「できました」には四種類ある。できているのは、一つだけ
「できました」と、春田さんが言った。
その三十分後、客先で、それは開かなかった。
わたしは客先に「対応完了しました」とメールを送ったあとだった。
完了報告の三十分後に届く「開けないんですが」の電話ほど、受話器が重くなるものはない。
世界でいちばん重い受話器である。
事故そのものは、小さかった。
検証環境では動いていた。
本番の設定が、一箇所だけ古いままだった。
謝って、直して、その日のうちに閉じた。
問題は、そのあとである。
春田さんは、嘘をついていない。
彼女の中では、たしかに「できて」いた。
わたしの中でも、報告を受けた時点で「できて」いた。
客先だけが、できていなかった。
同じ五文字を使って、全員が別のものを見ていた。
この症状に、わたしは覚えがある。
「検討します」は意味の方言だった。
「なるはや」は速度の方言だった。
そして「できました」は、完了の方言である。
標準語の顔をした方言が、また一つ、うちの職場を歩いていた。
ラボなので、観測する。
それから二週間、部署内の「できました」を、聞くたびに手帳へ記録した。十二回。あとから一件ずつ、中身を確かめた。内訳を発表する。
「できました」には、四種類あった。
第一種、「書けました」。
作った。ただし、動かしてはいない。
十二回中、五回。最大派閥である。
第二種、「動きました」。
一回は動いた。
二回目のことは、誰も知らない。三回。
第三種、「確かめました」。
動かして、別の目で見直して、戻し方まで考えてある。
二回。
第四種、「祈りました」。
出した。あとは神様の担当である。
二回。
完了と呼べるのは、第三種だけである。
十二回中、二回。
あとの十回は、「できました」という名前の、別の何かだった。
観測を続けるうちに、聞き分けかたも、少しわかってきた。耳である。
春田さんの「できました」は、語尾が上がる。
「できました?」に近い。
佐藤さんの「できましたー」は、伸びる。
斉藤さんの「できました。」には、句点の音がする。
語尾は、本人も知らないうちに、完成度を白状しているのである。
体温計が脇の下で鳴るように、完成度計は、語尾で鳴る。
香りの話を、させてほしい。
三年前、スパイスカレーの沼に落ちた年である。
最初のレシピ本の最終工程に、こう書いてあった。
「香りが立ったら、できあがり」。
香りが立つとは、何や。
鍋からは、最初から香りしか立っていない。
クミンを油に入れた瞬間から、台所は異国である。
どの香りが「立った」で、どの香りが「まだ」なのか、初心者に判定できるはずがなかった。
わたしは三十分煮て、写真と色のちがう何かを皿に盛った。
家族は一口食べて、しばらく黙り、「……カレー?」と、疑問形で言った。作った本人の「できあがり」と、食べる人の「カレー?」。あの日、食卓の上で、完了の定義が割れていた。
三年経った今ならわかる。あのレシピの「できあがり」は、完了の定義ではなかった。あきらめどきの、目安だった。
話を戻す。
観測の仕上げに、春田さんに訊いてみた。
あの日の「できました」は、四種のどれやったんですか、と。
正直に言うと、少し責める気持ちが、なかったとは言えない。
春田さんは、下を向いて、それから言った。
「できましたって言わないと、遅いって思われそうで」
「ほんとうは……合ってるか、見てほしかったんです」
手が、止まった。
彼女の「できました」の中には、「見てください」が入っていたのである。言われなかったほうの言葉が、本体だった。
完了報告の顔をして、あれはレビューの依頼だった。
急かされていると感じている新人ほど、「できました」が早くなる。
第一種が最大派閥だった理由も、たぶん、そこにある。
五回の「書けました」は、五回の「見てほしいです」だったのかもしれないのだ。
わたしは彼女の五文字を、ゴールテープだと思って受け取っていた。
ちがった。あれは、バトンである。
「できました」は、ゴールテープではなく、バトンである。
受け取る者が走らなければ、リレーはそこで止まる。
わたしはバトンを受け取った手で、そのまま客先に万歳をしていたのである。落としたのは、彼女ではない。
ついでに、直視したくない監査もしておく。
あの日、わたしが客先へ送った「対応完了しました」は、四種のどれだったのか。
第四種である。
いや、検証環境の画面すら開かずにメールを打ったのだから、祈ってすらいない。第四種より、下だった。
そして気づく。
方言は、連鎖するのである。春田さんの「書けました」が、わたしの手元で「できました」になり、客先へ届くころには「完了しました」になっていた。
伝言ゲームと同じで、人を経るたびに、言葉の完成度だけが上がっていく。実物は、一ミリも変わっていないのに。
いちばん敬語が立派になったところで、開かなかったのだから、世話はない。
翌週から、課の運用をひとつ足した。
「できました」には、あとの一行を添える。
何で確かめたか、まだ何が残っているか。
「できました。検証環境で三回、本番設定は未確認です」。
長くなったぶん、五文字の方言は、ずいぶん標準語に近づいた。
第三種の比率は、二週間で十二分の二から、半分近くまで上がった。
完了は、言った人ではなく、受け取った人が決める。
そう課内に偉そうに宣言した週の、金曜の夜である。家族に言われた。
「ゴミ、出しといてくれた?」
「できてる」と、わたしは答えた。
玄関を見た家族が、戻ってきて言った。
「袋、玄関に置いてあるだけやけど。あれは『できた』やなくて、『移動した』やで」
第一種であった。
四種の分類を提唱した男が、家庭では最大派閥の常習犯だった。
わたしの「できてる」の中に入っていたのは、「見てほしい」ですらない。「言われる前に片付けた気になりたい」である。四種の下に、第五種が見つかった週末だった。
翌朝、袋を収集所まで持っていった。
カラス除けのネットまで、かけ直した。第三種である。
昼からは、カレーを煮た。香りが、立った気がした。
今回は先に、家族に味見をしてもらってから、できあがりにした。
他にも、「なるはや」は、速度の方言だった話や「検討します」は意味の方言だった話も書いています。
良かったら、見ていってくださいね。
