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耳あり芳一【第四話】夜桜百鬼祭②

今宵、桜のもとに集うは、百の鬼たち──


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第三章 生野銀山、夜風の怪




京・東山。清閑寺の夜は、ひときわ静かだった。

春とはいえ、雲は厚く、月は出ていない。花は咲いても、灯りひとつない山の奥では、その色もわからない。
風だけが遠くで鳴き、土をなでるように流れていた。

その夜、空から静かに何かが降っていた。
ひら、ひら、と舞い落ちる白い影は、花びらのようでいて、花ではない。
焦げた布切れ、焼けただれた皮膚、面を失った顔の形。
それは、篠山の山々から巻き上がった怨霊の残骸だった。

それらは夜風に乗って京の都へ流れ、誰にも気づかれぬまま、東山へ降り積もっていた。



清閑寺の境内。満開の枝垂れ桜の下に、一人の女が座っていた。

長く結い上げた黒髪が、背に沿って静かに揺れている。
首筋が白く浮かび、うつむいた横顔には、かすかな笑みがあった。
着物は深い赤。裾には紫のぼかしが入り、静かな夜の色にとけこんでいる。

その手には、古い琵琶があった。
擦れた胴、傷の残る棹。けれど女の手は慣れた様子で、それを静かに抱えている。

花は咲いていたが、風は吹かない。にもかかわらず、枝垂れ桜はわずかに揺れた。
闇の中から、ひとつ、またひとつと、影が集まりはじめたのだ。

顔のない者、口を裂かれた者、うずくまるように進み出るもの、這うもの。
そのどれもが人ではなかった。鬼と化しかけた者たち――。

女は目を伏せたまま、静かに琵琶の弦をはじく。

低く、湿った音が夜気を震わせ、闇の奥へと染みこんでいった。
怨霊たちはその音に引き寄せられるように、次々と境内へ集まってくる。

桜の下に、静かな渦ができていた。

その中心で、女は何も言わず、ただ待っていた。
その瞳の奥にあるものを、誰も知らない。

――夜桜百鬼祭。
そのはじまりを、ただひとり知っていたのは、彼女だけだった。

女は目を伏せたまま、指先で弦をひと撫でる。

ポロン――
静けさに沁みる音。
枝垂れ桜の下に、音の波紋が広がっていく。

ポン、ポロン……ポロロロン……
やがて、まるで霧が囁くように、女の声が舞い降りる。

◇◇◇◇◇

さてもお聞きなされや皆々様。
ここより西へ、峠を三つ、谷に煙るは鉱の町。
銀の夢に酔う男どもが集う、生野の宿場に、
一人の童子がおり申した。

顔は笑うて穏やか、身なりも貧しき薄着一つ。
けれども、その眼――
その眼を見た者は、口を揃えてこう申した。

「……まるで、底なしの井戸のようじゃった」と。

ポロン……チャラ……ン……

童子の名は知られず、歳も定かではござりませぬ。
ただ、彼が現れるとき、かならず町のどこかに、
笑い声が響いたと申します。

ひぃ、ひぃ……くくくく……

雨の日に、軒下にぽつんと佇む姿。
雪の日に、鉱夫の小屋の隅で焚き火を覗く後ろ影。
目を離せばすぐに消え、
けれど、どこかで笑う音だけが、長く残る。

ヒッ……ヒヒヒ……クク……

ある晩のことでございます。
童子は、一人の女郎に心を寄せました。
顔は白く、声は柔らか。
男たちの金と心を引き寄せる、その道の女。

童子は、幾日も通い詰め、贈り物を渡し、言葉を尽くしたと申します。
女もまた、笑みを浮かべて応じたそうな。
けれど――それは所詮、仮初の情。

童子はそれに気づけず、
いや、気づいておってなお、笑っていたのかもしれませぬ。

そしてその夜。
女は姿を消しました。

誰がどこを探しても見つからず、
ただ、床の間には、赤い襦袢の袖と、
鋭き爪のような痕……
そして、くぐもる笑い声だけが、宙を舞うた。

ヒヒ……ヒヒヒ……クククク……

――それよりというもの、町には奇怪が続く。

夜な夜な、川に浮かぶ小舟に童子の姿。
それを目撃した者は、
翌日、ことごとく消えた。

或る鉱夫は、笑いながら崖から飛び、
或る宿の娘は、夢の中で耳元に囁かれ、
朝には声を失い、泡を吹いて倒れた。

童子を見た者は消え、
追った者は、戻らぬ。

ただ、残されるのは――
女の香と、風のように漂う、
あの、笑い声のみ。

ヒッヒッヒ……ヒヒヒヒヒヒ……

◇◇◇◇◇

女は、最後の音をひとつ弾いた。
キィィ……ン……
その余韻は、まるで空を裂くようで、聞く者の心をひやりと凍らせた。

桜の花びらが、はら、はらと舞い落ちる。
そして女は、再び語り始める気配を見せた。

女は、ふたたび静かに弦を鳴らす。

ポン……ポロロ……ン……

琵琶の音は夜風に揺れ、月なき空にゆらりと影を落とす。

◇◇◇◇◇

さてさて、童子を見た者が皆、消え失せるようになって幾とせ。
人々は次第に噂し合うようになりました。

「ありゃあ、この世の者ではない」と。
「銀を掘った骸の祟りが、童となって化けて出たのだ」と。
「いや、もっと恐ろしいナニカが、童の姿を借りて歩いとる」と。

そして――

童子が、最後に姿を見せたのは、あの女郎の馴染み客であった一人の若い鉱夫の家。

その夜、近隣の者が聞いたと申します。

ドン……ドン……ドン……
閉ざされた戸を叩く音。
風もないのに、屋根を滑る何かの這いずる音。

ズル……ズル……ズズ……

「戸を開けよ、女を返せ」
そんな声が、闇の中に、どこからともなく響いたのだと。

鉱夫の家は朝になっても沈黙し、
見に行った者が見たものは――

血で真紅に染まった障子、
柱に打ちつけられた赤い襦袢、
そして、墨のように黒く焼け焦げた童の影だけ。

そこに、人の姿はなかった。

ヒィィィィ……ヒヒヒヒ……

それ以来、町では、誰も童子の姿を見ておりませぬ。

けれど、町の片隅で、あるいは夜の谷で、
ときおり風が笑うように聞こえると申します。

ヒ……ヒヒヒ……クク……

そして――
童子が最後に立っていたその跡には、
かならず、赤い布が落ちている。

まるで、血に染めた女の遺恨。
それが、この世に残る唯一の名残。

――その町は今、怨を宿し、眠りもせず、忘れもせず、
静かに、静かに、鬼の足音を待っておる。

ポロン……チャラン……
ポン……ポン……ポォォォン……


◇◇◇◇◇

女は、微笑んだ。
けれど、その目は笑っていない。

枝垂れ桜の花びらが、まるで血のしずくのように、
その肩へ、髪へと降り注いでいた。



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