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耳あり芳一【第四話】夜桜百鬼祭⑥

今宵、桜のもとに集うは、百の鬼たち──


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第七章 清閑寺、夜桜百鬼祭




夜の清閑寺には、風も止み、息を潜めるような静けさが降りていた。

灯籠の灯は、揺れぬ。満開の枝垂れ桜は、月を覆い尽くし、闇のなかで静かに咲き誇っている。境内を埋め尽くすのは百の鬼──歯をむき、瞳を爛々と光らせる者。皮膚が裂けたまま笑い続ける者。骸のように痩せ、なお力の滲む大鬼。誰もが今、目の前の女を見つめていた。

「……さて」

紅の唇を綻ばせたその女は、桜の下で舞台の主役のようにたたずんでいた。白磁の肌、艶めく黒髪。清らかな着物の袖を払うと、鬼たちの間に冷たい緊張が走る。

「この場に集った皆さまに、お話をひとつ。夜桜に相応しき、百の怪異のうちの一つ」

声は涼しくも艶やかに、しかしその中に秘めた熱がある。鬼たちは無意識に背を伸ばし、耳を澄ませる。

「……それは、ある寺で起きた出来事」

女の語りが始まった。


◇◇◇◇◇

その寺は、山あいの道を登ったところにあった。

かつては参拝客が絶えず、春には花見、夏には施餓鬼、秋には月見、冬には除夜の鐘──四季折々の人が行き交ったという。

けれどある年、秋の彼岸を迎える頃だった。

一人、また一人と、参拝に向かったまま帰らぬ者が出始めた。

最初は山で迷ったのだろうと騒がれなかった。だが、三人、五人……十を超える頃には、噂が立ち始めた。

「寺には、何かが棲んでいるのではないか」


寺の者に話を聞くと、こう申したのです。

『我らは何も知らぬ。ただ……門の前に、いつも新たな草履が揃っているのです』

それも、誰も脱ぐところを見たことがないのに。

◇◇◇◇◇

女は一呼吸置いて、ゆっくりと視線を鬼たちに向けた。鬼たちは静まり返り、口をだらりと開いたまま見つめている。

「……そしてとうとう、その数が百に至った」

女の声がわずかに熱を帯びる。

「百人の草履。百の行方知れず。そう、誰も帰ってこなかった」

鬼たちがざわりと揺れた。目をぎょろつかせる者、喉を鳴らす者、背を丸め、地を這うように呻く者。

女はゆるやかに笑った。

「そうして、寺は閉じられました。いえ──閉じねばならなかった。だって……誰も、そこに踏み入ってはならなかったから」

女の声に、鬼たちの背筋が凍ったように凍りつく。

「百人が消えたその寺の名は、もう今は……誰も口にしません。なぜなら──」

女の瞳がきらりと光り、鬼たちの群れを見渡す。

「その寺は、清閑寺と呼ばれていたのだから」



鬼たちが、呻いた。

ぐおおぉおぉぉ……

ひいいいぃぃぃぃ……

くつくつくつ……ぶつぶつぶつ……


狂気と空腹に満ちた嗚咽が境内に響く。歯がガチガチと鳴り、舌がのたうち、体がうずき出す。

食いたい。あの女を。喰らい尽くしたい。甘い匂い。艶めいた声。あの肌を、あの髪を、骨ごと、魂ごと──。

女はそんな鬼たちの様子を、まるで愛でるように見つめていた。

「……頃合いですね」

そして、ゆっくりと歩を進め、目の前に立ち尽くしていた一体の鬼の前に立つ。

「どれ、一つ」

白い指が、その鬼の角をそっと摘んだ。

そして──

鬼の体が、すぅ、と。

……小さくなった。

嘘のように。呪いのように。

ごろりと転がった鬼は、今や苺ほどの大きさとなっていた。

女はそれを摘み上げ、ふわりと舌を伸ばし──

ぱく、と。

甘やかに、愛おしげに、それを口へと運んだ。

境内に、鬼たちの凄まじい悲鳴が響き渡る。



きゃああああああああ──!!

境内が、鬼たちの絶叫で満たされた。

誰も言葉を持たぬはずのその喉が、今や恐怖と絶望で引き裂かれるように吠える。狂ったように地を這い、爪を立て、牙をむき、地面を叩く。逃げ出す者もいた。だが逃げられない。枝垂れ桜の下、女の周囲はひたひたと瘴気に満たされていく。

女は頬に手を添え、うっとりとした表情で目を細める。

「……美味しい」

ぺろりと舌をなめずり、手のひらを拭うように口元に添えると、濡れた紅が桜の下に滴った。

震える鬼たちのあいだに、たしかに走ったのは──理解だった。

逃げられぬ。
勝てぬ。
抗えぬ。

あの女は、わたしたちの“上”にいる存在──

がるる……ぐぐ……ぐぎぃぃ……

呻きは悲鳴へ。悲鳴は懇願に、懇願は絶望へと変わる。

だが、女は優しく微笑んだままだった。

「皆さま、ありがとうございます。ここまで、よく尽くしてくれました」

誰もが叫び、暴れ、地を蹴って走り出す。鬼たちは次々と塀へよじ登り、石段を駆け下りる。しかし、逃げられない。足が竦む。内臓が反転するほどの恐怖が脳髄を貫き、膝が割れ、爪が砕け、体が千切れようとしても──逃げられない。

「もう、我慢できないわ」

女の声は、泣きたくなるほど甘く、美しかった。

そして、ふたたび一体の鬼に手を伸ばす。大きな口を開けた獣のような鬼が、掴まれた瞬間──

ぽすっ、と。

また苺のような大きさに。女は嬉しそうに口へ運ぶ。咀嚼音はない。飲み込む気配もない。ただ、確実に消えていく。

そのたび、鬼たちのなかに残っていた“餓え”が“悔い”へと変わっていく。

この女は、なぜ、こんなにも美しいのか。
なぜ、最初から気づけなかったのか。
なぜ、こんなにも、強いのか。
なぜ、わたしたちの主であったのか。

「ふふ、ふふふ……」

女は微笑みながら、境内をゆっくりと歩く。まるで桜の花びらを拾うように、優しく、しなやかに、鬼を摘んでは口に放る。

悲鳴。
呻き。
肉の匂い。

鬼たちの狂乱と断末魔の宴のなか──夜は、静かにふけていく。



しばらくして、誰もいなくなった境内。

枝垂れ桜だけが、夜風に揺れていた。

満開の花弁は、女の髪にひとひら落ち、やがて地に舞う。

女はふわりと着物の袖を払うと、月を見上げた。

「戻り橋が、開くまでは──」

声は、風に溶けていった。


第八章 清閑寺、和尚来たる




「ポク……ポク……ポク……」

それは、夜風のざわめきとは異なる、律動をもった音だった。
一定の間隔で響く、柔らかくも重い打音。木魚の音──仏の調べ。

枝垂れ桜の影に染まる清閑寺の境内に、その音が徐々に満ちてゆく。

女は、残された一匹の鬼を指先にぶらさげたまま、動かない。
その鬼は、もはや呻くことさえ叶わず、ただぶるぶると震えるばかりだった。

「……おや」

女の口元がほころぶ。
ゆっくりと振り返る視線の先、灯火もない参道の奥から、一人の男が歩いてきた。

墨染めの衣、背筋の伸びた姿。
木魚を手にぶら下げ、その音とともに近づくのは、──和尚だった。

「間に合ってしまいましたか」

女の声は、どこか楽しげで、どこか残念そうだった。

和尚は立ち止まる。
木魚を打つ手を止めずに、ただ一言だけ返す。

「……まだ間に合うかは、そなた次第よ」

「ふふ、そう言うと思いました。けれど、もう──」

女は目を細め、摘んでいた鬼をくるりと宙に回した。
その拍子に、苺ほどの鬼が断末魔のような悲鳴を上げる。

「美味しいところは、もう済んでしまいましたわ。」

「百……そろえてはならぬ数ぞ」

「揃ってなどいませんわ。まだ、あと一欠片ほど、足りない気がしますの」

桜の花びらが風に揺れ、二人の間を隔てて舞い落ちる。

和尚はそれを見つめながら、静かに地面へ木魚を置いた。
その動作に続けて、仕込み杖に手を添える。

女は足元に闇を這わせる。地に広がる、黒の花弁のような闇。
その中に、鬼たちの声なき声──痛み、恐れ、飢え、嘆き──が交じる。

しかし、和尚は動かない。杖を抜くことも、近づくことも、言葉を続けることもなかった。

「でも……今宵はもう、お腹いっぱいですもの」

女は鬼をくすくすと笑いながら口に放り込み、愛おしげに舌でなぞって飲み込む。

そして、身を翻す。

「……お暇しますわ。続きはまた、別の夜に。
 戻り橋に、門が開く頃──そのときに、また」

残された桜の香のなかで、女はゆっくりと闇に溶けていった。

その背を追うことなく、和尚はただ、仕込み杖から手を離し、夜空を仰ぐ。

「……成仏できぬものよ。
 戻り橋が開けば、現世までもが呑まれよう。
 それでも、なお地獄を望むか」

「ポク……ポク……」

……しん。

木魚の音が、最後の一音を響かせて消えた。


第四話 夜桜百鬼祭(終)


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