『桑の湯』95年の物語:塩尻で見送った、家族と銭湯の最後の灯
「自分の代になって、休まず営業を続けることができて本当によかったと思います」
昨日、95年の歴史に幕を下ろしたばかりの銭湯『桑の湯』。その中庭で、四代目は少し疲れた様子を見せながらも、誇らしげな表情をしていた。
設備のメンテナンスなどで休業することはあったものの、公衆浴場としての役割を果たしきったことに晴れやかな面持ちを見せていたのだ。
僕は、最終日を見届けた翌朝、まず、商店街の本屋、丸文さんを訪れた。
3日間の塩尻滞在中、「いつでも自由に出入りできるように」と、駐車場を借りていたからだ。これは桑の湯の皆さんの気遣いと、丸文さんのご厚意によるものだ。
昨日もまた、桑の湯の終わりをともに見届けたばかりだった。
商店街で本屋と花火屋を営んできた丸文さんは、小銭の両替や桑の湯の牛乳を自宅の冷蔵庫で冷やしたり、定休日には四代目とお母さんに風呂を貸したりするなど、まさに家族のように付き合ってきた。
四代目もまた、代替わりが進む商店街で人手が足りない店を手伝いながら、この街の営みの一部として日々を過ごしてきた。桑の湯の温かさは、そんなささやかな循環のなかで育まれ、街の温度をも保っていたのかもしれない。
商店街の中核をなす「ウイングロード」に出店していた丸文さん。桑の湯が営業を終えた翌日に移転開業を迎えていた。
「おはようございます。 移転オープン、おめでとうございます!」
花火屋さんと同じ建物で再スタートを切った丸文さんを訪ねると、いつもの笑顔で応じてくれた。
「あらぁ! わざわざ来てくれた? ありがとうっ」
そう言うと、スマホを取り出し、「これで一緒に記念写真撮ってくれる?」と、店内にいた女性に手渡し、新しい門出の記念に二人で写真に収まった。
移転、再オープン、そしてこれからは花火の時期。今年も、花火一本一本に値札をつける作業と向き合い、忙しい日々が始まっていくのだろう。
丸文さんを後にし、僕は桑の湯へ向かった。
昨日の喧騒が嘘のように建物は静まり返り、シャッターは閉ざされている。暖簾もない。
「あれは、本当に体験したことだったのだろうか……」
ほんの昨夜のことなのに、もう遠い記憶のような時間が流れていた。けれど、まだ肌には湯気が残っているようで、人々の笑い声も耳の奥にこだましていた。
自宅の玄関に回ってチャイムを鳴らすと、いつものようにお母さんと四代目が丁寧に迎えてくれた。
閉業翌日の様子もカメラに収めようと思っていたが、それはやめておいた。
「帰る前にすこしだけ一緒にどうですか?」
その代わり、慌ただしい中で、ともにひと息ついた中庭へと四代目を誘った。
後継者の募集は始まったばかりだが、この場所は家族にとっての日常ではなくなっていく。その前に、もう一度あの景色を見ておきたかった。
いつもお母さんが賄いを作っていた台所を通り抜けると、左手には漬物が漬けてある土間があった。ここで再び靴を履き、いつもの席に2人で腰掛けた。
左手には静まり返った男湯の浴室が、正面には巨大な煙突の付け根が見えている。雨に濡れた土はしっとりとしていて、植えられた夏野菜が時折通り過ぎる風に揺れていた。
「大きな石が置いてあった中庭が畑に変わったときは寂しかったけど、今は、片付けておいてよかったと思えるんです」と、お母さんがしみじみと話していたことを僕は思い出していた。
四代目は、つい最近、その畑にオクラを植えたばかりだ。畑の脇の紫陽花は、毎年花を咲かせていたが、今年はどういうわけかとうとう咲かなかった。
僕は、ここからの景色を、こうして眺めることは二度と叶わないだろう。
疲労が溜まる四代目も、いつもの中庭を最後に見ておきたいという気持ちに寄り添い、喜んでくれているようだった。
他愛もない世間話と、昨日の出来事の余韻。
「昨日はありがとうございました。あの時いてくださらなかったら、どうなっていたことか……」
最後の瞬間を見届けようと詰めかけたお客さんに、しっかりと挨拶ができたこと。そしてマスコミ対応も流れるように進めることができ、いい形になったと喜んでいるようだった。
あの瞬間について話し始めた四代目は、少し熱気を帯びていた。
そうしているうちに、ここで過ごしたすべての時間を頭の中でなぞっていた。
桑の湯との出会い

桑の湯との出会いは、画面越しの偶然から始まった。
95年の歴史を持つ塩尻市で唯一の銭湯「桑の湯」、閉業へ――。たまたま目にしたニュースの見出しに僕は心を掴まれた。
桑の湯の始まりは昭和初期。製材の際に出る木端を利用して湯を沸かしたのが、その始まりだった。
近隣の火災で焼失したが、現在の建物は昭和26年に再建された。
その後、木材店は廃業したものの、解体業者から届く廃材を燃料に湯を沸かし続けてきた。
時代の波に翻弄されながらも、形を変え、地域とともに歩んできたその姿に、僕は胸を打たれた。
けれど、廃業を決めたご家族に"取材"という負担をかけてよいのかと迷いもあった。すでに複数のメディアが訪れていることも知っていた。
それでも、写真というかたちで、ご家族や地域の思いを記録に残す意味はあるはずだ。そう信じ、祈るような気持ちでメールを送った。
「お会いできるのを楽しみにしています」
と嬉しいメールが返ってきた。
6月。小雨の降るなか、僕は初めて塩尻の地に足をおろした。
約束の15時が近づく。
塩尻駅から大門商店街に入り、街の象徴的な商業施設「ウイングロード」を通り過ぎる。その巨大な建物は、かつての賑わいを失いながらも、時代の変化を黙って物語っているようだった。
通りを一本入ると、雨に濡れた街並みに、ひときわ高くそびえる煙突が確かに桑の湯の存在を主張していた。
銭湯の入り口脇にある玄関のチャイムを鳴らすと、扉の向こうから、四代目とお母さんが深々と頭を下げて迎えてくださった。
その丁寧な姿に、安堵と緊張が入り混じり同時に込み上げてくる。
通されたのは、コの字型の建物の奥にある部屋。老舗旅館のような長い廊下を進むと、ガラス越しに中庭と、煙突の根元が見えていた。
室内には飯山仏壇や表彰状、ご先祖様の肖像画が並び、この家と湯屋が歩んできた歳月を物語っていた。

「失礼します」
おふたりに背を向け、仏壇にそっと手を合わせる。今日、ここにお邪魔させていただいたことをご先祖さまに心の中で感謝した。
「遠いところをわざわざお越しいただいて」
座卓には温かいお茶と、お母さんお手製の漬物が用意されていた。
信州らしい素朴な味に、ふっと肩の力が抜け「ああ、本当に塩尻にきたのだ」と、実感がじわじわと湧いてきた。
この日の塩尻は、想像以上に寒かった。
冷たい雨に震え、近くの衣料品店でシャツを一枚買い足したほどだ。
だが、この家の中は、外の寒さとはまるで別世界だった。
玄関で交わした柔らかな挨拶や、湯気の向こうで揺れる優しい声色。そうしたもの一つひとつが、僕のなかのこわばりをしっかり解してくれた。
僕は漬物をあっという間に平らげた。
「まあ、こんなに食べていただいて嬉しいです。遠慮なくどうぞ食べてくださいね」
お母さんはすっかり表情を和らげ、笑顔で漬物を盛りながら勧めてくれた。
「最初にメッセージをいただいたときから、もちろんお受けしようと思っていました」
四代目は、まだ少し緊張を残しながらも、そう切り出してくれた。
「閉業は残念ですが、それをカメラマンの方が記録に残してくださるなんて、本当に光栄なことです。長年勤めた会社を辞めるときでさえ、記念写真を撮ってもらえるなんて、なかなかありませんから」
従業員の方々からも、ぜひ取材を受けるよう勧められたという。
さらに、「皇太子殿下(現在の天皇陛下)の代表撮影をされた方に撮っていただけるなんて、まずあり得ません」と、聞かされたそうだ。
「偉いカメラマンの方が来るらしいから、どうしましょうって緊張していたんですよ。でも、とても話しやすくて安心しました」
お母さんは、恥ずかしそうに言葉を選んで話してくれた。
やがて、四代目は半年ほど前に廃業を決断した背景にも触れた。
「正直に言えば、もう廃業しかないと思って準備を進めていたんです。でも最近、後継者を探して残す道もあると助言をいただいて、方向を変えたところなんです。老朽化もありますし、母も高齢で、僕自身も体調を崩してしまって。いきなり限界が来て辞めてしまうより、半年あれば、お客さまも心の準備ができますから」
最盛期には入場制限をかけるほどだった桑の湯も、今は1日30人から80人ほどの利用者に落ち着いていたという。
それでも、毎日湯を沸かし続け、地域の暮らしに寄り添ってきたであろうその姿は、何ひとつ色褪せていないように感じられた。
「桑の湯の記録を残したい」
そう強く思ったのは、ただ建物が失われるからではない。そこにあった日々の営み、仕事やお客さんへの想いがニ度と見ることができなくなってしまうからだ。
「せめて、廃業を決意されたご本人のもとに、写真一枚でもいいから残しておきたい」
その思いが『最後の記念写真』という言葉で、確かな輪郭を持った瞬間だった。
釜場に息づく日常
「では、銭湯をご案内しましょうか」
四代目はそう言って、すっと立ち上がった。
先ほど通ってきた住居部分の廊下には、職人の手仕事がうかがえる繊細な彫刻が施されており、今では考えられないほど手のかかる仕事が、当たり前のようにそこにあった。
最初に案内されたのは格子天井と大きな鏡が印象的な脱衣場だった。
出入り口付近にある胸ほどの高さの番台は、今も現役で、銭湯の歴史そのものを感じさせる。
かつて番台の上の二階部分は、休憩所や町内の会合などで使われていたそうだが、今はもうその役目を終えていた。
サッシの戸を開けて浴室に入ると、壁画はないものの、淡い鶯色の壁は清潔感を際立たせ、窓から差し込む柔らかな光が凛とした空間を包んでいた。


「長野には富士山を描く文化はなかったのですか?」と、尋ねると、四代目によれば、昔は富士山の絵があったという。
「平成に入ってから改修したのですが、長野に絵を描ける職人さんがいなくなってしまい、無理に描いてもらう必要もないと思って。かえって一色で塗ってもらう方が個性があっていいなと思ったんです」と、教えてくれた。
ひと通り見て回ったあと、四代目は「では、釜場も見てみますか」と、声をかけてくれた。
こうして、桑の湯の心臓部へと足を運ぶことになった。
台所脇の扉を抜けて中庭に出る。
煙突の麓にある小さな扉を引くと、配管や濾過器がむき出しになった通路が現れた。その先に、薪の匂いとじんわりとした熱気が漂う釜場があった。
正面には薪が積まれ、右手には銀色の直線的な釜が据えられている。これは平成26年に新調されたものだという。

奥には、焚き物小屋と呼ばれるスペースがあり、長さを揃えて整然と積まれた薪の山があった。
「ちょっと待っていてくださいね」
そう言うと四代目は、重たい鉄の扉を開けて釜に薪を焚べ始めた。

左手側の薪の山から木材を選び、赤く燃える釜の奥へと押し込んでいく。扉を閉めたあと、四代目の表情がふっと緩んだ。
高度成長期、多くの銭湯が、ガスや重油に切り替えていった時代。
「父ちゃん、今はスイッチひとつでお湯が沸く時代になって、世の中便利になってきたね」と、話していたそうだが、木材店を営んでいた関係から、薪を燃料とする昔ながらのやり方を変えることはなかった。
「変えなかったと言うと聞こえはいいですが、正確には変えられなかったんです」

四代目は、照れくさそうな表情を浮かべ話を続けた。
「廃材を使ってお湯を作り、出た灰は土に良いということで畑などに撒かれています。環境問題が大切にされるようになり、気がつけば周回遅れのはずが、逆に最先端のような形になっていたんです」
そう語った四代目は、身振り手振りを交えて、価値観の変化を自分でもまだ信じられないといったふうに笑った。
その表情には、素直な驚きと少しの誇らしさがにじんでいた。
釜場の熱気を抜け、ふたたび中庭へ。
火の前にいた高ぶりがすっと冷まされるような空気のなか、四代目は黙って椅子に腰を下ろした。
ここが彼にとって、唯一の息抜きの場なのだと感じられた。
雨はしとしと降り続いていた。紫陽花にはまだ蕾もなく、ただ雨粒がとどまり、時折揺れるばかりだった。
「今日もいつも通りという言葉が、とても印象的でした」
そう伝えると、四代目の目がふっと輝いた。
「そうなんです!そこを見てくださっていたなんて」
深く感激した様子で付け加えた。
「いつも通り変わらず、お客さまにいい湯だったと言ってもらえるように。いつもの日常が、いちばん大切なんです」
四代目の言葉は、僕の心に深く響いた。
何気ない日常にこそ、大切なものがある。けれど、そうした風景ほど、写真にも言葉にも残りにくい。
目の前にある当たり前の価値は、失ってから気づくことが多いのだ。
そんな場面を、僕はこれまでに何度も見てきた。だからせめて、写真にでも残しておきたい。そんな気持ちを、まっすぐに伝えた。
ふと、お客さんの様子が気になったのか、四代目は「ちょっと戻りましょうか」と、言って、脱衣場へと歩き出した。
そこには、風呂上がりの人々の、穏やかな営みがあった。
足元が濡れれば、誰に言われるでもなく雑巾で拭き、牛乳を飲み終えれば、空き瓶をすすいで片付ける。
誰にも気づかれないような所作、声に出されることのない気遣い。
目立つことのない、誇るでもない、けれど確かにここにある日常は、そうして静かに息づいていた。
僕は、そのまま脱衣場に残り、番台さんにお勧めの晩御飯を尋ねながら、しばらく人々の様子を眺めていた。

年配のお客さんが多い中、学生さんがお友達と一緒に入ってきた。
彼は、桑の湯が人生初めての銭湯で、すっかり歴史的な雰囲気と寮生活では味わえない広々とした浴槽の虜になり、お友達を誘って桑の湯に通う常連さんになったという。
その様子は、ちょうどニュースに流れ「こうして湯船に浸かっていると文化や歴史を感じる」と、コメントをしていたので、僕は彼のことを知っていたのだ。
風呂上がりに話しかけてみると、学生さんはカメラも好きなようで、僕とも話が弾んだ。
晩御飯を食べに行く前に、声を掛けようと、引き戸一枚で繋がっている廊下を歩き居間に入った。

「花火一本一本に値段をつけていかなきゃいけないから、今日も夜鍋仕事。昨日は4時までやってたからねえ」
居間の座卓を囲んで、お母さんと丸文さんが世間話をしていた。
「ええ?それでこんなに遅くまで起きていらっしゃるの?」
そんな丸文さんは、「ウイングロード」の2階に店舗を出していたが、桑の湯の閉業と同じ日に、通りにある本店に店舗を移す最中だった。
それでも、日頃から親しい交流があり、毎日のように桑の湯の様子を見に来ているそうだ。
「お店閉まっちゃうから早く行っておいで」と、丸文さんはお店が空いているか確認の電話をしてくれた。
食後、桑の湯の居間に戻り「ラーメンを食べてきたんですよ」と、話すと、四代目は目を輝かせた。
「海なし県ですが、あそこは海鮮が美味しいと自慢できるんです。それなのにラーメンを選んでくれたとはっ」
四代目は喜びを隠しきれない様子だった。本当はラーメンを勧めたかったのだが、遠方から来た客に勧めるのは気が引けて、海鮮を勧めていたらしい。
かつてこれぞ塩尻ラーメンといえるものがあったが、それが復活し、僕がついさっき食べてきたのがそれだった。
そして、それを復活させたのが、小さい頃から桑の湯に通い、現在は開店準備などを手伝いに来ている「風呂仙人」ことおやじさんだという。
「つい熱くなってすみません」
嬉しそうに話す四代目に、この街の人々の、湯にも似た温かい繋がりを感じた。
こうして話が尽きず、桑の湯で迎える初めての夜が更けていった。

夜が明け、空は晴れ渡っていた。
日差しが照らす中庭から、僕は煙突を見上げた。
昨日の夕方にはつるんとしていた表面が、左官職人の息遣いを伝えるように、独特の表情を浮かび上がらせている。
先端は煤けているものの、繊細な装飾が施されているように見えた。
桑の湯の一日は、午前11時頃、釜に火を入れることから始まる。
金属が軋む音をたてながら、重い鉄の扉をゆっくりと開けると、漆黒の釜に吸い込まれそうな気流をはっきりと感じる。
四代目は新聞紙を丸めて小さな薪を手際よく準備し火を起こした。

この火が、多くの人々を温める熱源となる。それはたった一本のマッチから生まれるのだった。
ある程度燃え始めればつきっきりというわけではないが、30分から1時間おきに釜の様子を見て薪をくべる。
そして、13時頃から開店時間の15時に向けて全力で焚いていくのだ。
「大きい薪はじわじわと燃え続けるので温度を保ちたい時に。小さな薪は燃え尽きるのは早いのですが、よく燃えるので温度を上げたい時に使っていきます」
四代目はそう教えてくれた。
気温に左右され、かつ、お客さんの入りによって使用する湯量が違うため、場数を踏んだ経験値がものをいう仕事だ。
「ある程度まとまってお客さんがくると、温度を上げていかないといけません」
蛇口を捻ればお湯が出る生活に慣れた僕にとって、この概念をすぐに理解できなかった。
なぜなら、釜場での仕事は、湯船の湯を沸かすだけではなく、シャワーやカランから出るすべてのお湯を供給するためのものだからだ。
だから、お客さんがお湯を使えば使うほど、お湯を作っていかなければならない。従って、何人ぐらい入ってきたかを常に把握する必要がある。
釜場で仕事をしていた四代目が、浴室の様子を気にしていたのは、こういう部分もあるからだろう。

四代目の仕事ぶりを見ているうちに理解が深まった。
湯は出るものでなく、作るものだった。
掃除など開店準備をしていると、開店時間の15時はあっという間だ。


1日に90キロから120キロほどの薪を燃やし、閉店後も釜の火が消えるのを見届け、掃除などをすると就寝は深夜になる。
日常生活のための時間はどこにあるのだろうかと、思わずにはいられない作業量だ。
火曜、金曜と週に2日の定休日があるが、定休日にしかできないメンテナンスの仕事が待っている。浴槽の掃除をするには丸一日、熱膨張を起こしている釜は、長く使っていくために火は欠かさず入れ続けている。
溜まった灰を出したり、釜から煙突に入りススを落とす作業も必要になる。 薪を燃料にする釜は、温度がそれほど高温にならず長持ちする特徴があるそうだが、こういった作業は、薪を燃料にしているからこそ必要になってくるのだという。
「若い頃はなんでも一人でやれると思っていましたけれど、倒れてしまってからは、もう無理はできないなというのが常にあります」
営業時間を延長してみるなど、やってみたいことはいくつかあったが、現状維持が精一杯といった感じだ。 釜場での仕事を一旦終え、四代目は中庭のいつもの椅子に腰掛けた。
「風呂は自分がやるものだと思っていましたが、四代目というのを意識し始めたのはここ2年ほどなんです」
「それにしても、自分の時間というものがありませんよね。休みたいとかないですか?」
僕の問いに、四代目は答えた。
「公衆浴場として、決まった時間に決まったように開けるというのが使命だと思ってやってきました。風呂を一番に考えた生活をしていると、自然とこうなった。そんな感じです」
若い頃に、バイクでアメリカ大陸を横断したり、風呂の仕事をしながらも好きなことはしてきたと付け加えた。

桑の湯、最後の三日間
桑の湯が閉業する6月末に合わせ、改めて3日間滞在した。その日程には定休日の金曜日も含まれていたが、その日も休まず、営業時間も22時まで延長することになった。
「今までそのちょっとの事ができなかったので、やってみたかったことを少しだけですけどやってみる事にしました」
開店前、いつものように中庭で四代目と話をすると、週末ということもあり、ちゃんとお客さんに対応できるかを案じている様子だった。
「今日もいつも通りですね」
「はい。今日もいつもの桑の湯で」
そう声を掛けあって、いつも通りの時間に二人で釜場へ向かった。
桑の湯の1日の始まりであり、お客さんたちの笑顔や安らぎの元になるマッチの炎を撮っておきたかったからだ。

薄暗い釜場は、ほんのりと昨日の熱気を保っている。釜の正面に向かい合い、四代目にマッチを擦ってもらった。
決めていた通りに撮り終えると、四代目が火を入れた。
最終日までは、慌ただしく過ぎていった。金曜日のお昼には、番台さんや四代目に勧められて、塩尻駅の蕎麦を食べに行った記憶がある。
事業を継続してくれる後継者については、数社から応募があったようで、銭湯を残す道筋は見えてきたものの、創業者である桑澤家は、ずっと暮らしてきたこの家から離れなければならない。
「母ちゃん、今日は賄いにカレーを作ってもらえる?」
賄いで一番のおすすめは、四代目も太鼓判を押すカレーライスだった。
大きな鍋で煮込まれるカレーは、どこか素朴で、家庭的な優しさを感じる味だった。
僕が「美味しい、美味しい」と、おやつ代わりに食べていたミニトマトの漬物。
「いっぱい食べてくださるから、嬉しくてまた漬けておきました。甘味は控えるようにってお医者さまからいわれているので少し控えているのですよ」
そんなやりとりも、いつも賄いを作ってくれるお母さんの姿も、この台所も、居間での団らんも。もう、見ることはできないだろう。
弟さんも泊まり込みで手伝いに来ていた。朝、いつものように中庭の椅子に腰掛けていると、廊下の掃除をする弟さんの姿が見えた。
黙々と雑巾がけをしていたが、途中で手が止まった。どうやら木の棘が刺さったようだった。
「兄には、けっこうきついことを言ってきました。僕にしか言えないと思っていたので」
その言葉には、四代目やお母さんを気遣う気持ちがにじんでいた。離れているからこそ、無理をしていることが見えていたのかもしれない。
銭湯を閉じるという決断について、僕はあらためてお母さんにも四代目にも、そして弟さんにも聞くことはなかった。
いつも話に花が咲いた居間は、まわりが慌ただしく動いている中でも、どこか落ち着いた空気が流れていた。手作りの金メダルをくれた女の子に手紙を渡そうと、お母さんと四代目はそのタイミングを見計らっていた。
最終日は夕方から雨の予報だった。最後まで「いつも通りの桑の湯」でいたいという思いもあったようだが、それでもやはり、閉店前に、95年間の感謝を伝えることを決めたのだろう。
弟さんと四代目は、慌ただしい中、どのような段取りで挨拶をするか話し合っていた。なかなか方針が決まらないようだったので、少し躊躇しながらも輪に加わり、脱衣場での挨拶と見送りの形を提案した。
開店直前には、早番の従業員の皆さんと記念写真を撮影した。主に裏方で活躍していた「風呂仙人」も、その一枚に納まってくれた。

この日、桑の湯には、銭湯ファンや関係者、県外からも多くのお客さんが訪れた。最終日だけでおよそ200人が足を運び、四代目が作った湯を堪能していった。
「ここは湯冷めしませんね。自分でいいと思った銭湯だから、冬でも通っています」
そう話していたのは、松本から足繁く通っていたという常連さんだった。


二人掛けのソファで、のんびり過ごすご近所の常連さんも、いつものように休憩の時間を楽しんでいた。その手には、見覚えのあるカメラが握られている。よく見ると、僕が使っているものとまったく同じ機種だった。
「撮らせていただいてもいいですか?」
それをきっかけに、常連さんが普段撮っている写真を見せてくれた。僕たちはすぐに打ち解け、意気投合した。閉業後も、ときどき一緒に食事に行くような付き合いが続いている。

僕がソファに座る常連さんを撮っていると、年配のお客さんがその隣に腰掛け、「私もこのカメラで撮ってもらえませんか?」と、僕にカメラを手渡した。
「このまま撮ると、おふたりの写真になりますよ」
画面を確認して、二人に向かって声を掛けると、
「せっかくですから、一緒に収まりましょうか?」
「どうぞどうぞ、いいですよ」
二人は軽いやり取りを交わして、そのまま、ご近所の常連さんと一緒に写真に収まった。

お向かいで喫茶店をやっていた
夜、寮生活を送っている学生さんからメッセージが入っていることに気づき、男湯へ急いだ。
「お友達は?」
「今日は、一人で来ました。たぶん、お友達も来ていると思いますけど」
その予想通り、後から友達も合流していた。最終日だからこそ、一人でこの場所の記憶を噛みしめたかったのかもしれない。
記念に浴室で写真を撮ってほしいというので、一度風呂から上がり、牛乳を飲みながら浴室が空くタイミングを待った。
その間に、「僕はなかなか来られないから、近くを通ったらたまに顔を見せてあげて」きっと喜んでもらえるはずだと頼んでおいた。
閉業時間が迫るなか、お客さんたちが湯から上がってきたタイミングで再び入浴し、バイブラの浴槽に浸かる笑顔の二人を正面から撮った。

僕の見た限り、桑の湯で最後に湯船から上がったのは、この学生さんだった。
学生さんたちが風呂を上がると、閉店時間の22時まではあっという間だった。
外で待っているお客さんに声をかけ、一旦男湯の脱衣場に入ってもらった。女性のお客さんたちは、「男湯の脱衣場に入るなんて初めて」と、話していた。

番台の脇には四代目が立ち、お母さんや弟さんご夫婦、これまで桑の湯で働いてきた従業員が一列に並んだ。
四代目は、緊張しながら95年間の感謝の気持ちを伝えた。
言葉に詰まる場面もあったが、前を向き、力強く感謝の思いを述べた四代目と、お母さんの胸には、あの女の子からの金メダルが光っていた。
そして、丸文さんたちから花束が手渡された。

お客さんたちを見送り、雨の中、四代目が暖簾を外し、入口のシャッターが閉ざされた。
そのあと、先ほどまで緊張に包まれていた脱衣場で、最後の記念写真を撮った。
報道対応も終わり、落ち着きを取り戻したのは23時ごろだったろうか。
お母さん、丸文さん、番台さんが「最後にお風呂に入っておきたい」と、話して、一緒にしまい湯に浸かった。
僕も静まり返った男湯でしまい湯に浸かり、居間で少し団らんしていると、四代目が口を開いた。
「明日からは朝型に変えて、体調を整えていこうと思います」
まずは、午前中に売り切れてしまうお肉屋さんで、買い物をしてみたいそうだ。
桑の湯を出る前に、四代目と二人で中庭に出た。
物音ひとつしない男湯の窓から漏れる光が、いつもの場所をぼんやりと照らしている。
「おかげさまで、無事に挨拶ができました。緊張してしまって、途中で何を言っているのかわからなくなってしまいました」
その表情には安堵と、どこか大きな達成感がにじんでいた。
片隅で、紫陽花の葉に雨粒がとどまり、かすかに揺れていた。

「続けたい」気持ちの奥にあったもの
昭和の街角には欠かせない存在だった銭湯は、昭和43年をピークに全国的に姿を消し、現在、最盛期の1/10以下にまで減少しています。(全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会発表)。
高度経済成長期を経て、各家庭に風呂が普及し、多くの銭湯がその役割を終え、街の至るところで目にした煙突も、なかなか見かけなくなりました。
「昔は大家族でしたから、特に不自由なくやれてきたのですけれども」と、お母さんが話してくれました。
風呂が各家庭に備わったという事情に加え、核家族化により負担の集中が避けられなくなったことも、家族経営の銭湯が減っていく大きな要因のようです。
桑の湯閉業後、元スタッフの方々と話し合い、桑の湯を使って写真展を開催しました。
会期中、お母さんは積極的に脱衣場に出てお客さんと語らい、釜場では普段見ることのできない作業風景を四代目が丁寧に説明しました。番台では、皆が順番に座って記念撮影を楽しんでいました。
そんな会期中、ふと、こんなやり取りを耳にしました。
「週二回とかで続けてもよかったかもしれないね」と、そう呟いたお母さんの表情と、それを優しく制する四代目の姿が印象的でした。
本当は、なんとか続けたいという気持ちを抑えながら、「これ以上無理はさせられない」と、お互いを気遣い、そういった気持ちを口にできなかったのかもしれません。
この場所には、家族を思いやる心と、見えない絆でつながる人々の想いが、静かに流れていました。
この記事のもくじ
最後に、この記憶の中に迎え入れてくれたすべての方に、深く感謝します。
灯が消えても、そのぬくもりを知る人がいる限り、物語は、またどこかで灯るのかもしれません。
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創作大賞2025入選作を含む『未来に手紙を出す旅』シリーズは、撮影済みの記録を随時更新しながら、ひとつのページにまとめています。
👤 撮影者プロフィール・お問い合わせ
ふだん商業カメラマンとして働きながら、
「だれかの記憶をそっと残すこと」を、自分なりの仕事として続けています。
皇室行事の撮影を経験したのち、この活動をまとめた記事が、note公式お題企画「未来の当たり前にしたいこと with これからラボ」で、参画企業の SHARPさまより「社員に読ませたい記事」として選出されました。
なぜ今もカメラを提げて走り続けているのか。
その理由と、これまでの記録、撮影のご依頼については、以下のプロフィールにまとめています。
※桑の湯は、閉業後、営業時間を大幅に拡充し、別会社の元、再オープンを果たしている。
