耳あり芳一【第五話】祇園の鬼喰い③
──鐘の音、諸行無常の響きあり……
巻頭はコチラ
前回はコチラ
第三章 母の声、闇に沈む
◇
朝の気配が、祇園の町にうっすらと差し込む頃。
飴屋の暖簾はまだ上がっていなかった。屋内では、お春が寝所で身を起こし、背伸びをひとつ。
「……みすず、起きておくれ。お団子、練らにゃあ……」
声をかけるが、布団は冷たい。
「……ん? あれぇ……?」
立ち上がり、屋内をぐるりと見渡す。釜のそばにも、帳場の陰にも、みすずの姿はなかった。
「……まさか、また外へ……」
戸を開け、朝靄の中に顔を出す。町にはまだ人気がない。けれど、お春の胸には、奇妙なざわめきが走っていた。
――
◇
「歌いながら、裏手へ歩いていったんです。朝方、わたしが水くみに出たとき……」
そう証言したのは、茶屋の娘・お幸だった。
隣で頷くのは、花屋の娘・お花。
「ええ……たしかに。白い着物で、楽しそうに鼻歌を……。でも、なにを見てたんだろう……あの子、ひとりで笑ってた」
お春は二人の証言を聞きながら、ぎゅっと袖を握りしめた。
「そんな……みすず……」
思考が渦を巻く。町の外れ、川のほう? でも……それなら、なぜ戻らない? 誰かに――
そんな不安を打ち消すように、お春は声を張り上げた。
「蓮屋さんに……蓮屋さんに、みすずが来てないか、確かめてみる!」
そう言い残し、早足で町の中心へ駆けていく。
◇
蓮屋の帳場では、女将・お兼が朝の支度をしていた。
茶を淹れながら、まだ薄暗い町をぼんやりと眺めていると、戸口を叩く音がした。
「……はいはい、どちら様」
引き戸を開けると、立っていたのは息を切らしたお春だった。
頬はこわばり、目はうろたえた色で揺れている。
「お兼さん……! みすずが、うちの子が朝から帰ってきてないんです!」
お兼は眉をひそめた。
「え? まさか、また川遊びじゃ……いや、こんな時間に?」
お春は、首を振る。
「歌いながら出ていって、それっきりなんです。裏手の道を通って……もしかして、蓮屋に来てるかもって……!」
「……こっちには、来てないわ」
お兼はふっと口元を引き締めると、すぐに帳場の奥へ顔を向けた。
「安兵衛!」
「はい」
厨房から姿を現したのは、背筋の伸びた若い男――料理人であり、お兼の一人息子である安兵衛だった。
「近くを探してきな。……いいね?」
「わかりました。お春さん、一緒に行きましょう」
「はい……!」
お春は安兵衛の背中を追いながら、振り返り、お兼に深く頭を下げた。
お兼はそれに軽く手を振って応じると、もう一度、帳場に座り直した。
◇
静かな朝。
がらんとした蓮屋に、ひとりきりになったお兼が、ふと茶を啜ろうとしたそのとき。
「……へい、女将さん」
にゅう、と顔を出したのは、くたびれた蓑を背負った男。
雨吉だった。
「また、お恵みをいただきにあがりましたよぉ……」
その声は、やけに乾いていた。
帳場に現れた雨吉は、煤けた蓑を肩に掛け、にやついた面をこちらに向けた。
「……今朝のこと、聞きましたよ。あの飴屋の子が、唄いながら出ていったって」
お兼は帳場の奥から姿を見せ、冷たい視線を雨吉に向けた。
「何しに来たんだい、あんた」
「ただの世間話を、と思いまして」
「世間話ねえ……」
お兼はため息まじりに言ったが、すぐに眉根を寄せ、雨吉の顔をまじまじと見据えた。
「そういやあんた、昨日の朝も、帳場に来てたね」
雨吉は肩をすくめた。
「その通り。施しに預かろうとね。だが、けんもほろろに追い払われましたがな」
「追い払ったのが不服だったかい?」
「とんでもない。女将の声があまりに見事で、夢にまで出てきましたよ……」
「惚けた口を叩くんじゃないよ」
お兼の目が光った。
「蓮屋の帳場から金がなくなったのは、朝。……あんた毎朝くるね、どうしてだい?」
雨吉の口の端がぴくりと引きつった。
「……あっしに疑いを?」
「疑うともさ! あんたの目が、あたしに貼りついてたのを、忘れたと思ったかい。……金目当てで蓮屋を狙ったんだろ? それとも、何かもっと、得体の知れない“わけ”があって――」
「落ち着きなせぇよ、女将さん……」
「うるさいッ!」
その叫びと同時に、帳場の灯がふっと揺らぎ、空気が一変した。
「……あたしを馬鹿にしなさんな、雨吉。蓮屋の金は、町の信用。みすずのことでも、気が立ってんのに……それを、あんたみたいな男が!」
お兼の背筋がぐい、と反り返った。
目が爛々と見開かれ、黒目がにじむように広がり、瞳全体が闇に染まっていく。
「このっ……盗人風情がァァ!」
声はもう人のものではなかった。
雨吉が一歩退いた瞬間、お兼の身体がぐらりと揺れ――
その背後、帳場の床にうっすらと黒い影が浮かび上がった。
ぬる、とした気配が床下から滲み出すように現れ女の形を成していく。
白い顔、紅の唇。
けれど、その両眼は何も映していなかった。
まるで──深い淵を覗き込むような、虚ろな“喰らうための顔”。
雨吉が息を呑む間もなく。
女は、地を這うようにぬらりと姿を滑らせ──
ガバッ!
唐突に、しなやかな四肢でお兼の背へと飛びかかる。
白く細く美しい腕と脚が、蛇のように女将を締めつけた。
紅い唇が、お兼の耳に吸い寄せられる。
かぷり。
耳朶(みみたぶ)に噛みつく、じゅるりと濡れた音が、部屋の静寂を裂いた。
お兼が硬直したまま、目を見開く。
その頬を、雨吉の視線が貫いていた。
女は、喰いながら、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
その瞳に、雨吉が映る──否、“見ている”のではない。
“見せている”のだ──この町に巣食う、底知れぬ“渇き”を。
そして──
ズズッ……
まるで背後の闇が突如、生き物のように動き出したかのように。
お兼の体がぐらりと仰け反り、
そのまま女とともに、闇に引きずり込まれた。
帳場の空気が、一度、すっと冷えた。
風もないのに、障子が微かに鳴る。
そして、元に戻った。
そこにはもう、誰の姿もなかった。
最後に残ったのは、空の湯呑と、かすかな余熱だけだった。
◇
二階の客室――。
「……今、叫び声が……!」
「女将……だよな?」
角一と彦七が顔を見合わせる。
障子越しに聞こえた怒声と、異様な静寂。
「……やっぱり、あの物乞いが何か……」
「言うな……あいつに聞かれたら、今度は俺たちが……」
ふたりは声を潜め、布団に潜り込んだ。
外では、誰かが、唄っていた。
幼い子どもの声で。だが、それが誰かは、わからなかった。
※毎日夜7〜8時あたりに投稿しています。ハートマーク(スキ)押していただけると、とても嬉しいです。よろしくお願いします。
続きはコチラ
宜しければコチラもご覧下さい
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!