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【六十八歩目】史記が記す老子。


 今日は司馬遷の『史記』に記されている老子の列伝を。だいぶ老子について書いてきましたが、思想書としての『老子道徳経』はありますが、老子の人物像がわかるような記録はほとんとありません。そのなかで、一番例示されやすいのが司馬遷の『史記』にある老子の列伝です。


1.『史記』《老子韓非列傳》。


司馬遷(紀元前145~紀元前87)

❝老子者,楚苦縣厲鄉曲仁里人也,姓李氏,名耳,字耼,周守藏室之史也。
孔子適周,將問禮於老子。
老子曰「子所言者,其人與骨皆已朽矣,獨其言在耳。且君子得其時則駕,不得其時則蓬累而行。吾聞之,良賈深藏若虛,君子盛德容貌若愚。去子之驕氣與多欲,態色與淫志,是皆無益於子之身。吾所以告子,若是而已。」
孔子去,謂弟子曰「鳥,吾知其能飛。魚,吾知其能游;獸,吾知其能走。走者可以為罔,游者可以為綸,飛者可以為矰。至於龍,吾不能知其乘風雲而上天。吾今日見老子,其猶龍邪.。」
老子修道德,其學以自隱無名為務。居周久之,見周之衰,乃遂去。
至關,關令尹喜曰「子將隱矣,彊為我著書。」於是老子乃著書上下篇,言道德之意五千餘言而去,莫知其所終。」
或曰老萊子亦楚人也,著書十五篇,言道家之用,與孔子同時云。
蓋老子百有六十餘歲,或言二百餘歲,以其修道而養壽也。
自孔子死之後百二十九年,而史記周太史儋見秦獻公曰「始秦與周合,合五百歲而離,離七十歲而霸王者出焉。」
或曰儋即老子,或曰非也,世莫知其然否。老子,隱君子也。
老子之子名宗,宗為魏將,封於段干。宗子注,注子宮,宮玄孫假,假仕於漢孝文帝。而假之子解為膠西王卬太傅,因家于齊焉。
世之學老子者則絀儒學,儒學亦絀老子。「道不同不相為謀」,豈謂是邪。李耳無為自化,清靜自正。❞

➙ 老子は、楚の国の苦県、厲郷の曲仁里の人である。姓は李、名は耳、字は聃(たん)。周の王室で図書・記録を管理する蔵書室の役人であった。

 孔子が周へ行き、老子に「礼」について教えを請おうとした。
 老子はこう言った。
 「あなたが語る古の聖人たち言葉は、その人自身も骨もすでに朽ち果てており、ただ言葉だけが残っているに過ぎない。また、君子というものは、時運に恵まれれば車に乗って活躍するが、時に恵まれなければ、風に吹かれる蓬(よもぎ)のようにあちこちさすらって歩くものだ。
 私が聞くところでは、優れた商人は貴重な品を隠し持っていて店先は空っぽに見えるという。また、徳の高い君子は、その容貌は一見すると愚か者のように見えるともいう。
 あなたのその驕りや多すぎる欲望、もっともらしい顔つきや分不相応な野心を捨てなさい。それらはすべて、あなた自身にとって何の役にも立たない。私があなたに告げることができるのは、これだけだね」と。

孔子は立ち去り、弟子たちにこう語った。
 「鳥が飛べることは知っている。魚が泳げることも知っている。獣が走れることも知っている。走るものは網で捕らえることができ、泳ぐものは糸で釣ることができ、飛ぶものは矢で射ることができる。しかし、龍だけは私にはわからない。どうやって風雲に乗って天に昇るのか。私は今日、老子に会ったが、彼はまさに龍のような人物であった。」


 老子は「道」と「徳」を修め、その学問はみずからを隠して名声を得ないことを本分とした。周の国に長く住んでいたが、周が衰退していくのを見て、ついに去ることにした。
関所(函谷関)にたどり着くと、関守の尹喜(いんき)が言った。
「先生は隠居なされようとしています。どうか私のために本を書いてください」
そこで老子は上下二巻の書を書き、道と徳の真意を五千余語で述べて去っていった。その最後がどうなったのかを知る者はいない。

 ある人は「老萊子(ろうらいし)もまた楚の人で、十五篇の書を著し、道家の活用を説いて孔子と同時代の人だった」と言う。
 また、老子は百六十余歳まで生きたと言われ、あるいは二百余歳だったとも言われる。それは彼が道を修めて長寿を保ったからである。

 孔子の死から百二十九年後、歴史の記録によれば、周の太史・儋(たん)が秦の献公にまみえてこう言った。
「かつて秦と周は合わさっていましたが、五百年経って離れました。離れて七十年後、覇王が現れるでしょう」
 ある人は「この儋こそが老子である」と言い、ある人は「いや、違う」と言う。世間では結局のところ、どちらが正しいのかはわからない。老子はまさに「隠れた君子」であった。

 老子の子の名は宗といい、魏の将軍となって段干という地に封じられた。宗の子は注、注の子は宮、宮の玄孫は假といい、假は漢の文帝に仕えた。假の子の解は、膠西王の子の教育係となり、斉の地に住み着いた。

 世の中で老子の学を学ぶ者は、儒教を退け、儒教を学ぶ者もまた老子の学を退けている。「道が異なれば、互いに相談し合うことはできない」とは、まさにこのことだろうか。李耳(老子)は「無為」によって人々を自ずから感化させ、「清静」によって人々を自ずから正しく導いたのである。

『史記』《老子韓非列傳》

2.老子と孔子の対面。


老子と孔子

 ちょっと前に、一部について紹介しましたが、
老子と孔子は同時代の人で、しかも孔子が、当時図書館の司書をやっていた老子に会ったことがあるという記録です。そこで孔子は老子に「礼」について教えを請うたとしています。

3.周をはなれて西へ。

 司馬遷の史記によると、後に老子は周の国を去って西へと向かったとあります。西へ向かう途中の関所で看守の尹喜に頼まれて一晩で老子が書き上げたのが『老子道徳経』であると。

張路『老子騎牛図』

 他の伝説によると、この西への旅路で老子は牛に乗っていたとも言われます。なので、老子と言うと牛に乗ったモチーフというのが有名です。


高村光雲『老子像』

このモチーフは、かつては日本でもポピュラーなものでした。

仙厓義梵『老子出関図』

 こちらは仙厓和尚が、函谷関から出る老子の様子描いた『老子出関図』ですが、これも牛に乗っています。

4.李氏と老子。

 伝説によると老子は牛に乗ってさらに西へを旅したようです。その後、老子がどうなったか全く記録にありません。
 ちなみに、老子が立ち寄って『老子道徳経』を書き記したとされる函谷関という関所のさらに西に行ったところに、甘粛省の隴西という都市があります。老子が去ったのち、隴西を本拠地として「李氏」という人々が活躍をしている時代がありました。
 彼らは、老子を自分たちの祖先であると主張していました。『史記』にあるように、老子は「李耳」という名前があったとされていますし、地理的にも老子の伝説と彼らの主張は整合します。
 後に、この李氏は中華を統一し、「唐」という王朝を建てました。そして唐王朝は老子や荘子を祀り、道教を国教として庇護することとなります。唐の時代は道教の黄金時代のうちの一つであり、その教えは偏西風に乗って、日本にも伝来し、目立たないようでいて我々の文化に大きな影響を与えるようになります。

 老子の旅のつづきについてはいずれ。また六十九歩目でお会いしましょう。それでは、кездескенше(kezdeskenşe)!!


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