必要な無駄が教えてくれたこと──最後の卒業生と分校の記録
「じゃあ、今のは無かったことにしましょう。気持ちよく本番いきますよ!」
短い廊下に僕の声が響く。
目の前には、飾り付けられたアーチの向こうで、はにかむ最後の卒業生と、それを見送る在校生はたったひとり。3年生の男の子。
この日、事実上140年の歴史に幕を下ろす、愛知県の福原分校。来年度からの休校が決まっていた、その最後の送り出しの光景だった。
本校での式を終え、分校に戻ってきた子どもはこのふたり。
外は、しとしとと春の雨。しかし、ここだけはどこか明るい空気に満ちていた。

花道の出口には、僕と記者さん、先生が並び、カメラを構えていた。
そこには、時計の針とは違う、もうひとつの時間が流れていた。
みんなが心から納得するまで繰り返される、愛おしいほどの遠回り。
「必要な無駄」をその場にいるみんなで分かち合い、卒業生が歩き出すその瞬間を待っていた。
短い花道を卒業生が歩き終えると、僕は写真を確認する先生に声をかけた。
「どうです?先生、撮れましたか?」
「ちょっと心配です」
「じゃあ、練習は終わりっ。これからが本番ですよ!」
僕がみんなに向かって言うと、アーチを支えていた男の子が、みんなに聞こえるように笑って返した。
「えぇー。せっかく本番だと思ってやってたのに〜」
お母さんから先生へ、先生からお母さんへと、言葉のキャッチボールが続いていった。
「私はもう歩いたので、次は先生が」
「お母さん、もう一度歩いてください」
そこに僕も加わった。
「大丈夫です、先生バージョンはちゃんと後でやりますから」
「えぇー。それじゃあ終わらないよー!」
それを聞いて男の子が声をあげると、その場がほころぶような笑いの輪が広がり、「いい日だった」と、和やかに頷き合えるような輪は続く。
撮り損ねた人がいないか見渡し、「もう一回行こうか」と笑い合える、分校らしい空気が流れていた。
この女の子が入学してきた日も、たしかに同じように笑い声が分校を巡っていた。
あの日、校門から校舎へ続く花道には、子どもたちと先生が色とりどりのアーチを手に、楽しそうに並んでいた。
卒業式とはまた違う、もっと賑やかな一日だった。

新一年生がくぐるたび、アーチを持つ子どもたちや先生たちは笑い声をあげながら先回りし、何度も何度も校舎の前まで駆けていく。
「もうダメー」
「頑張れ〜っ」
「もうちょっとゆっくり歩いて〜」
まるで運動会のような声。
そうして、やっと校舎の前にたどり着いたところで、僕はアーチを作っていたみんなに声を掛けた。
「よしっ。じゃぁこれからが本番ねー。いきましょうっ」
僕の隣でカメラを構えていた先生が、みんなに聞こえるようにつぶやいた。
「いいなあー、これが分校だなあ」
「先生たちは写真撮ってるだけだからっ。今度はやってよ〜」
「もう無理ー。次は、もうちょっとゆっくり歩いてもらわないとっ」
息を切らせた子どもたちが、また校門の方へ向かいアーチを作り始めた。
少し冷たさを含んだ風にのって、高らかに歓声が響き渡る。
分校の先生方は、いつも、子どもたちや地域の皆さんへ、温かい眼差しを向けていた。僕が強く惹かれたのも、その眼差しがあったからだ。
福原分校との出会い

そんな『最後の分校』に、足を踏み入れることになったのは、ここがまだ立田村だった頃の入学式の日だった。
木曽川と長良川に抱かれた中洲のような輪中に、白い鉄筋平屋建ての福原分校がひっそりと佇んでいた。校舎はシンプルな造りで、ガラス扉の玄関を挟んで、向かって右手に教室が3部屋、左手には職員室ともう1つ教室が並んでいた。
校舎の脇に花子桜、校門に次郎桜、芝生の校庭の向こうには見事な太郎桜が咲き誇る。まるで訪れる者を迎えるように、晴れやかな日を祝っていた。
桜の前で記念写真を撮っていたご家族に挨拶すると、「いいですよ。こんな時に撮ってもらえるなんて、うれしいです」と、明るい声が返ってきた。
双子の新一年生の写真を撮らせてもらうと、本校での入学式を終えたばかりの2人が、家族と一緒に分校へ戻ってきたのだと教えてくれた。

「こんにちは」
ひと通り写真を撮り終えたあと、意を決して職員室の扉を開けて声をかけた。
応じてくれたのは、教務主任の先生だった。
地域の大切な学校の日常を、できるかぎり記録として残したい。そんな思いを、ありったけの熱意を込めて率直に伝えると、先生は「そういうことでしたか」と穏やかに頷いてくださった。
「ここは地域で大切にされてきた分校なので、きっと賛成してもらえるはずです。今から、本校にいる校長先生に会ってこれますか?」
そう言って、先生はすぐに本校との橋渡しをしてくださった。
僕は立田大橋を渡り、両脇に蓮畑が広がる道を本校へと向かった。
忘れられない校長先生の言葉
校長室に通されると、校長先生と教頭先生が優しい笑顔で迎えてくださった。その表情は、まるで話す前から僕の申し出を受け入れると決めてくださっていたかのようだった。
なぜ、この学校を撮りたいと思ったのか。どんな視点で記録していきたいのか。これまでの経験や、撮影で大切にしていることを一気に話した。
頷きながら聞き終わると、長年この地域と学校に寄り添ってこられた先生は、静かにこう語られた。
「教育には、必要な無駄があると思うのです」
それは、かつて訪ねた岐阜県最後の分校で、地域と子どもたちのために奔走していた先生方が、言葉にはしなかったが大切にしていた想いそのものだった。
「教育とは目先の損得ではなく、もっと長い視点で地域と共に子どもを育む営みである」という、岐阜の分校で学んだことと重なった。
「よい記録をたくさん残してください」という言葉に背中を押され、本校を後にした僕は、すぐに分校へ戻り先生に結果を報告した。
こうして、福原分校へ通う日々が始まったのだ。
愛知県最後の分校の様子

当時、分校の全校生徒はわずか6人。
双子の男の子が2人、2年生に女の子が1人、最上級生の6年生が3人。
僕が分校に関わった中で、最も賑やかだったこの頃でも、通っていたのは5世帯だけだった。
朝、子どもたちが登校してくるまで、歴代の集合写真が飾られた分校の玄関はひっそりとしていた。
ひんやりとしたその空間には、水槽から聞こえるポンプのぶくぶくという音だけが、かすかに動きを与えていた。
しかし、ランドセルの揺れる音が近づくと、その静けさはふっとほどけていく。
低学年教室が賑やかになり、まるで水面に石を投げ込んだように、校舎から輪中全体に活気が広がっていくのだ。

初めて男の子の下級生を迎えた6年生たちは、急いで自分たちの準備を済ませ、すぐに低学年教室に向かう。
朝の健康チェックや、学習の準備の時間になると、もう自分たちの教室どころではなかったようだ。小さな双子の男の子たちを囲み、あれこれと手伝いに夢中になる。
低学年を受け持つ担任の先生が入ってきても、全く動こうとしない6年生の姿がそこにはあった。
「自分たちの準備はできたのー?」
先生は声を掛けながらも、ついついそのまま、一緒に1年生の準備を見守っていた。
時間割の四角い枠から、柔らかな時間がゆっくりとはみ出していく。分校では、はみ出した時間が、どれも眩しいほどに輝きを放っていた。
6年生を受け持つ先生は、その様子を見計らったようなタイミングで、分かりやすく低学年教室の前を通り過ぎていく。
その姿に気づくと、いそいそと高学年教室に向かっていくのだった。
「しっかり低学年の子どもたちのことを見てくれて。微笑ましくなるんですけど、自分達の授業は?って、毎日注意しているんですよ」
低学年を受け持つ先生は、嬉しそうに話してくれた。
高学年の教室は、他の学年の教室と違い、後ろ側に舞台が備わっていた。
普段はカーテンが閉じられているが、発表会の時などは、この舞台を使って地域の方たちが見守る中、芝居や、草花や生き物など、福原の豊かな自然から学んだ成果を発表する。

それ以外に6年生は、この舞台を毎日のように使っていた。
授業が始まる前、普段は閉められたままの重厚なカーテンの奥に潜り込み、先生が来るのを息を潜めて待つ。教室に入ってきた先生は、「おーい」と言いながら、「ここにもいないな」「あっちかな」と、まずはひと通り舞台以外を探す。
見つけることもあれば、見つからず「はい、授業を始めますよー」と、いうこともある。
僕も、何度も繰り返されるこの光景を、知らん顔して楽しんでいた。
学びの場は、教室の中だけではなかった。分校は特に野鳥の観察に適した環境で、空いていた中学年教室には望遠鏡が設置されていた。
ある日、珍しい鳥が校庭にやってくると、授業はほんのひととき「中断っ」。
みんなで窓辺に集まり、小さな体で必死にレンズを覗き込む――そんな分校ならではの柔軟さと、好奇心を大切にする学びがそこにはあった。
放課の時間は、芝生の校庭でサッカーやかくれんぼ、缶蹴りに夢中になった。
全校生徒が新たに2人増えたのは、とても影響力があったようだ。僕もすぐに誘われ、思いっきり芝生の校庭を走り回った。
「はーい、ちょっと待ってよ」
昼放課のサッカーでは、職員室にいる担任の先生にも声をかけ、一緒に遊んでもらった。
息を切らせるほど駆け回る中、女の子がひとりにならないよう6年生が率先して一緒に遊んでいた。

「小規模の学校はいい面もたくさんあるのです。ただ、人数が限られるのでどうしてもできないことが出てきます」と、先生は言う。
ドッヂボールや野球といったチームで行うものはもちろん、ここでは、大縄跳びをしようと思ってもスムーズにはいかない。
ただ、そういった一見するとマイナスな事でも、そこに工夫や協力が生まれ、先生も子どもたちもかけがえのない経験を得ていくのだと気づいた。
分校では、集団生活を経験する「交流学習」が行われていた。2学期になると、分校の子どもたちは約1ヶ月間、自転車で本校まで通っていく。
「はーい、じゃあここで休憩」
本校からの帰り道、立田大橋の坂を登り切ると決まってここでお茶を飲んだ。
「うおー」
「今日もやったぞーっ」
子どもたちは、木曽川に向かって大声で叫んだ。
疲れも、みんなで乗り越えた達成感も、大きな川が穏やかに受け止めてくれた。
放課後も分校に集まって、校庭で遊んだり、分校に置いてあるタモとバケツを持って魚とりに出かける。
「先生〜いっぱいとれました」
エビやヤゴ、タイコウチ、水カマキリ、小魚などを捕まえてくると、水槽に入れる前に決まって先生に声をかける。
先生方は手を止め、そのたびに様子を見に出てきてくれた。
それが後日、ヤゴからトンボになるまでをまとめる6年生の研究につながった。
分校の伝統になった魚とり

放課後は、時には入学前の子、卒業していった子も一緒に遊んだ
ミズカマキリやタイコウチ、ヤゴが水槽に入ると分校最大の関心事は、彼らが小魚をどう捕食するのか、ということになった。
ある時、ひとりで水槽を眺めていると、ミズカマキリがついに小魚を捕らえた。
「先生っ。ミズカマキリがついに魚を捕まえました」
授業中だったが、この機会を逃すと二度とないかもしれない。
みんなとこの光景を分かち合いたくて、すぐに職員室に知らせた。
「えっ、みんなに見に来るように言わないと。ちょっと写真撮っておきますから、いいですか?」
たちまち授業は一旦止まり、子どもたちは水槽に釘付けになる。先生たちも声を上げながら見守った。
「うわぁ」「吸われてるっ」
「実際にこんなシーンを見ることなんてできませんよね。とっても貴重です!」
「これでは小魚が足りない」
そんな声が上がり、放課後の魚とりにも熱が入り、授業で魚をとりに行く機会が増えていった。
そういった甲斐もあり、水槽にはヤゴが増え、ついに初めての羽化に成功した。分校のみんなが声をあげて見守る中、トンボは教室を悠々と飛び回る。
しかし、やっと外に出ていった途端、呆気なく野鳥に食べられてしまったのだ。
「わぁああ。せっかくトンボになったのに自然って厳しいー」
この出来事は、しばらく分校の語り草になった。

魚のとり方は、6年生が教えてくれた。
「まだ1年生の2人は上手に魚をとれないから、しっかり覚えて伝えていって」
卒業が間近に迫ってきた頃、いつもの用水路を眺めながら僕に向かってポツリといった。
「僕たちがいなくなっても寂しがらず、残ったみんなで協力しあって仲良く楽しく過ごしていってください。困ったことがあったら相談しにきてください」
3人の6年生が卒業し、僕は、教えられた通りに魚とりを続けた。
「先生、今日は大漁です!」
授業中も様子を見てひとりでタモとバケツを持って出て、分校に戻ると、いつものように成果を見てもらった。
「来るのをみんな待ってましたよー。今日は魚とりにいきましょうっ」
ある日の授業中。
いつものように分校に行くと、教室の窓がガラリと開き、先生や子どもたちが笑顔で手を降っている。
その光景に、まるで映画のワンシーンを見ているような不思議な感覚になることもあった。
やがて分校は女の子だけになる時期もあったが、福原タイムという自然観察の授業は、魚とりになる日も度々あった。
先生たちの想い

「先生……あっ、ごめんなさい」
先生や子どもたちが、つい僕を呼び間違える場面が増えていった。
笑いながら訂正し合う、そんなやりとりも、いつのまにか日常になっていた。
分校に僕がひとり加わったことを、先生方は前向きに受け止め、できることを一緒に広げてくださったのだと思う。
だから僕は、ただ写真を撮りに来る外の人ではなく、役割を持てるようになったのかもしれない。


「今から発表の練習をしますが、よかったら高学年教室に来ていただけますか?」
そんな声に誘われ、大切な音読や演奏の練習に、観客として立ち会うようになった。
無人の客席に向かって練習するのとは違い、誰かが見てくれるというだけで、子どもたちの表情には、少しの緊張と誇らしさが入り混じる。
ひと通り聞き終わり、僕の拍手が教室に響く。
「どうでしたか?」
先生に感想を求められる。
「とってもハキハキしていて、しっかり読めていたと思います。読んでいて、どこが一番うまくいったと思いますか?」
子どもに聞き返すと、少し照れくさそうに頷いてから、元気のいい返事が返ってくるのだ。
授業にも、自然観察にも、放課の遊びにもできるかぎり参加した。地域の交流会ともいえる分校の行事には、ときどき友人などを誘った。
ひとり増えるだけで、分校はぐっと賑やかになる。そんな様子を見てもらい、分校の良さを少しでも感じてほしかったからだ。
そうした時間が増えるにつれて、僕がシャッターを切る回数は減っていった。撮ることよりも一緒に過ごすことの方が、何よりもかけがえのないことになっていたのだ。
分校に通う僕を、地域の方々も温かく見守ってくださっていた。
感謝の気持ちを込めて、分校で写真展を始めた。
「自然に地域の人たちが足を運んでくれるような場にできたら」と相談すると、分校に一番人が集まるふれあいスポーツ大会の日と、その翌日に開催日が決まった。
先生方が撮り溜めた写真や、この日のために子どもたちが撮った写真を教室や廊下に一緒に飾った写真展は、新聞にも掲載してもらえたので地元を離れた卒業生も駆けつけてくれた。
分校にあった過去のアルバムも展示したので、その写真から分校がどういった歴史を歩んできたか知ることもできた。
「ちょっとこの写真凄いですよ。昔は夏休みにキャンプしていたんですね」
「どれどれ。本当だ、今こんなことできたらいいですね」
お父さんたちと話していたら、この後、先生方が当時使っていたテントを探し出し、夏休みの分校キャンプが復活したのだ。
写真をきっかけに蘇った記憶が、また新しい思い出を生んでいく。分校では、そんな循環があった。

やがて写真を撮るという行為そのものが、分校の日常風景に溶け込んでいった。
「ちょっと待って。今の撮りたいっ」
先生方も節目の行事だけでなく、普段からカメラを手に取るようになっていた。
「子どもより、明らかにカメラマンの方が多いなあ。こんなに撮ってもらえるなんて、他所ではありえないからね」
行事の終わり際、近くにいたお父さんが笑いながらつぶやいた。その言葉にカメラを手にする人が増え、恒例になった集合写真の準備に入る。
その時、音頭を取るのは僕の役目だった。

「カメラを持っている方は記念写真を撮りますから、遠慮なくここにカメラを持ってきてください!」
「せっかくなので持っている方はどうぞ遠慮なく。分校ですのでっ」
先生もそう声を重ねてくれ、僕の前にたくさんのカメラが集まってくる。様々なメーカー、様々な形をしたカメラ。
この集まったカメラ全部で、皆さんの大切な記念写真を撮るのだ。
僕は、そのカメラをひとつずつ手に取るが、使い方はそれぞれ違う。
「すみません、これ、誰のカメラかわかりますか?」
持ち主を見つけ、その人に、カメラの基本的な使い方を聞く。
「あ、これはこのボタンで」
「なるほど。ありがとうございます」
聞いた通りに、慣れない手つきでファインダーを覗き、シャッターを切る。そしてまた次のカメラへ。
「いやあ、カメラマンにカメラの使い方を教えてる。これも貴重だから誰か撮ってあげて!」
絶妙なタイミングでお父さんが場を繋いでくれる。
全てのカメラで撮り終えると「撮ってばかりだから、最後に入って下さいね」と、声をかけられ、記念写真に入ることも度々だった。
撮る人が増えるほど、誰かの大切な時間が丁寧に残っていく。分校には、誰もがそうしたくなる確かなものがあった。
子どもの数が少ないからこそ、先生方は一人ひとりの想いに寄り添い、「やってみたい」という気持ちを丁寧に受け止めていた。

「そうですね。やりましょうっ」担任の先生と3人で黒板にメッセージを書き込んだ
「できたらいいな」が、形になるのが、分校の良さ――そう語ってくれた先生の言葉は、今も僕の中にしっかりと残っている。
そんな「できたらいいな」の、気持ちが、実際にさまざまな形で実現されていった。
「先生、木曽川に残っている渡船が廃止になるようですよ。この地域の歴史が消えてしまいます」
僕が地域のニュースを伝えた時のことだ。
「え?それは大変だっ」
先生はすぐに反応した。
通常の業務に加え、安全確認、調整や下見など様々な段取りがあったはずだが、「調整は分校の得意技」とばかりに、先生方は、保護者の皆さんや校長先生と共に葛城渡船への乗船を数日後に実現してしまったのだ。
先生方は「子どもたちに、この地域の歴史を肌で感じてほしい」という思いを抱いていたのだろう。分校の学びは、地域の歴史に触れる“いま”を逃さなかった。

福原では、木曽川の対岸とを結ぶ渡船が、かつて重要な交通手段だった。
地域の暮らしに深く根差していたその渡船のように、 福原分校もまた、地域の篤志家・加藤太兵衛氏の私財によって明治25年に産声を上げて以来、地域の熱意に支えられてきた学び舎だ。
本校との往来にも使われていた「立田渡船」は1984年の立田大橋開通によって役目を終えたが、葛城渡船はその後も地域に残り続けた。
先生方は、こうした地域の歴史と密接に関わる営みを、教育の場へと繋げていたのだ。
こうした出来事の積み重ねから、先生方の視線が、いつもまっすぐに子どもや地域に向いている事が伝わってきた。
子どもたちを真ん中に、地域の大人たちの笑顔がある。分校の日々は、教育の原点とはこういうことだと、カメラ越しに教えてくれた。

福原分校と別れの日
「少ない人数だったけど、家族と過ごしているような楽しい分校でした」
今までの卒業生と同じような言葉を残して、最後の卒業生が巣立ってから数日後。休校式の日を迎えた分校には、かつてないほど多くの人々が分校に集まっていた。
式典では、卒業生と在校生が発表を済ませた。
そして、この分校に来て最初に出会ったあの双子の男の子が、スーツ姿で立派に挨拶文を読み上げた。

休校後、新学期が始まるまでの間、いつもの春休みと同じように何度も分校で遊んだ。
ボールや虫を追いかけ、中学生や高校生、大学生も一緒になり思いっきり走り回った。
職員室に目をやると、閉じられたままの窓が、ただ周りの景色を映しているだけだった。
窓を開けて様子を見てくれたり「少しだけなら」と、一緒にボールを追いかけてくれた先生方は、もうそこにはいなかった。

最後に校庭で遊んだ後、卒業した女の子と2人で在校生の男の子を家まで送っていった。
見慣れた輪中の道。卒業式に降った雨が、遠い昔のことのように感じられた。
「ねえ、最後に何しよう?」
「んー、何かあるかな?」
「福原タイムで勉強した草花のこと覚えてる?」
女の子がそういうと土手にいき「これ、ほら、わかる?」男の子に草花の説明を始めた。
「なんだろう?」
「ねえ、ちゃんと覚えてよ!私は中学校に行くんだから、これをできるのもふたりだけなんだからね!」
ひとつ摘み、名前や特徴を口にしてまたひとつ摘み。
陽が傾き、遠く山の向こうに沈もうとしている。
少し冷たさを含んだ風が吹き、輪中の景色が薄く茜色に染まっていった。

愛知県唯一だった分校最後の卒業生
あの桜の下で学んだこと
休校が決まった年、大学生になった双子の男の子が中心になり、最後の思い出として、分校の大きな桜の木の下でお花見会を開きました。
翌年、分校は正式に閉校となり、これまでの感謝の気持ちを込めて、お花見会と写真展を開催しました。
かつてここで学んだ方々や、教壇に立った先生方も集まり、分校らしい笑顔があふれる会となりました。
この様子は、それまでと同じように地元の新聞にも掲載され、多くの方に福原分校について発信することができました。
分校が再び開かれることはないかもしれませんが、この場所で過ごした日々は心の中に永遠に生き続けていくはずです。

僕にとって、福原で過ごした日々は、自分たちの身近な環境を大切にできるからこそ、他の地域、文化、環境に理解を示し、大切にしていけるのだという学びでした。
急速に合理化、画一化が進む現代。
この分校が教えてくれた「必要な無駄」や、そこに息づく温かい想いを立ち止まって見直す必要があるのかもしれません。
あれから、ふと立ち止まって自らにも問いかけています。
効率と引き換えに、どれだけのかけがえのない「道草」を手放してきてしまったのだろう、と。
福原分校のあの桜の下で過ごした、光に満ちた遠回りの日々を思い出しながら。
この記事もくじ
福原分校の皆さま、本当にありがとうございました。
きっと、すぐに役立つ何かではありません。
でも、福原で過ごしたあの「道草」は、いつか誰かの歩みに寄り添ってくれると信じています。
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創作大賞2025入選作を含む『未来に手紙を出す旅』シリーズは、撮影済みの記録を随時更新しながら、ひとつのページにまとめています。
👤 撮影者プロフィール・お問い合わせ
ふだん商業カメラマンとして働きながら、
「だれかの記憶をそっと残すこと」を、自分なりの仕事として続けています。
皇室行事の撮影を経験したのち、この活動をまとめた記事が、note公式お題企画「未来の当たり前にしたいこと with これからラボ」で、参画企業の SHARPさまより「社員に読ませたい記事」として選出されました。
なぜ今もカメラを提げて走り続けているのか。
その理由と、これまでの記録、撮影のご依頼については、以下のプロフィールにまとめています。
