耳あり芳一【第五話】祇園の鬼喰い②
──鐘の音、諸行無常の響きあり……
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第二章 三文芝居と、闇に潜む声
◇
朝餉(あさげ)の匂いが祇園の裏道をくすぐっていた。湯気の向こう、濡れた石畳に春の光が滲み、昨夜の喧騒など嘘のように街は目を覚ましはじめる。
その一角、旅籠(はたご)「蓮屋(はすや)」の帳場前に、一人の男が腰を折っていた。みすぼらしい継ぎ接ぎの着物に、痩せた肩。杖にすがるそぶりで、深々と頭を下げているのは、物乞いの雨吉であった。
「お女将さん……どうか、ほんのひとつまみでも……米のとぎ汁でもよろしい……この通り……」
声はかすれ、芝居がかった咳払いがひとつ。雨吉はゆるりと顔を上げ、蓮屋の入り口に立つ女をじっと見上げた。
「……朝っぱらから、うるさいよ」
女将・お兼は薄汚れた暖簾(のれん)を片手で押しのけると、無遠慮に吐き捨てた。昨日、魚売りの藤兵衛と揉めた傷がまだ癒えぬらしく、目の縁に深い隈をつくっている。
「昨日の魚代、まだ払えてねぇのにさ。あんたにやるもんなんざ、あるわけないでしょ」
言葉の端が荒い。旅籠を取り仕切る者としては異例の振る舞いだが、それほど追い詰められているのだと、誰の目にもわかる。
「そりゃ、そうで……さァ」
雨吉はおどけたように肩を竦め、ゆっくりと立ち上がった。左足をわざとらしく引きずり、背を向ける。
「……心優しき町が、鬼になるとはなァ……」
その呟きだけが、朝の空気を裂くように残った。
お兼が言葉を返す前に、雨吉の背は路地裏へと消えた。
◇
蓮屋の土間には、朝の匂いとは別の、何か湿ったものが漂っていた。
「……今朝も、あの女将さん、気が立ってたねぇ」
茶屋「三福」の主人・団蔵が、湯気の立つ茶碗を撫でるように手に取りながら呟いた。相手は飴屋のお春である。暖簾(のれん)越しにふたりの会話を聞きながら、表で遊んでいたみすずが耳をぴくりと動かす。
「昨日の朝だよ、藤兵衛さんと、蓮屋でひと騒ぎあったの。魚代が払えなかったんだってさ」
「まさか、蓮屋が踏み倒すなんてな……」
「でも、見た人がいるらしいのよ。あの物乞い、雨吉がね。ちょうど帳場のあたりで、何やら覗いてたって」
「……ほう」
団蔵は目を細める。噂というのは不思議なもので、はじめは些細な話が、誰かの口を介すたびに膨らんでゆく。
「お兼さんが、金をごまかしたんじゃないかってさ。だから藤兵衛が怒って、あんなに怒鳴ってたって」
「けど藤兵衛もねえ、ちょっと短気が過ぎるよ。ああいう時は、穏便に──」
「でもさ」
と、お春が小さく声を落とした。
「藤兵衛の背中、切り傷があったらしいのよ」
「なに?」
「魚籠を放り投げたとき、背に……ね」
団蔵の顔が曇った。祇園は華やかな街の皮を被っているが、裏道には流言が巣食い、不安の種を植えるのも早い。
一方、蓮屋の二階座敷。参拝客の角一と彦七が朝餉を前に小声で話していた。
「……彦七、見たかい。今朝の帳場、物乞いが来ておったな」
「雨吉とかいう奴じゃろ。女将に追い払われていたが……」
「うむ。あの時の目つき……なんとも言えんかった」
「まるで、鬼を見るような目…いや、鬼に“見せている”ような目...」
二人はふと黙り込む。開け放たれた窓の向こうから、かすれた女の声が風に乗って流れてきた。
『......あれは、あの男が盗ったんじゃろう……』
角一は箸を止め、彦七が顔をしかめる。
「なんだ今の……?」
「風の音さ」
そう言ってみたものの、彦七の指が膝のあたりで震えているのを、角一は見逃さなかった。
◇
帳場にひとり、女将のお兼は膝に肘をついてうなだれていた。
今朝の出来事が胸の奥に鉛のように沈んでいる。雨吉の顔。あの物乞いの、どこか薄ら笑いを浮かべた目が離れなかった。
「……あれは、あの男が……」
誰が言ったかもわからぬ言葉が、耳の奥にへばりついて離れない。
何がどうなっているのか。魚代を支払えなかったのは事実だが、帳場の金箱に手をつけた覚えはない。いや、本当に……そうだったか?
お兼はふらりと立ち上がり、脇に置かれた金箱を見やった。古びた木箱の蓋には、誰かの指先が這ったような汚れが残っていた。
「誰が……触ったの?」
小さく呟いて、蓋に手をかける。
ギ……と軋む音とともに、箱の中がのぞかれた。
そこには、銀の皿のような銭が数枚、雑に重なっている。数が足りないように思えた。
けれど、それよりも。
銭のあいだに、何か……白く、小さなものが、ねっとりと絡みついていた。
それは――人の指先のような、白く細い何か。しかも、先端には赤黒く乾いた血のような斑点が滲んでいる。
お兼は咄嗟に蓋を閉めた。
「……見間違い、よ」
声に出してみたが、胸の奥は冷えていた。
そのときだった。
『......あれは、あの男が盗ったんじゃろう……』
帳場に人影はない。障子も閉じたままだ。だが確かに、誰かが囁いた。
耳元で、ぬるりと、濡れた舌が這うような声だった。
お兼は胸元を掻きむしり、ぐらりとよろけた。呼吸が浅くなる。
金を盗んだのは――藤兵衛ではない。
ならば……雨吉?
いや、帳場に入れるはずが……
「いや……わたしが……?」
ぶつぶつと、口が勝手に動いていた。
そこへ、娘の声がかかった。
「おかみさーん、お昼、どうします?」
常連の使いだった。返事をしようとしたが、喉が詰まり、声が出なかった。
ただ、首を傾けたお兼の目は、どこか虚ろに、見えない何かを見つめていた。
◇
翌朝の祇園は、しんと冷えていた。
蓮屋の帳場に座る女将・お兼は、朝の日差しを受けながら帳簿に筆を走らせていた。微笑みを絶やさず、通りすがりの町人には軽く頭を下げる。けれど、その背筋には、妙な硬さがあった。
「……おはようさん。泊まり客は、お変わりない?」
飴屋のお春が声をかけると、お兼は微笑んで答えた。
「ええ、お陰様で」
声は明るい。けれど、目の奥だけが、どこか乾いていた。
誰も口には出さなかったが、皆、一昨日の騒ぎを覚えていた。藤兵衛とのやり取り、魚代の未払い。雨吉の不気味な笑み。それらの余韻が、まだ町の空気に残っている。
そんな中、町の人々の口ぶりが、ほんの少しずつ変わり始めていた。
「……いや、旅籠の女将が金をごまかしたんじゃねえかって噂さ」
「そう言えば、昨日の晩、藤兵衛が独りごと言ってた。“あの女、妙に落ち着いてやがった”ってな」
「でも、あの物乞いの雨吉、何か知ってそうだったよな」
言葉はあくまで日常の延長のように交わされる。だがその奥には、じわりとした不安と、苛立ちが滲んでいた。
町の片隅で、雨吉は欠伸を噛み殺しながら座っていた。袖で鼻を拭い、飴屋の娘・みすずを目で追う。
みすずの影が、不自然に長い。
午前の光にしては妙に黒く、ぼやけて揺れていた。まるで、もうひとつの“何か”が、彼女の背中に寄り添っているように――
「母ちゃん、あのひと、ずっとこっち見てる」
「……見ちゃいけません」
お春がみすずの手を取り、足早にその場を離れた。
すれ違う町人たちは、挨拶もせず目を逸らし、舌打ちをする者もいる。穏やかだった祇園が、徐々にぎすぎすとした音を立てて軋み始めていた。
そして、蓮屋の二階の窓。
角一と彦七が、そっとその様子を覗いていた。
「……あの物乞い、只者じゃねえな」
「けれど、今さら口を出すのも厄介だ。こういう時は、静かにしているのが一番よ」
町の空は、春の柔らかな光を纏っていた。だが、陽のぬくもりはなぜか届かず、空気は冷え冷えとしていた。
祇園の一日が、きしりと軋む音とともに、静かに終わりへ向かっていた。
◇
夕刻、祇園の町に鐘の音が響く。
遠く、八阪の社からか、それとも別のどこか、名も知らぬ寺の古びた鐘楼か。
誰に告げるでもない、重く、低く、沈んだ音。
──ごぉぉん……
それを合図にするかのように、町の空気が一変する。
日が落ちた途端、通りを行き交う人々の顔つきが変わった。
口を結び、目だけが泳ぐ。
すれ違いざま、挨拶もなく、声もなく、足早に身を引いていく。
夕餉(ゆうげ)の支度をする家々の軒先からは、なぜか煙の匂いがしない。
箒の音も、子どもの笑い声も、犬の鳴き声さえも……消えた。
旅籠「蓮屋」の帳場では、女将・お兼が静かに立ち上がる。
誰もいないのに、襖を振り返り、しばし見つめた。
「……なんの、幻さね」
そう呟いて、帳場の襖を閉め、奥へと姿を消す。
その刹那――
わずかに開いた襖の隙間に、
血の気のない、白い指先のようなものが、ほんの一瞬、覗いた。
◇
角一と彦七は、蓮屋二階の一室にいた。
角一が窓を開け、ぽつりと呟く。
「なあ彦七……この町、どこかおかしくねえか」
「……言うな。言葉に出すと、目をつけられる」
そう答えた彦七は、声を潜めて布団に潜り込んだ。
窓の向こう――
飴屋の灯がちらりと揺れる。
幼いみすずが、何かを見ていた。笑っていた。
けれど、お春には、それが見えていなかった。
──その笑みの影に、ひとひらの“黒い羽”が揺れたことも。
──この夜、最初に消えるのは、誰か。
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