耳あり芳一【第四話】夜桜百鬼祭③
今宵、桜のもとに集うは、百の鬼たち──
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第四章 生野銀山、和尚来たる
◇
生野の町は、銀山の谷間に息づいていた。
山からは今日も鉱石が掘り出され、坑道に向かう人々の列が絶えない。
街道沿いの宿場には行き交う商人や鉱夫が立ち寄り、湯気の立つ食事と、酒の匂いが夜風に流れている。
だが、その明るさとは対照的に、山の奥からはじわじわと不穏な空気が染み出していた。
町外れの坂道を、一人の僧が歩いていた。
旅装のまま、笠をかぶり、墨染めの衣を風になびかせている。
手には何の変哲もない杖、だが中には鋭い刃が仕込まれている。肩に担いだ袋には、仏具の木魚が静かに眠っていた。
和尚は一乗寺を発ってから、京を目指していた。
けれど、生野の入口で耳にした一言が足を止めさせた。
──鉱山の裏に、夜ごと“人でない何か”が現れる。
気のせい、見間違い、ただの狸だ──誰もがそう言って笑ったが、その笑いの裏には、言い知れぬ不安が宿っていた。
「活気の裏に隠れているものほど、根が深い…か」
和尚は坂を登りながら、わずかに眉をひそめる。
この町には人の暮らしがある。熱も、光も、祈りも残っている。
そして、それに引き寄せられるように、陰もまた集まってくる。
鉱山の裏手に続く細い山道に足を踏み入れると、にわかに空気が変わった。
鳥の声が止み、風もなく、木々がわずかに軋んでいる。人の気配がないのに、どこか“見られている”ような感覚がまとわりついてくる。
「……来ているな」
闇の中、何かがひっそりとうごめいていた。
まだ姿を現してはいない。しかし、確かにそこにいる。
和尚は立ち止まり、仕込み杖にそっと手を添えた。
木魚はまだ鳴らさない。
今はただ、近づいてくる“気配”を見極めるときだった。
彼の目の前に広がるのは、賑わう町の裏側。
銀を掘ることで繁栄を得た町の、その見えない影の部分。
月明かりの届かぬ山道を、和尚は黙って進んでいった。
何かが近づく気配がする。だが、まだはっきりとは姿を見せない。
闇の奥で、何かが息を潜めている。
それが怨霊か、鬼の芽か──その正体を見極めるのは、これからだった。
和尚は歩みを止めず、静かに山の奥へと入っていった。
◇
それは獣のようでありながら、獣ではなかった。
四つ足で這い、うめくような声を漏らしながら、森の影から影へと動いていく。
和尚はその姿を目にしてはいなかった。
だが、耳で、肌で、息づかいで、それを感じ取っていた。
「人の心を食らうか……」
低くつぶやくと、和尚は肩の袋から木魚を取り出した。
掌にちょうど収まるほどのそれは、古びているが、艶があった。
彫られた般若の面が、うっすらと月の光に浮かび上がる。
和尚は腰を落とし、静かに目を閉じた。
やがて、その掌から「ポク、ポク」と木魚の音が鳴る。
──ポク、ポク……ポク。
音は低く、深く、そしてどこか柔らかい。
けれど、その波動は森の隅々にまで染み渡り、怨念の気配を震わせた。
それまで物陰に潜んでいた“何か”が、声を上げてのたうった。
木々が揺れ、草が裂け、斜面の奥から黒い影が転がり出てくる。
それは、人の姿を模していた。
片方の手は掘削用の鶴嘴、もう片方は腐ったように崩れている。
顔には仮面のような鉄鉱石の塊が食い込み、口元からは銀色の泡を垂らしていた。
「……山を貪った者が、山に喰われたか」
和尚の声は静かだった。
だが、影の怨念は強く、鋭く、夜を裂くように呻きを上げた。
「──ギイイイイイィィ……ッ」
影が飛びかかる。獣のような速さで、枝を弾き、牙を剥いて迫る。
その一瞬、木魚の音が止む。
和尚は立ち上がると同時に、杖の下部を捻り抜いた。
カチリと音がして、仕込み杖の中から鋼の刃が抜き放たれる。
月明かりの中、それは一筋の閃光だった。
「──成仏せい」
声が空を裂く。
振るわれた刃は迷いなく影の中心を裂き、銀の泡とともに怨念が霧のように吹き飛んだ。
その場には風が舞い、僅かに冷たい香りが残った。
和尚は木魚を静かに納め、仕込み杖を戻した。
「……まだ、始まりに過ぎぬな」
背を向け、森を下る。
京はまだ遠い。だが、その空気は、すでにどこかざわついていた。
影を祓った夜、生野の町には再び人の声が戻った。
それでも、和尚の心には、どこか拭えぬ気配が残っていた。
なぜなら、怨霊の消え際に、たしかに聞こえたのだ。
──音が、どこか遠くで鳴っていた。
和尚はその音の意味を、まだ知らない。
だが、それが京に繋がる音であることだけは、感じていた。
◇
夜が明けた。
生野の町はまだ霧に包まれていたが、鳥のさえずりが山々に戻っていた。
炭焼き小屋からは細い煙が立ち上り、銀山へ向かう者たちの掛け声も、久方ぶりに聞こえる。
和尚は町を見下ろす峠道に立ち、朝靄の向こうを静かに眺めていた。
白木の杖を手に、背の袋に木魚を収め、旅の支度はすでに整っていた。
一度だけ、後ろを振り返る。
その視線の先にあったのは、小さな地蔵だった。
おそらくは鉱夫が彫ったものだろう。石の表面は摩耗していたが、慈悲深い面持ちだけがはっきりと残っていた。
和尚はそっと掌を合わせ、ひと呼吸だけ祈りを捧げた。
「この地の安寧、長く続かんことを──」
そして、またひとつ、音を立てず歩き出す。
行く先は、まだ先。だが、その歩みに迷いはなかった。
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