耳あり芳一【第四話】夜桜百鬼祭⑤
今宵、桜のもとに集うは、百の鬼たち──
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第六章 福知山、和尚来たる
◇
京へ至る道のり、山を越え谷を渡り、春まだ浅い風が肌を撫でるころ──
一人の僧が、丹波の国は福知山にたどり着いた。
墨染めの衣をたなびかせ、旅の塵をまといながら、まるで風のように現れたその姿。
顔は編笠に隠れて見えずとも、歩みに濁りはない。
――和尚。
その名も、誰が知ろうか。
ただ、彼の行く先には、必ず祓われし跡が残る。
「……この川か」
由良川。
古くからこの地を潤し、時には暴れ、そして静けさをたたえる。
いま、その岸辺に立った僧は、足を止めて水音に耳を澄ませた。
──コッ……
風か、それとも、太鼓の……?
遠く微かに、皮を叩くような音が混じる。
聞き間違いか、と人は思うが、この僧は違った。
「やはり……この地も、声をあげておる」
もともと、福知山は通るつもりのなかった。
だが、峠を下りたあたりで、どうにも胸の奥に鉛が刺さったような重みがあった。
道を変えたのは、足ではない──風に乗った声の導き。
「まだ間に合うかもしれぬ」
誰に語るでもなくそう言って、和尚は静かに町へ入っていった。
◇
市街の小路は妙に静まり返り、軒先の暖簾は風にまかせて揺れていた。
人々の姿は見えるが、どこか怯えたように、すぐ目を逸らす。
──夜になると、出る。
──鼓の音が聞こえたら、もう家から出るな。
そんな噂が、通りのあちこちに貼りついていた。
声に出さずとも、空気に染みていた。
「……坊さま、気ぃつけなされ」
ふいに、青果を並べていた老女が声をかけてきた。
「昨夜も鳴ったんや、ドンドコ、ドンドコ……由良川んとこや。こないだ、若い娘がひとり、帰らんようになってなあ……」
僧はうなずくと、一礼して通り過ぎた。
――どこかで、太鼓が打たれる。
それは、ただの音ではない。
怨念が打ち、鬼が集い、魂が吸い寄せられる、呼び鈴のごとき音。
そして今宵、またもそれが鳴るであろうことを、彼は知っていた。
◇
――ポン……
その瞬間、風が止まり、空気が軋んだ。
ポン……
春霞の向こう、川辺の闇に、小さな灯が一つ。
そして、囁くような鼓の音が、町の底からじわじわと這い上がってきた。
和尚はゆるやかに仕込み杖の柄へと手を伸ばす。
「──太鼓の音で鬼を呼ぶとは。風流とは言えぬな」
そして、由良川のほとりへ。
鬼が、待っていた。
◇
福知山の川辺。
夜桜の花びらが水面を渡る静けさの中に、異様な灯が揺れていた。
それは提灯でも、焚火でもない。
――太鼓の音が生んだ、怨の火。
その灯りに照らされるようにして、村人たちが無言で踊っていた。
子どもも、年寄りも、男も女も。
目に光はなく、口元は笑みに似た形で凍りつき、誰ひとり声を発さぬ。
くるり、くるりと、輪を描いて、足を揃えて、踊る。
その中央には、縄でぐるぐると縛られた一人の娘。
若い。白い襦袢は泥に汚れ、顔は涙と怯えに染まっている。
叫ぼうとしても声は出ず、ただ震えている。
その娘を囲むようにして、三体の鬼が立っていた。
鎧をまとい、能面をかぶり、手には武器の代わりに――太鼓。
赤黒く、骨のような縁。
張られた皮は、どこか人間の肌にも似ている。
それこそが、
――怨太鼓(おんだいこ)。
壇ノ浦に討たれた平家の兵たちの、無念の屍より削り出した骨。
怨念に染まった皮を張り、鼓として仕立て上げた、呪いの楽器。
この太鼓を打てば、霊を呼び、人を操り、恨みを晴らす“儀”が始まる。
鬼たちは、怨太鼓を順に打つ。
ドン……ドン……ドドン……
音の波に合わせ、村人たちが揃って回る。
輪が狭まっていく。
中心の娘へ、じり……じりと。
何のためか――
それは、生贄として、さらなる怨を育てるため。
◇
その時。
ポク……ポク……
まったく別の音が、夜に響いた。
低く、柔らかく、そして仏のように澄んだ――木魚の音。
「……目を覚まされよ。操られし人々よ」
その声に、振り向く者はない。
ただ、黒き影が、川辺の輪の外から現れた。
墨染めの衣に、笠を深くかぶり、静かに木魚を打ちながら進む――和尚である。
怨太鼓の音が、風となり、霊を揺さぶり、人の意志を縛っていく。
だが、木魚の音もまた、波紋のように広がっていた。
ポク……ポク……ポク……
輪の中へ、和尚が歩みを進める。
村人たちは動きを止めない。
鬼たちもまた、鼓の音に没頭し、和尚の気配に気づかぬ。
だがそのときすでに、
――結界は破られていた。
◇
「成仏せよ」
和尚は木魚を一度、強く鳴らし、
衣の中から、一本の杖を抜いた。
すらりと現れた銀の刃。
仕込み杖の中に隠されていた、祓いの剣。
一歩。風のように踏み出す。
ズバッ!
一体目の鬼の首が飛ぶ。
太鼓が裂け、中から黒い霧が渦を巻いて空へ昇る。
木魚が鳴る。
ポク、ポク、ポク――
二体目の鬼が気づき、面をこちらに向けるも、
すでに和尚の姿はひらりと背後に回っていた。
ヒュン……ズシャッ!
断たれる胴。裂ける太鼓。怨がほどける。
三体目の鬼が吼え、鼓を連打しようとした瞬間――
和尚の足元がふわりと浮いたように見えた。
音の波に乗り、舞うように。
刃は、鼓ではなく、鬼の腕を断ち切った。
その腕とともに、最後の怨太鼓が転がり、
湿った地面に打ち砕かれる。

◇
すべての鼓が、止まった。
輪を成していた村人たちが、次々に崩れ落ちる。
倒れ、息を吐き、目を見開く。
誰もが、自分がどこにいたのかさえ覚えていない。
囮にされていた娘も、解かれた縄から崩れるように倒れ込み、泣き出した。
怨の火は、消えた。
太鼓は割れ、鬼はすでに消え去った。
川辺には、ただ夜桜の花が散るばかり。
◇
その中を、和尚は静かに歩く。
木魚の音はすでに止み、刃も納められている。
誰かが名を呼んだようだったが、和尚は振り返らない。
夜の空を見上げ、ただひとこと。
「……急がねばなるまい」
そして、黒き影は森の闇へと溶け、姿を消した。
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