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「森下打ったよ」と声をかけたら、微笑んだ。野球を聴き続けた最期の1週間

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はじめに

「森下打ったよ」

そう声をかけると、その方は微笑んだ。

亡くなる10日前くらいまでの話だ。食事はもう摂りづらくなっていた。声を出すのもしんどそうだった。それでも、野球の話をすると微笑んでくれた。

その方は、私の小学校の同級生のお父さんだった。

特養に入所されて4年。歩行器を使った訓練を続け、夜中に自主訓練でこけては事故検討会の議題になり、機能訓練が終わるたびに「お疲れさん」と言ってはちみつ入りのコーヒーをおごってくれた人だった。

私は作業療法士として16年、特別養護老人ホームで働いている。100人近くの方の最期に立ち会ってきた。その中でも、忘れられない方がたくさんいる。

今日書きたいのは、その中の一人の話だ。

野球が好きで、家族を愛していて、不器用で、優しかった一人の人の話。

第1章:入所してきた、同級生のお父さん

その方が私の施設に入所してきたのは、近隣の連携病院からの紹介だった。

パーキンソン病を抱えながら、別の疾患で入院していたらしい。退院時の状態は要介護4。歩行器を使えばギリギリ歩ける、という段階だった。Hoehn & Yahr分類で言うとⅢからⅣの間。会話はできるけれど、声は小さい。表情の動きも乏しい。それがパーキンソン病の特徴だ。

入所手続きを進めるためにフェイスシートを受け取った。住所を見て、「あれ?」と思った。私の家から歩いて10分ほどの距離だった。家族構成の欄を見ると、娘さんの名前が、私の小学校の同級生と同じだった。

ただ、姓が変わっていたので、確定ではなかった。結婚して名字が変わった可能性もある。同姓同名の別人かもしれない。中学・高校は別の学校だったので、しばらく会っていなかった同級生でもあった。

しばらくして、本人と話すうちに分かってきた。

娘さんは、間違いなく私の小学校の同級生だった。

そう告げると、その方は驚いていた。そしてとても喜んでくれた。

「あんた、〇〇の同級生か。世間って狭いなあ」

そんな感じで、その日から私とその方の関係は、ただの「機能訓練指導員と利用者」を超えたものになっていった。

第2章:夜中1時の自主訓練と、事故検討会の常連

その方は、とにかく歩けるようになりたい人だった。

「歩きたい」という執着が、本当に強かった。要介護4で、パーキンソン病もあって、歩行器でギリギリの状態。それでも、毎日少しでも歩けるようになることを目指していた。

私との機能訓練では、歩行練習、立位バランス練習、筋力増強、関節可動域訓練を中心に組んでいた。日中の訓練だけでも、決して軽い量ではなかった。

でもその方は、それだけでは足りなかった。

ベッドの横にビニールテープでラインを引いて、そのラインを踏まないように手すりを持って歩く練習を、自分でやっていた。スクワットも自主的にやっていた。

それを、夜中の1時にやることがあった。

夜勤の介護職員と、よく揉めていたらしい。

「〇〇さん、もう寝る時間ですよ」 「いや、歩きたいんや」 「夜中ですから」 「ちょっとだけ」

そんなやり取りが、毎晩のようにあったと聞いている。

しかも、自主訓練の最中にこけることが何度もあった。月に2回くらいのペースで、こけていた。

不思議なことに、ケガは1回もしなかった。打撲もなし、骨折もなし、ただ尻もちをつくか、転がるかで済んでいた。それでも、施設としては事故扱いになる。

事故検討会の常連だった。

「またですか〇〇さん」と、半ば呆れながら、職員みんなが対応していた。私も含めて、もうどうしようもないという感じだった。本人が「歩きたい」のだから。

ただ、これは作業療法士として正直に書いておきたい。

その「歩きたい」という気持ちこそが、その方の生きるエネルギーだった。

夜中にこけて事故扱いになっても、それでもやめない。それが「自分の意志で生きている」ということだ。職員に止められても、自分の身体で歩くという作業を続けていた。

「意味のある作業」という言葉がある。誰かに言われてやらされる活動には心が動かないが、自分にとって意味のあることに触れた瞬間、人は変わるという作業療法の基本理念だ。

その方にとって、歩くことは「意味のある作業」そのものだった。

そしてもう一つ。機能訓練が終わるたびに、その方は私に「お疲れさん」と声をかけてくれた。そして、はちみつ入りのコーヒーをおごってくれた。

私の施設はユニットケア型なので、各ユニットにコーヒーやジュースが常備されている。介護職員さんがコップに注いで利用者さんに渡す。その方は、自分用のはちみつを持ち込んでいた。介護職員さんがコーヒーを淹れて、その上からご自分のはちみつをカップの3周、4周とまわし入れる。それが、その方の好みだった。かなりの甘党だった。

「娘の同級生に世話になっとるからな」

そう言いながら、何度も何度も、私に手渡してくれた。施設としては、本来こういうのは丁寧にお断りすべきところだ。でも、断れるはずもなかった。その方の気持ちが、それだけで分かったから。

私と訓練後にコーヒーを飲む時間が、その方にとっての楽しみの一つだったのだと思う。

夜中1時の自主訓練でこける人と、機能訓練後にはちみつコーヒーをおごってくれる人。同じ人の中に、その両方があった。

第3章:野球の話で笑顔になる人だった

その方は、野球全般が好きだった。

中でも特に好きだったのは、高校野球。息子さん・娘さんが地元の強豪校のOB・OGだったこともあって、母校の試合は欠かさず観ていた。センバツ・夏の甲子園の時期は、居室で長時間テレビをつけていた。

次に好きだったのが、メジャーリーグ。大谷の試合は朝から流していた。

そしてプロ野球。阪神タイガースのファンだった。

順番でいえば、高校野球、メジャー、プロ野球の順。

朝、機能訓練のためにフロアをラウンドしてその方の部屋に行くと、自然と野球の話になった。

「大谷、昨日もホームラン打ちましたね」 「おお、見たか。すごいなあ」 「昨日の阪神、勝ちましたよ。森下が打ちました」 「ええなあ、森下は若いのにようやっとる」

声は小さかった。パーキンソン病で口唇周囲の筋肉が痩せていたから、はっきりとした発音は難しかった。それでも、野球の話をしている時のその方は、明らかに表情が動いた。

パーキンソン病は、表情の動きが乏しくなる病気だ。「仮面様顔貌」と呼ばれる症状がある。笑顔が分かりにくくなり、感情表現が外から読み取りにくくなる。家族の方が「何を考えているのか分からない」と感じるのは、この症状のせいだ。

でも、その方は、私には分かりやすく笑ってくれた。

口元が少し動く。目元の力が抜ける。声のトーンが少し上がる。それだけのわずかな変化だけれど、私には「今、この人は嬉しいんだな」と分かった。

野球の話が、その方の表情を取り戻してくれていた。

そして2026年、WBC(ワールドベースボールクラシック)が開催された。

この大会、地上波では一部の試合しか放送されず、Netflixでの独占配信が話題になった。利用者さんたちは普通には観られない。

私は、Netflixに登録した。

正直に言うと、自分が観たかったのもある。でも、施設の野球好きの利用者さんたちと一緒に観たい、という気持ちの方が大きかった。特に、その方と一緒に観たかった。

準々決勝、対ベネズエラ戦の日、私はフロアのリビングに野球好きの利用者さんを集めた。もちろん、その方も連れてきた。

大谷が初回先頭打者ホームランを打った。

リビング全体が沸いた。声が出せる利用者さんたちは「おおっ」と声を上げた。私も「やった!」と声を上げた。

その方は、声は出さなかった。でも、少し嬉しそうな顔をした。

その横顔を、私は今でも覚えている。

野球が、その方と私たちをつないでくれていた。

第4章:「急に食べられなくなった」と聞いた日

その日、私は休みだった。

翌日出勤すると、看護師から申し送りを受けた。

「〇〇さん、昨日から急に手足を痛がって、食事もほとんど摂れなくなりました」

その瞬間、頭の中で何かが引っかかった。

ただ、私が出勤したその日は、本人が手足を痛がる様子はなかった。「昨日は痛がっていたけれど、今日は落ち着いている」というパターンは、特養ではよくある。一過性のものかもしれない、と思った。

それでも念のために、ポジショニングを再確認した。褥瘡を作らないように、できるだけ安楽な姿勢を作る。クッションの位置を調整して、骨の出っ張りに圧がかからないようにする。介護職員さんと看護師さんに状況を共有して、夜間の体位変換も丁寧にお願いした。

正直に言うと、この時点で私は、その方が亡くなるなんて全く想定していなかった。

10日前まで、大谷の話で笑ってくれていた。

WBCの話で、嬉しそうな顔をしていた。

それなのに、なぜ急に。

そう思いながら、その日の午後も、その方の居室に何度か顔を出した。野球の話を少しだけ振った。返事は弱々しかったけれど、それでも野球の話には反応してくれた。

「森下打ったよ」

そう声をかけると、ほんの少し、口元が動いた。

それが、いつもの微笑みだった。

第5章:野球を流し続けた、最期の1週間

その日から数日間、その方の状態は徐々に悪くなっていった。

食事はほとんど摂れなくなった。水分も少しずつしか飲めなくなった。声を出すのもしんどそうだった。

それでも、耳は最後まで聞こえると言われている。亡くなる直前まで、聴覚は残るというのが、看取りの現場でよく言われる話だ。

だから私は、その方の居室で、できるだけ野球の試合を流し続けた。

その方が一番好きだったのは高校野球で、次がメジャー、3番目に阪神。でもこの時期、高校野球はシーズンオフだった。だから、メジャーの大谷の試合と、阪神の試合を、できる限り流した。

森下が打席に立つ日も、村上が登板する日も、必ず流した。

その方の枕元で、私は声をかけ続けた。

「森下打ったよ」

「村上抑えてるよ」

「大谷、今日もホームランやって」

「今日タイガース勝ちそう」

返事は、ほとんど返ってこなくなっていた。

それでも、声をかけたタイミングで、口元がわずかに動くことがあった。目が少し開くこともあった。「聞こえているんだな」と分かる瞬間が、確かにあった。

私は1日に5回くらい、その方の居室に顔を出した。フロアをラウンドして、その方のいるユニットに来た時は、必ず立ち寄った。

機能訓練がない日でも、声をかけに行った。

亡くなる5日くらい前から、苦しそうな呼吸が続くようになった。酸素マスクを装着することになった。それでも、声をかけると、辛うじてうなずいてくれることがあった。

それが、その方の最期のコミュニケーションだった。


ここで一つ、私が大切にしている考え方を書いておきたい。

特養での看取り期、私が機能訓練指導員として一番大事にしているのは、ポジショニングだ。

寝たきりになった利用者さんが、長時間同じ姿勢で過ごすと、骨の出っ張った部分の皮膚が壊死してしまう。床ずれだ。看取り期は、特に床ずれができやすい時期だ。動けない時間が長くなり、皮膚への圧迫が続くからだ。

それを防ぐために、クッションを使って姿勢を整える。骨に圧がかからないようにする。利用者さんが少しでも楽な姿勢で過ごせるように調整する。

その方のポジショニングは、最期の1週間、何度も見直した。介護職員さん、看護師さんと連携して、24時間体制で姿勢を整え続けた。

その方は、最期まで、褥瘡を作らずに逝かれた。

これは、OTにしか感じられない、独特の達成感だ。「最期まで身体を守れた」という、深い安堵感。

それと同時に、野球を流し続けた。耳は最後まで聞こえているから。

身体を守ることと、心に届けること。この両方が、特養OTの看取りの仕事だと思っている。

第6章:娘さんに、会いたかった人

亡くなる2日前、娘さんが面会に来てくれた。

娘さんは、私の小学校の同級生だ。でも遠方に住んでいて、子育ても大変な時期で、なかなか面会には来られなかった。

4年間で、私が娘さんに会ったのは2回だけだった。

最初の1回は、入所してすぐの頃。手続きで施設に来てくれた時に、少しだけ話した。

そして2回目が、亡くなる2日前のこの日だった。

娘さんと、20分くらい話した。私の機能訓練の合間に、面会室で。

「父が4年間、お世話になりました」

そう言ってくれた娘さんに、私はこの4年間のことを話した。夜中に自主訓練でこけて事故検討会の常連だったこと。機能訓練後にはちみつ入りのコーヒーをいつもおごってくれたこと。野球の話で笑ってくれたこと。WBCを一緒に観たこと。

娘さんも、私が知らないお父さんの話を聞かせてくれた。

そして、こんな話をしてくれた。

「父、あんたと会わせたかったって、何度も電話してきてたんよ」

私はその瞬間、言葉が出なかった。

入所してから、私が娘さんの同級生だと分かってから、その方は娘さんに何度も電話していたらしい。携帯電話を使って、わざわざ。

「桐の葉と会わせたかった」

そう、嬉しそうに、何度も電話で伝えていたという。

実は1年ほど前、私が休みの日に、娘さんが面会に来ていたことも、その時初めて知った。私は知らなかった。会えなかった。

その方は、娘の同級生である私が、娘さんと会ってくれることを、ずっと待っていた。

機能訓練後にはちみつ入りのコーヒーをおごってくれたのも、夜中の自主訓練を続けたのも、野球の話で私に笑顔を見せてくれたのも、全部、その方なりの「ありがとう」だったのかもしれない。

「娘の同級生に世話になっとるからな」

その口癖が、最期になってようやく、本当の意味で響いた。

娘さんと会えたのは、結局、亡くなる2日前のこの日だった。

その方は、その日、もう言葉を発することはほとんどできなくなっていた。それでも、娘さんが来てくれたことは、伝わっていたと思う。

聴覚は、最後まで残るから。

おわりに

その方は、亡くなる10日前まで、大谷の話で笑ってくれた。

亡くなる5日前まで、酸素マスク越しに、辛うじてうなずいてくれた。

亡くなる2日前、娘さんに会えた。

そして静かに、逝かれた。

褥瘡はなかった。最期まで、その方の身体は綺麗なままだった。

特養で、私はもう100人近くの方を看取ってきた。

その中で、その方のことを今でもよく思い出す。

夜中1時の自主訓練でこけて、事故検討会の常連だった人。

機能訓練が終わるたびに、はちみつをカップの上から3周、4周まわし入れたコーヒーを、私におごってくれた人。

パーキンソン病で表情が乏しいはずなのに、私には分かりやすく笑ってくれた人。

WBCの大谷の先頭打者ホームランで、声を出さずに少し嬉しそうな顔をした人。

娘さんに「桐の葉と会わせたかった」と、何度も電話していた人。

歩いて10分の場所に住んでいた、私の小学校の同級生のお父さん。


「最後の1%が幸せなら、その人の人生は幸せだ」

これは、私が特養での仕事の中で大事にしている言葉だ。

その方の最後の1%は、幸せだったのだろうか。

正直、答えは分からない。

ただ、亡くなる10日前まで野球の話で笑ってくれていた。亡くなる2日前に、ずっと会いたかった娘さんと会えた。最期まで、褥瘡なく、できるだけ安楽な姿勢で過ごせた。

それで十分なのかもしれないと、私は思っている。

そして、私自身にとってこの4年間は、本当に大切な時間だった。

野球の話で、誰かが笑ってくれる。

それだけのことが、こんなにも尊いのだと、その方が教えてくれた。

今日も、特養のどこかで、誰かが最期を迎えている。

私は今日も、その人の枕元で野球の試合を流すかもしれない。

声をかけ続けるかもしれない。

それが、私の仕事だ。

そして、その方が私に教えてくれた、看取りの形だ。


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