
大きな歴史は、現場にいる人間には見えにくい。あとから振り返って初めて、「あの変化はあの交渉の結果だったのか」とつながることが多い。この記事を書きながら、改めてそのことを実感しています。
歴史の真っただ中にいる人間は、歴史を歴史として意識しながら生きているわけではない——そのことを、正直に書き留めておきたいと思います。
コントラクト・ロジスティクス——「運ぶ会社」からの脱皮
今でこそ「コントラクト・ロジスティクス(CL)」や「サードパーティー・ロジスティクス(3PL)」という言葉は物流業界の常識ですが、当時の日本ではまだほとんど知られていない概念でした。一言で言えば、クライアントの倉庫管理や船積み業務を、運送会社が丸ごと引き受けるBPO(業務プロセスのアウトソーシング)の先駆けです。
アメリカではすでにフェデックス独自のハブ&スポーク網を活かした形で動いていました。たとえばメンフィスのハブ空港に在庫を置いておき、注文が入ったらそこから直接発送する。ピック・パック・シップ——商品を棚から取り出し、梱包し、発送するという一連の作業をすべてフェデックスの社員が代行する。「夜中の12時までに注文してくれれば、翌日午前10時半までに全米どこへでも届けます」という、当時としては革命的なサービスが実現していました。

メンフィスのハブで在庫保管することで、緊急パーツの翌朝配達を実現していた。
(実際の米国での広告記事)
別のモデルもありました。全国に複数の倉庫を抱える企業が、その在庫管理業務の一切をフェデックスに委託する。それによって自社の倉庫を手放し、身軽になった分のリソースを本業に集中させる——いわば「物流という悩みごとをまるごと預けることで、経営の選択と集中を実現する」という仕組みです。
対象となる顧客は、半導体メーカー、自動車部品メーカー、医療機器メーカーなどが中心でした。いずれも在庫の動きが速く、納期への要求水準が高い業種です。

この部門が体現していたのは、フェデックスの営業戦略の本質でした。「ただ運ぶだけ」の会社は、価格競争から逃れられない。しかし顧客の業務の中枢に入り込み、なくてはならない存在になれば、簡単には乗り換えられない。付加価値でガッチリと顧客を囲い込む——この発想は、私のその後の営業人生においても、一つの羅針盤であり続けました。
【コラム④】MOUとは——外交における「覚書」の意味
「MOU(Memorandum of Understanding)」とは、二国間の政府・機関が合意内容を記録した「覚書」のことです。正式な条約とは異なり、より柔軟な形で合意内容を文書化できるため、航空交渉のような複雑な権益調整の場でよく使われます。
日米航空交渉の文脈では、1984年の「84MOU」(日本貨物航空の米国乗り入れ合意)、1996年の「96MOU」(貨物便権益の大幅拡大)、そして1998年の「98MOU」(抜本的な不平等是正)と、節目ごとにMOUが結ばれてきました。航空業界の関係者にとって、これらのMOUは「時代を区切るマイルストーン」として記憶されています。
この続きは、「空の権利をめぐる17年(3)—マレーシアの空の下で、歴史が動いた」で!
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