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耳あり芳一【第五話】祇園の鬼喰い③

──鐘の音、諸行無常の響きあり……


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第三章 母の声、闇に沈む




朝の気配が、祇園の町にうっすらと差し込む頃。

飴屋の暖簾はまだ上がっていなかった。屋内では、お春が寝所で身を起こし、背伸びをひとつ。

「……みすず、起きておくれ。お団子、練らにゃあ……」

声をかけるが、布団は冷たい。

「……ん? あれぇ……?」

立ち上がり、屋内をぐるりと見渡す。釜のそばにも、帳場の陰にも、みすずの姿はなかった。

「……まさか、また外へ……」

戸を開け、朝靄の中に顔を出す。町にはまだ人気がない。けれど、お春の胸には、奇妙なざわめきが走っていた。

――



「歌いながら、裏手へ歩いていったんです。朝方、わたしが水くみに出たとき……」

そう証言したのは、茶屋の娘・お幸だった。

隣で頷くのは、花屋の娘・お花。

「ええ……たしかに。白い着物で、楽しそうに鼻歌を……。でも、なにを見てたんだろう……あの子、ひとりで笑ってた」

お春は二人の証言を聞きながら、ぎゅっと袖を握りしめた。

「そんな……みすず……」

思考が渦を巻く。町の外れ、川のほう? でも……それなら、なぜ戻らない? 誰かに――

そんな不安を打ち消すように、お春は声を張り上げた。

「蓮屋さんに……蓮屋さんに、みすずが来てないか、確かめてみる!」

そう言い残し、早足で町の中心へ駆けていく。



蓮屋の帳場では、女将・お兼が朝の支度をしていた。
茶を淹れながら、まだ薄暗い町をぼんやりと眺めていると、戸口を叩く音がした。

「……はいはい、どちら様」

引き戸を開けると、立っていたのは息を切らしたお春だった。
頬はこわばり、目はうろたえた色で揺れている。

「お兼さん……! みすずが、うちの子が朝から帰ってきてないんです!」

お兼は眉をひそめた。

「え? まさか、また川遊びじゃ……いや、こんな時間に?」

お春は、首を振る。

「歌いながら出ていって、それっきりなんです。裏手の道を通って……もしかして、蓮屋に来てるかもって……!」

「……こっちには、来てないわ」

お兼はふっと口元を引き締めると、すぐに帳場の奥へ顔を向けた。

「安兵衛!」

「はい」

厨房から姿を現したのは、背筋の伸びた若い男――料理人であり、お兼の一人息子である安兵衛だった。

「近くを探してきな。……いいね?」

「わかりました。お春さん、一緒に行きましょう」

「はい……!」

お春は安兵衛の背中を追いながら、振り返り、お兼に深く頭を下げた。
お兼はそれに軽く手を振って応じると、もう一度、帳場に座り直した。


静かな朝。
がらんとした蓮屋に、ひとりきりになったお兼が、ふと茶を啜ろうとしたそのとき。

「……へい、女将さん」

にゅう、と顔を出したのは、くたびれた蓑を背負った男。
雨吉だった。

「また、お恵みをいただきにあがりましたよぉ……」

その声は、やけに乾いていた。

帳場に現れた雨吉は、煤けた蓑を肩に掛け、にやついた面をこちらに向けた。

「……今朝のこと、聞きましたよ。あの飴屋の子が、唄いながら出ていったって」

お兼は帳場の奥から姿を見せ、冷たい視線を雨吉に向けた。

「何しに来たんだい、あんた」

「ただの世間話を、と思いまして」

「世間話ねえ……」

お兼はため息まじりに言ったが、すぐに眉根を寄せ、雨吉の顔をまじまじと見据えた。

「そういやあんた、昨日の朝も、帳場に来てたね」

雨吉は肩をすくめた。

「その通り。施しに預かろうとね。だが、けんもほろろに追い払われましたがな」

「追い払ったのが不服だったかい?」

「とんでもない。女将の声があまりに見事で、夢にまで出てきましたよ……」

「惚けた口を叩くんじゃないよ」

お兼の目が光った。

「蓮屋の帳場から金がなくなったのは、朝。……あんた毎朝くるね、どうしてだい?」

雨吉の口の端がぴくりと引きつった。

「……あっしに疑いを?」

「疑うともさ! あんたの目が、あたしに貼りついてたのを、忘れたと思ったかい。……金目当てで蓮屋を狙ったんだろ? それとも、何かもっと、得体の知れない“わけ”があって――」

「落ち着きなせぇよ、女将さん……」

「うるさいッ!」

その叫びと同時に、帳場の灯がふっと揺らぎ、空気が一変した。

「……あたしを馬鹿にしなさんな、雨吉。蓮屋の金は、町の信用。みすずのことでも、気が立ってんのに……それを、あんたみたいな男が!」

お兼の背筋がぐい、と反り返った。

目が爛々と見開かれ、黒目がにじむように広がり、瞳全体が闇に染まっていく。

「このっ……盗人風情がァァ!」

声はもう人のものではなかった。

雨吉が一歩退いた瞬間、お兼の身体がぐらりと揺れ――
その背後、帳場の床にうっすらと黒い影が浮かび上がった。

ぬる、とした気配が床下から滲み出すように現れ女の形を成していく。

白い顔、紅の唇。
けれど、その両眼は何も映していなかった。
まるで──深い淵を覗き込むような、虚ろな“喰らうための顔”。

雨吉が息を呑む間もなく。
女は、地を這うようにぬらりと姿を滑らせ──

ガバッ!

唐突に、しなやかな四肢でお兼の背へと飛びかかる。
白く細く美しい腕と脚が、蛇のように女将を締めつけた。
紅い唇が、お兼の耳に吸い寄せられる。

かぷり。

耳朶(みみたぶ)に噛みつく、じゅるりと濡れた音が、部屋の静寂を裂いた。
お兼が硬直したまま、目を見開く。
その頬を、雨吉の視線が貫いていた。

女は、喰いながら、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
その瞳に、雨吉が映る──否、“見ている”のではない。
“見せている”のだ──この町に巣食う、底知れぬ“渇き”を。

そして──

ズズッ……

まるで背後の闇が突如、生き物のように動き出したかのように。
お兼の体がぐらりと仰け反り、
そのまま女とともに、闇に引きずり込まれた。

帳場の空気が、一度、すっと冷えた。
風もないのに、障子が微かに鳴る。
そして、元に戻った。

そこにはもう、誰の姿もなかった。

最後に残ったのは、空の湯呑と、かすかな余熱だけだった。



二階の客室――。

「……今、叫び声が……!」

「女将……だよな?」

角一と彦七が顔を見合わせる。

障子越しに聞こえた怒声と、異様な静寂。

「……やっぱり、あの物乞いが何か……」

「言うな……あいつに聞かれたら、今度は俺たちが……」

ふたりは声を潜め、布団に潜り込んだ。

外では、誰かが、唄っていた。

幼い子どもの声で。だが、それが誰かは、わからなかった。



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