耳あり芳一【第四話】夜桜百鬼祭②
今宵、桜のもとに集うは、百の鬼たち──
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第三章 生野銀山、夜風の怪
◇
京・東山。清閑寺の夜は、ひときわ静かだった。
春とはいえ、雲は厚く、月は出ていない。花は咲いても、灯りひとつない山の奥では、その色もわからない。
風だけが遠くで鳴き、土をなでるように流れていた。
その夜、空から静かに何かが降っていた。
ひら、ひら、と舞い落ちる白い影は、花びらのようでいて、花ではない。
焦げた布切れ、焼けただれた皮膚、面を失った顔の形。
それは、篠山の山々から巻き上がった怨霊の残骸だった。
それらは夜風に乗って京の都へ流れ、誰にも気づかれぬまま、東山へ降り積もっていた。
◇
清閑寺の境内。満開の枝垂れ桜の下に、一人の女が座っていた。
長く結い上げた黒髪が、背に沿って静かに揺れている。
首筋が白く浮かび、うつむいた横顔には、かすかな笑みがあった。
着物は深い赤。裾には紫のぼかしが入り、静かな夜の色にとけこんでいる。
その手には、古い琵琶があった。
擦れた胴、傷の残る棹。けれど女の手は慣れた様子で、それを静かに抱えている。
花は咲いていたが、風は吹かない。にもかかわらず、枝垂れ桜はわずかに揺れた。
闇の中から、ひとつ、またひとつと、影が集まりはじめたのだ。
顔のない者、口を裂かれた者、うずくまるように進み出るもの、這うもの。
そのどれもが人ではなかった。鬼と化しかけた者たち――。
女は目を伏せたまま、静かに琵琶の弦をはじく。
低く、湿った音が夜気を震わせ、闇の奥へと染みこんでいった。
怨霊たちはその音に引き寄せられるように、次々と境内へ集まってくる。
桜の下に、静かな渦ができていた。
その中心で、女は何も言わず、ただ待っていた。
その瞳の奥にあるものを、誰も知らない。
――夜桜百鬼祭。
そのはじまりを、ただひとり知っていたのは、彼女だけだった。
女は目を伏せたまま、指先で弦をひと撫でる。
ポロン――
静けさに沁みる音。
枝垂れ桜の下に、音の波紋が広がっていく。
ポン、ポロン……ポロロロン……
やがて、まるで霧が囁くように、女の声が舞い降りる。
◇◇◇◇◇
さてもお聞きなされや皆々様。
ここより西へ、峠を三つ、谷に煙るは鉱の町。
銀の夢に酔う男どもが集う、生野の宿場に、
一人の童子がおり申した。
顔は笑うて穏やか、身なりも貧しき薄着一つ。
けれども、その眼――
その眼を見た者は、口を揃えてこう申した。
「……まるで、底なしの井戸のようじゃった」と。
ポロン……チャラ……ン……
童子の名は知られず、歳も定かではござりませぬ。
ただ、彼が現れるとき、かならず町のどこかに、
笑い声が響いたと申します。
ひぃ、ひぃ……くくくく……
雨の日に、軒下にぽつんと佇む姿。
雪の日に、鉱夫の小屋の隅で焚き火を覗く後ろ影。
目を離せばすぐに消え、
けれど、どこかで笑う音だけが、長く残る。
ヒッ……ヒヒヒ……クク……
ある晩のことでございます。
童子は、一人の女郎に心を寄せました。
顔は白く、声は柔らか。
男たちの金と心を引き寄せる、その道の女。
童子は、幾日も通い詰め、贈り物を渡し、言葉を尽くしたと申します。
女もまた、笑みを浮かべて応じたそうな。
けれど――それは所詮、仮初の情。
童子はそれに気づけず、
いや、気づいておってなお、笑っていたのかもしれませぬ。
そしてその夜。
女は姿を消しました。
誰がどこを探しても見つからず、
ただ、床の間には、赤い襦袢の袖と、
鋭き爪のような痕……
そして、くぐもる笑い声だけが、宙を舞うた。
ヒヒ……ヒヒヒ……クククク……
――それよりというもの、町には奇怪が続く。
夜な夜な、川に浮かぶ小舟に童子の姿。
それを目撃した者は、
翌日、ことごとく消えた。
或る鉱夫は、笑いながら崖から飛び、
或る宿の娘は、夢の中で耳元に囁かれ、
朝には声を失い、泡を吹いて倒れた。
童子を見た者は消え、
追った者は、戻らぬ。
ただ、残されるのは――
女の香と、風のように漂う、
あの、笑い声のみ。
ヒッヒッヒ……ヒヒヒヒヒヒ……
◇◇◇◇◇
女は、最後の音をひとつ弾いた。
キィィ……ン……
その余韻は、まるで空を裂くようで、聞く者の心をひやりと凍らせた。
桜の花びらが、はら、はらと舞い落ちる。
そして女は、再び語り始める気配を見せた。
女は、ふたたび静かに弦を鳴らす。
ポン……ポロロ……ン……
琵琶の音は夜風に揺れ、月なき空にゆらりと影を落とす。
◇◇◇◇◇
さてさて、童子を見た者が皆、消え失せるようになって幾とせ。
人々は次第に噂し合うようになりました。
「ありゃあ、この世の者ではない」と。
「銀を掘った骸の祟りが、童となって化けて出たのだ」と。
「いや、もっと恐ろしいナニカが、童の姿を借りて歩いとる」と。
そして――
童子が、最後に姿を見せたのは、あの女郎の馴染み客であった一人の若い鉱夫の家。
その夜、近隣の者が聞いたと申します。
ドン……ドン……ドン……
閉ざされた戸を叩く音。
風もないのに、屋根を滑る何かの這いずる音。
ズル……ズル……ズズ……
「戸を開けよ、女を返せ」
そんな声が、闇の中に、どこからともなく響いたのだと。
鉱夫の家は朝になっても沈黙し、
見に行った者が見たものは――
血で真紅に染まった障子、
柱に打ちつけられた赤い襦袢、
そして、墨のように黒く焼け焦げた童の影だけ。
そこに、人の姿はなかった。
ヒィィィィ……ヒヒヒヒ……
それ以来、町では、誰も童子の姿を見ておりませぬ。
けれど、町の片隅で、あるいは夜の谷で、
ときおり風が笑うように聞こえると申します。
ヒ……ヒヒヒ……クク……
そして――
童子が最後に立っていたその跡には、
かならず、赤い布が落ちている。
まるで、血に染めた女の遺恨。
それが、この世に残る唯一の名残。
――その町は今、怨を宿し、眠りもせず、忘れもせず、
静かに、静かに、鬼の足音を待っておる。
ポロン……チャラン……
ポン……ポン……ポォォォン……
◇◇◇◇◇
女は、微笑んだ。
けれど、その目は笑っていない。
枝垂れ桜の花びらが、まるで血のしずくのように、
その肩へ、髪へと降り注いでいた。
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